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4話

 黒く爛れた肉の塊。背は天井に届くほどで、関節の位置すら曖昧な無数の腕。


 その中心に、爛々と光る大きな目があった。

 明らかに人間ではない。仮に都合よくコスプレだと解釈するにしてもそうは思えない奇っ怪な雰囲気を醸し出す。


「やだ、やだ……お願い、たすけて……!」


 女性がパンプスを小さな段差に引っ掛けて痛々しく顔から転び、踊り場まで転げ落ちていく。

 膝を打ったのか立ち上がれずに苦悶の表情を浮かべながら階段の上にいるバケモノを見上げていた。もうそれしかできないに違いない。


 周囲の人々は悲鳴を上げて一目散に逃げている。地を揺らす無数の足音が聞こえるだけで誰一人、彼女の手を取ろうもせずにバケモノとは反対の方向に走り始める。


俺は動けなかった。硬直して、一歩も。

──名も知れぬ彼女の最後は悲劇的だった。


 涙を滴らせ、折角のアイメイクも崩れてぐしゃぐしゃになった顔面。

 そのままバケモノの腕がまるでアリを潰すかのようにして顔まで手を伸ばす──それから、彼女の上半身を握り潰したのだ。


 肉の破裂音、ボキボキと骨が砕ける音。血飛沫が階段を赤く染める。血は俺の顔まで飛ぶと、足元にちぎれた女性の顔面が転がってきた。


 見てはいけない、と頭では理解しているはずなのに視線が固定される。

 脳が現実として処理するのを拒んでいるのに五感がすべてをはっきりと受け取ってしまう。世界の終末を目の前で見ていると言われても釈然とする。


「う……うぁ……ッ……!」


 喉から声が漏れた。足が震え、膝が笑う。

 呼吸が浅くなる。


 バケモノはひとしきり殺戮なる遊戯を尽くしたあと、視線をこちらに寄越す。目が合った。


(やばい、やばいやばいやばいやばい……!)


 殺される。そう、直感した。

 血の気が引いてなんだか腕も痺れる。


(……おい、動け……はやく動けっ!)


 叫ぶように心の中で命令する。

 けれど、足から地面に大きな根でも張っているかのように動かない。

 恐怖が脳を支配し、全身の筋肉が痺れていたのだ。その間にも、あの目は俺を捉えていた。確実に、俺という個体を認識している。


 選ばれた。次に殺されるのは俺だ。


「──────ッ!」


 次の瞬間、目の前で床が粉砕した。バケモノの腕が地面を叩き割ったのだ。

 飛び散った破片が頬をかすめ、ようやくその瞬間的な痛みで現実に戻る。


「……はっ、……ッ、くそっ!! 一体なんなんだよ!!!」


 叫ぶと同時に背を向けて走り出した。意識するよりも先に体が動いた。


 とにかく遠くへあれから離れる事だけを考えて、脇目もふらず駅の構内を駆け抜ける。

 人混みをかき分け無我夢中で出口を目指す。悲鳴、怒声、誰かが転び、そして誰かが泣いている。


 もう、それを気にしている余裕なんてなかった。背後で、またズシンと何かが跳ねた音が響いた。

 バケモノが移動している。きっと俺を追ってきているに違いない。


「やめろやめろ、やめろやめろッ……!」


目前に大きな階段があり、数段飛ばしで素早く階段を下りる。改札を無視して飛び出す。

 警報が鳴ってゲートが赤く点滅するが構っていられない。


(逃げろ、逃げろ逃げろ! 止まったら、もう終わりだ!)


 足が痛い、息が切れる。肺が焼けるように苦しい。


 けれど止まったら、死ぬ。あの女の人みたいに潰される。そうならない為に──


「はぁっ……はっ、あ、あぁあっ!」


 駅の外へ飛び出すと、目の前はさらに地獄だった。

 車が歩道に突っ込み、店の窓ガラスは割れ、逃げ惑う人々がぶつかり合って倒れている。

 誰かが叫び、誰かが泣き崩れ、誰かが……もう動かなくなっていた。


 無論、それらが立ち止まる理由にはならない。


「ッ……くそっ!」


 曲がり角を右に折れ、路地裏へ逃げ込む。

 人気のない細い通路を選び、金網を乗り越え、住宅の裏手へ回り込む。

 ここは知らない道だ。でもそんな事はどうでもよかった。


 早く安全な場所に行かないと殺されてしまう。野生の防衛本能が働き、脳が必死に逃げろと緊急信号を出していた。だから俺はひたすら走った。

 足がもつれ、転びそうになってもそれでも走った。

 自分の命の為に走った。


 そして数分後──息が続かなくなり、ようやく見知らぬ裏路地でへたり込む。


「……っ、はぁ……はぁっ……!」


 荒い息。喉が焼ける。

 心臓が耳の奥で爆音を鳴らしている。


 もう、追ってきてはいない。今のところは助かった……のか? でも、あの目の感触は焼き付いたままだ。あれは……間違いなくバケモノだった。


 全人類が同時に見た夢。それが現実になったのなら──俺たちは、人類はどうすれば良いのだろうか。

 思考は果てしない迷宮を彷徨い、答えのない問いだけが頭の中で螺旋を描く。


 不安と恐怖が交錯していた。

冬に激しく動いたせいで口内は血の味で満たされている、最悪の気分だ。


「クッッッソ……どうしたもんか。今から家に帰ろうにも少し遠いな」


(ひとまず、何か使える物は……)


 鞄の中を漁り、俺はある程度武器になるものを探した。また何かが出る可能性を見込んでの事だった。

 もちろん遭遇すれば逃げるのが大前提なのだが、流石に万が一、最悪の場合はやってみるしかない。

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