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6話

 冷えきった空気が頬の皮膚を切り裂く。

 思わず蹲った体が震え、凍える感覚が脳髄まで突き刺さる。


 俺はその寒さに耐えきれず図らずも目を覚ました。


「……寒すぎるだろ……! 凍え死ぬかと思った……」


 咄嗟に腕で自分を抱きしめるようにしながら、冷えた身体をさする。


 幸いにも家などを区切る外壁があったおかげで、凍え死ぬ事はなかった。

 さすがに指先は悴んでいて、動きもどこかぎこちない感じはしても生死に直結するものでもない。


 それにしても、どれくらい寝ていたのか感覚が曖昧だ。七時間程度だろうか、空はすでに茜色で深い紺へと沈みつつあった。周囲は薄暗い。


 西の空には、燃えるような夕陽が沈みかけていた。オレンジと赤の混ざり合った虹彩が、鋭い光となってアスファルトを照らしている。

 夢であってくれと願っていたが、そんなご都合主義な展開は許してくれないらしい。現実は相当無慈悲なようで、正直眠っている間に殺された方がまだマシなのではないか?    


 あのバケモノも視界に入れず瞬殺される方が幸せで、何よりもこの世界で生き続ける方が余っ程地獄のように感じられる。


「はぁ、…………くそっ!!」


 こんなときに限って、スマホのバッテリーは完全に切れている。連絡すら取れない。


 家族にメッセージ一つ送れないというのがこんなにも心細いとは。

 早く誰かに文句の一つや二つ言いたい。そんな思いを抱きつつ、肩をすくめて立ち上がると、靴底がざらりと砂利を擦った。

 何の変哲もない音が鋭敏になった意識もろとも触発してやけに耳に劈く。ストレス指数が増幅されている。


 俺は重い足を前に出し、家路を辿る。

 誰もいない通りを一歩ずつ歩くたびに、靴音が虚しく響いた。


「……荒れてるな」


 住宅街はまるで廃墟のようだった。

 所々、玄関の扉は閉まりきっておらず、カーテンは破れたまま。割れた窓の向こうには、暗闇がぽっかりと口を開けている。


 空気には血と腐臭が混ざったような強烈な臭いが漂っていた。腐った肉、生臭さと酸っぱい刺激臭。思わず鼻をつまみたくなるものだった。


 死体。間違いない。すぐそこに、いや、たぶんこのあたり一帯に、いくつもある。


(やばいな……早く帰らなきゃ)


 家の中は、安全であってほしい。せめて、家族だけは無事でいてほしい。

 怖い。暗くなるにつれて余計に危ない。


 それに、この寒さだ。現在の気温は七度、またここから二度ほど下がりそうだ。北海道に比べればまだ幾分かマシにしても、雪国出身ではない俺からすればこの寒さは身がもたない。


 この中で凍え死ぬのは一目瞭然。ひとまず、一刻も早く家に帰らないとみんなが心配だった。俺が家を出てからちょうど七時間ほど。


 ああ、やっぱり手が震える。寒さのせいだけじゃない。

 曲がり角を慎重に確認する。

 ──よし、誰もいないし何もいない。


 その静寂が逆に不安を強く煽り立てる。あまりに静かすぎて、まるで世界に俺ひとりしか残っていないような錯覚さえする。

 あまりにも心細くこの空気感に怯んでしまう。


 耳を澄ませば、風に揺れる電線の音と、遠くで吠える犬の声だけが聞こえた。


(生きてるのは、俺だけじゃないよな……?)


 街灯の明かりがちらちらと揺れて光の輪が地面に伸びては歪み、何かがそこに立っているように見える。でも、何もいない。ただ、空虚な音と揺れる影だけ。


 俺はそれ以上見ないようにして、肩をすくめて足を速めた。


(家に……帰らないと)


 そう、早く帰らないと。家に帰れば、きっと温かい部屋があって、母さんが笑ってくれる。父さんはニュースを観ながら溜め息をついてるかもしれない。

 とりあえず、自分の家族が助かっている事だけを願って、それだけが俺の唯一の救い。



 この角を曲がれば──


「…………ッ!! これ……は?」


 角を曲がったとき、思わず足を止めた。


 ──灯りがついていた。

 仄暗い住宅街の中でただ一つだけ、我が家の玄関灯だけがぽつんと光っていた。


 誰もが閉じこもって灯りを消しているはずの状況で、それは異様だった。


(……なんで、俺の家だけ……?)


 心臓が早鐘を鳴らす。嫌な予感が、胸の奥で蠢いていた。

 玄関前に立つと、靴の裏がぬるりと何かを踏んだ。水か何かか? いや、違う。これは──血だ……。


 赤黒く乾きかけたそれは玄関のドアの隙間から滲み出ており、玄関前の白い乱石タイルにまで流れ出て扉の前をグロテスクに染め上げていた。喉がひゅっと狭くなり、息がうまく吸えない。


 恐る恐るドアノブに手をかけると、自分の思いとは裏腹にすんなりと回った。

どうにも鍵は、かかっていないようだった。


(……鍵かかってないなんて、嘘だろ? 母さんたちは絶対にかけるのに……)


 あり得なかった、あり得なかったのだ。

 俺が毎度の事ながら、鍵を閉め忘れた日には鬼の形相で説教を垂れてきた両親がこの期に及んで閉め忘れたとは考えにくい。

 イレギュラーな事態だと踏んでも腑に落ちない。


 眼下の乾いた血だまりに逡巡しながら、勢いよく玄関の扉を押し開けた瞬間──生臭い空気が顔面に叩きつけるように溢れてくる。


 鉄と血の混ざった臭い。強烈な悪臭。目が潤むほどの刺激臭。

「……げほっ! ぐっ……臭い……」


 反射的に口元を押さえる。足元には両親の靴があり、血がべっとりと付着している。


(いる……いるんだ、家の中に……!)


「……ただ、いま」


 震える声が自分の耳に情けなく響く。リビングへの道を進む。


 ああ、やめてくれ……この足音が怖い。そっとリビングに繋がるドアを開ける。

 いつものように暖かい家庭が迎えてくれる事を信じて。騒がしいバラエティ番組がテレビから流れている事だけを信じて。


「………………ッ!?」


 しかし、迎えてくれたのは母さんの笑顔でもない。はたまた、父さんがニュースを見て呆れた様子で溜め息を吐く姿でもない


 ──赤く染まった床。そこに倒れて動かなくなった、母さんと父さんの姿だった。

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