最終章
ひどく暗いところだった。
光も何も無く、ただただ暗い。
息をしているのかすらわからなかった。鼓動の音すら耳に届かず、意識の輪郭さえ曖昧だった。
まるで世界から取り残されたような──あるいは、世界そのものが終わってしまったあとの何もかもが静止した虚無のような場所。
そんな空間に俺は独りでいた。孤独、だ。
どれくらいの時間が経ったのかもう覚えていない。そもそも時間たる概念が存在していたのかも怪しい。
思考だけが浮かび、消えていく──何度も、何度も。さながらシャボン玉のように記憶という名の空気中に漂う球状の泡が割れて、儚く霧散する。
精一杯、肺腑から息を吹き込んだそれが跡形もなく記憶から抹消されたみたく消えた。
なんて儚く、冷酷なのだろう。
また、大きなシャボン玉が割れそうになる。
──すると、ふと何かが胸の奥でどよめいた。
(……ここは、どこだ?)
今さらの疑問だった。
しかし、確かにそれが浮かんだ瞬間、朧気な記憶が徐々に輪郭を取り戻していく。
思い出した、あのとき見た光景が蘇る。
貫かれた腹部、震える手、かすれた声。
最後に見たのは虚ろな瞳だった。それでも微かに笑っていた。俺に託すように。
俺は何をした? 本当に、世界の希望になれたのか?
彼女の命を代償にしてまで、何かを守れたのか?
それならばもっと多くを語ればよかった……自分を。
そして、もっと幡代の多くを知ればよかった。とりとめのない雑談話が次々と浮かんでから現実を認識し、何もなかったかのように流れ去ってしまう。
二度と叶わない後悔が全身を支配する。
幡代は絶対に死ぬ事はない、と確証がないのにも関わらず絶対的な自信が心のどこかであったのだ。
何も知らない、ただ一人の人間に。
この崩壊した世界で俺は何を期待し、夢想していたのか。それは自分本位な我儘だったのかもしれない。
これほど浅ましい考えはない。
俺は列記としたバカだ。
そう自己嫌悪に陥りそうになった瞬間、不意に光が差し込んだ。
暗闇の中心に、瓦礫で埋もれてしまった小さな暗い穴を掻い潜るように。
風の音。人のざわめき。鉄の軋む音。
それらが、まるでどこか遠いところから、だんだん近づいてくる。
その音に招かれるようにして、俺の意識は再び浮上した。
──目を覚ました。
「……ここは、電車の中か? 今更なんでこんな夢を。今まで見なかったのに……」
寝すぎたようで若干頭が痛い。
側頭部を押さえながら、ぼんやりとした瞳を開いて過ぎ行く窓の景色を見遣る。
そうだ、俺は電車の中にいたのか。
ザーザーと音を立てながら水を弾き、窓を叩く雨の音。車体の振動と喧騒が入り混じる。
あの出来事から約五年が経過していた。
世界が崩壊し始めた日、両親をなくした日──俺が覚醒者になった日。
幡代が死んでから俺は喪失感に苛まれながら重い足取りで京都の異空間を取り除く事に成功した。
それから今まで日雇い労働などをして困窮に喘ぎ、何とか食いつなぐ生活を送っている。
──ガタン、ガタンガタン。
車内は湿った空気に包まれていた。
濡れた傘の匂い、衣服から立ちのぼる生乾きの蒸気、鉄と油の産業臭い臭気が鼻を刺す。
少し離れた所に吊り革を握る客の手が雨粒を落として小刻みに揺れる様子が視界に映る。
『今日も新幹線をご利用くださいまして、誠にありがとうございます。この電車は東京行きです。途中の停車駅は──』
アナウンスが鳴っている。
そうだ、俺の降車駅は東京だ。
俺は座席にもたれ、結露した窓を袖で拭った。
外の景色は灰色一色で雨脚は一向に弱まる気配を見せない。律動的でない断続的な雨音。
それらに幾許かの時間、耳を傾けていると、後方からコツコツと革靴の音が鳴り俺の目の前で止まった。
顔を上げずに瞳だけを動かして見上げる。
車掌だった。紺色の制帽を深く被り、だらしなく着崩した制服が目を引いた。
五年前の俺なら厭わし気な視線を送っていただろうが、今となってはもう、どうだって思わない。
これが当たり前なのだと溜飲を下げられる。
なぜなら、ここ数年で日本は極めて衰退した。人口も社会制度も何もかも、だ。
無論、一億三千万人いた人口も三分の二ほどに減少してしまった。すべてはあの日を境に。
耽っている最中、車掌が淡々とした声で訊ねた。
「切符を拝見させて頂けませんか?」
「……あぁ。ほら、これでいいだろ?」
「ありがとうございます」
「しかし、とんでもない事になったもんだな?」
「そうですね。政府の機能も薄れて好転の目処も立っていないようですし」
などと会話を重ねながら、車掌は入鋏を行う。
「……話にならないな本当に。まぁ一端の国民が何を言ったところで変わらないかもしれないけどな」
「どうにか良くなってくれるといいんですが」
「そうだな……」
「どうぞ。お返しします」
無言で渡した切符をもう一度受け取る。
同時に、俺はひとつ溜め息を漏らした。
いつの時代だよ、ホントに。まるで時代を逆行しているかのように電車内で入鋏が施され、カチカチと音を立てて印を付けている。
今どき、電車の中で金属の鋏を鳴らす光景を見られるとは思わなかった。
かつて日本史の教科書で見たものが当たり前の時代に戻ってしまったのだ。完全に時代逆行。
電車は一日に二本しかなく、決して安いとは言えない。むしろ高価だ。
なので、乗客の大半は小金持ちからお偉いさんなど様々である。俺を含めた貧乏人も中にはいるだろう。
つまるところ、誰もが簡単に手を出せる代物ではなくなっていた。
「……やめてください!」
「黙れ。大人しくしやがれ」
すぐ近くの席で弱々しい声と威圧感のある声が雨に混じって耳朶を打つ。
それに目を遣ると、視界に女子高生が入った。また、窃盗にでも襲われているのだろう。
金品を狙った窃盗団はよく列車を狙う。
アイツらからすれば列車は格好の餌食なのだ。いわゆる、金庫と言えばわかりやすい。
これほどの経済打撃を受けた日本はまともな職を受ける事ができなくなり、犯罪に手を出す人間も自ずと多いのだ。
ので、こういった場面をしばしば目にする。
法制度、経済ともに機能が衰退している事もあり犯罪者が横行、被害者は辛酸を舐めさせられているのが現状である。
──このような状況に出くわすのは一体、何度目なのだろうか?
両手の指でも数えられないほど恒常化してしまった光景に辟易してしまう。
これが日常茶飯事なのだから仕方がないと言える。
しかし、気に掛かる事に誰一人として助けようとはしない。
車内の誰もが視線を逸らし、手元にある新聞や本に視線を落とした。
乗務員も同様に知らぬ存ぜぬを一貫するとともに、側を通過していく。
一体なぜか? 答えは単純明快で救済は無意味だからだ。
この荒廃した世界で人を助けても何も変わらない。誰も眼前で起こる愚行を咎めない。
大きな怒号と立て続けに、机を叩きつける騒がしい音が鳴った。
「たったの、二千円かよ。端金だな!」
「……待ってください。私の全財産なんです! 返してください……」
女子高生は祈るように懇願した。
瞳に涙を溜めて膝から崩れ落ちる。
「は、全財産? どんだけ貧乏なんだよお前は。さっさと体でも売って稼いでこいよ、電車代くらい余裕だろ。高校生だから結構稼げると思うぜ、相当需要もあるに違ぇねえからなぁ。な、隣のお兄さんよぉ、一発どうだ?」
唐突として、大きな手が肩を二回叩いた。
ごつごつとした腕、削れた拳頭。
俺は肩に乗せられた手を見て、告げる。
「生憎だが女子高生には興味がないもんで。それに未成年淫行で捕まりたくないからな」
「あ、何言ってんだ? 今更そんな事気にしてんのかよ」
「それはそうだろ。わざわざ捕まりにいく真似は止したいんだ」
「だから気にするだけ無駄だろ?」
……脳が筋肉で侵食されてんのか?
堂々巡りになりそうだ。
「すまない。とりあえず、興味はないよ」
俺も見て見ぬ振りをしようと思った。
関わらなければ、背を向けてしまえばそれで済むはずだった。
しかし、幡代の姿が脳裏を過ぎり語りかけてくるのだ。『助けてあげて欲しい』と。
一筋の希望を見せてあげて欲しい、と。
単なる幻聴には思えない。
彼女の善意、すべてにおいて優柔不断で臆病な自分を穿つ鋭利な言葉だった。
人々を救うと決意し、自分は変わったと思っていたあの日でさえも、自分は何からも逃げ続けていた事を改めて痛感する。
──決意して、放棄して、また決意して。俺には世界を救う自力がない。救えない。
否、それは醜い言い訳に過ぎず俺は幡代の存在に甘えてしまっていたのだ。
五年前、俺は誓った。幡代の願いを必ず叶えると。
しかし、腐敗したこの世界の前でその誓いは少しずつ摩耗していった。
気が付けば、当時の決意は胸の奥で鈍い痛みに変わっていたのだと思う。
(……やっぱり、アホらしい)
俺はいつの間にか、窃盗団の男の腕を握り上げていた。
「そこら辺でやめておけ」
「あ? 何だお前、俺とヤル気か? ……おい」
大柄の男が力任せに俺の襟を持ち上げた。
そのまま体も宙に浮く。
だが、それでも男の腕を離さない。
「糞ガキ。舐めてんじゃねぇぞ……英雄気取りか? それとも人情でも使って無料でヤる為か?」
「そんな事はどうでもいい。それに、お前じゃ俺には勝てない……痛い目に遭わないように忠告してやる。今すぐこの手を離せ、服が伸びちまうだろうが」
「あぁ? 何言ってんだ、この体格差を見ればわかッ──」
そのまま男の腕を少し握ると、ミシリと肉が押し潰される音が聞こえた。
あまりの痛みに男は掴んでいた襟を咄嗟に離す。軽く力を入れたつもりなのだが、どうやら頭に血が上っていたようで力の加減を間違えてしまった。
ぶっきらぼうに手を離された俺は床へと帰還する。
丸太みたく大きい腕を押さえながら、男は眉間に皺を寄せていた。
「だから言ったろ? 俺には敵わないって」
「お前は……一体何なんだ。バケモノめッ!」
「バケモノじゃねえよ。人間だ」
「クソッ……!」
車内は拍車をかけて、静まり返っていた。
なぜかさっきよりも物静かな雰囲気。自分が予想外の行動に出たせいか、これまで窃盗団に歯向かう者を初めて見たせいか、押し黙っていた客は漏れなくこちらに視線を向けていた。
一様に面食らった様子だ。
俺が客を見渡すと、また視線を落とし何事もなかったように日常を過ごしている。
一方で窃盗団の男は腹の虫が収まらなさそうだった。バツが悪い様子を示す。
胸ぐらを掴まれて皺になった襟を直しながら、
「もういいだろ。この子に財布を返してやってくれないか」
「クソッ……お、覚えとけよッ」
ポケットから財布を取り出して無造作に放り投げた。
パタンと音を立てた財布はへたりこんだ彼女の目前に落ちる。
それを見届ける事なく、男は先頭車両の方向へと去って行く。
「大丈夫か、怪我はなかったか?」
女子高生はまだ床に膝をついている。
しばらくして肩をふるふると震わせ、その双眸からは煌びやかな大粒の雫が滴る。
劣悪な世界で希望でも見出したかのように。あるいは絶望で打ちひしがれているのだろう、普遍的な涙から彼女が何を思うか知る術もない。
ひとしきり泣き終え、彼女は丁寧な言葉で感謝の意を述べ始めた。
「はい。ありがとう、ございました……」
「別になんもしてねぇよ。ただ、見てられなかっただけだ」
「助けていただいたので……本当にありがとうございました」
綺麗に結ばれたポニーテールを揺らした。
俺は眉をぴくりと動かしたあと、すぐに言葉を返す。
「……構わない、気をつけろよ」
「本当にありがとうございます……」
彼女が小さく頷くのを見届けて、俺は重い足取りで自分の席へ戻る。
周囲の視線はもう一度俺に向けられたが、しかし誰も声をかけてはこなかった。
席に座るや否や、机の上に置いていた煙草とライターを引き寄せ、微かに震える手でハイライトレギュラーの一本に火をつける。
紫煙がゆっくりと口から漏れ出し、空気に混じって消えていく。
雨に耽り、俺は思う。
「……なぁ、幡代。これがお前の夢想する世界になるのか? 教えてくれよ、この腐敗した世界で何が正しくて、何が悪いんだ? こんな些末な物の為にお前が犠牲になったのか?」
幡代なら迷わず言い切れたはずだ。
俺はただ、何度も同じ場所で足踏みしては苦悶し、情けなく自分を持て余している。
いつも俺はそうなのだ。五年前──いや、もっと昔からもしかすれば生まれたときから片鱗を見せていたのかもしれない。
成長していくうちに『現実逃避』なる鱗が全身を覆っていった。芦屋は悪いヤツだったのかもしれない、幡代は大事なパートナーだった。
だが、一つだけ共通する事がある。どちらとも理想を軸に一つの信念を貫き通していた。
それなのに俺はどうだろうか?
合理的な思考と行動が一致せず、挙句の果てに決意さえも薄れてしまう一過性。
もう、幡代に悩みを打ち明ける事さえ叶わない。アイツがいなくなってしまったからこそ俺はこの世界の必要性に疑念を抱く。
──こうして自問自答している内は、
「……俺はまだ、お前のようにはなれないらしい」
結局、未だに中途半端な人間に変わりなかったのである。
しかしながら、昔に比べればよっぽどマシに思える。何もできず、何も果たせないただ傍観者として眺める事しかできない取り柄のなかった自分を幡代が救ってくれたのだと。
そう、彼女に感化され憧憬の的だった。
「ったく……勝手に押し付けるんじゃねぇよ。こちとらいい迷惑だっての」
止む気配のない物寂しい雨の音と、過ぎゆく景色を後目に囁く。
幡代は世界を救うと、大それた未来図に一筋の希望を描いていたのだろう。
ここで見切りをつければアイツの犠牲が無駄になる。大切なパートナーの無駄死に。
俺はやはり、それが許せない。
だから、彼女がいない今でも俺は歩み続けるしかない。
決意して、苦悩して──それでも、着実に成長を重ねて一歩ずつ進み続ける。
世界を、人々を、救う為に。
──何よりも、彼女の『願い』の為に。
この度『ロジカル・コンフリクト』が完結致しました。
ここまで読んでくださった読者様、ありがとうございました!!
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