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35話

 振り返ると、さきほどまで俺たちが立っていた場所は無惨に破壊されていた。


「……大丈夫か?」


 息を整えながら声をかける。

 だが、自分の声が思いのほか掠れていた。


 幡代は砂塵にまみれた頬を払いつつ、短く頷いた。


「ええ、なんとか」


 その言葉は強がりに近く、震える指先が隠しきれぬ緊張を物語っている。


「今の、あと一歩遅れてたら死んでたな……」


「文字通り、粉々でしょうね」


「マズイな、これじゃどうしようも……」


 すると、幡代が訊ねる。


「……私も覚醒者になりましょうか? このままじゃやられます」


「ダメだ」


「……えっ? なんでですか!? 芦屋さんの覚醒者の能力を氷室さんも見ませんでしたか!? このままじゃ二人とも死んでしまいますよ!」


 否定されると露にも思っていなかったらしく、予想外の言葉に上擦った声を上げる。



 ──俺は懸念していたのだ。幡代の代償の力を。


「絶対にダメだ。力を使ったらお前が死んじまうだろうが!」


「いいんです。私の本望なので」


 ……バカか。 そんな事したら今度こそバケモノになって戻れなくなるだろ……。


 ちょっとくらいは自分を大事にしろよ本当に。止めても聞く耳を持たないだろう。


 だったら、自分がやるしかない。

 覚醒者として俺も同じように。


 気乗りしないが、ここで死に絶えるよりは断然マシだろう。


 背後の幡代が動かないように、左手の平を向けて静止を促す。


「それなら俺がやってみるしかねぇ。暴走しても知んねぇけどな」


「氷室、さん……?」


「……見とけ幡代。これが俺の覚醒者の力だ」


 ふぅ、と吐息を漏らして十分な酸素を肺腑に取り込み、循環を行う。


 肺に満ちた酸素を血流へと送り込む。

 心臓が脈打つたび、ドクンと熱い血が全身を駆け巡る。


 視界の輪郭も二重になり揺らぐ。

 指先に痺れるような違和感が走った。


 ……ああ、マズイ。気を抜いたら意識が何か得体の知れないものに取り込まれそうになる。

 覚醒の予兆を初めて理解した。


 背筋を鋭い熱が貫いた。

 火柱のような力が脊髄を駆け上がり、脳を刺す。


 全身の細胞がその温度に跳ね起き、目の奥が焼けるように熱い。


「ぐっ……がっ!」


 意識が混濁する。頭が焼け切れそうだ。



 ──これが、覚醒の力なのか?



「はぁっ……はぁあっ! 痛ってぇ!」


 ドス黒い何かに侵食されそうになり、喪神せぬよう俺はナイフを脚に突き立てた。


 この鋭い痛みに頼らないと、たちまち体が支配されるような感覚に陥る。こうでもしなければ自分を繋ぎ止められないのだ。


 太腿はズキズキと痛みが走り、血が滲む。何とか意識を保ち制御する。


「もうやめてください。やっぱり私が──」


 背後から幡代の声が聞こえたが、今は気にする余裕もない。


 いつの間にか、俺の右半身が黒い触手に覆われていた。


「くそっ……言う事聞けよ!」


 必死だった。

 気味の悪い感触を覚えて眉を顰める。


 右半身を黒い触手が呑み込んだところで、微かに自分の意思が上回った。


 体の大半を支配されながらも、微かに残された自我が抵抗していた。


 意識の中心で、自分という存在が淡い光を放つように残っている。

 その残滓にすがりつき、俺は暴れ出そうとする力を押さえ込む。


 手や脚は暴走し痙攣するが、呼吸を整えて意識の糸を必死に手繰り寄せる。


「……はぁっ、はぁっ」


 浅くなった呼吸を押さえて、平静に保とうと試みる。


 末にやっとの思いで触手を押し殺す事に成功した。


「……嘘だろ? こんな事って……」


 自分の体とは思えなかった。

 いや、思いたくなかった。自身の一部に忌々しい何かが結合していると思うと直視したくない。


 覚醒者の宿命と理解していても、それは受け入れ難い事実に変わりなかったのだ。


 これまでは他人事と解釈していた事がいざ、当事者になってみれば否応にして現実を突きつけられる。


 人らならざる異形という事に。


「…………グ、グギャアアッ!」


 変貌した芦屋は変わらず、声を荒らげていた。


 おどろおどろしい声で、おぞましく。俗世と離れた彼女はもう、人間として二度と戻れないと悟った。


 これといった明確な確証も根拠もない、動物としての本能──直感がそう伝えていたのだ。


「……そんだけ殺したいなら、やってやるよ」


 独り言のように呟く。

 すると、芦屋は地面を蹴って俺の方へと突進する。


 少し瞬きをした。ほんの一秒も経たない些細な動作。目を開いた束の間、遠くにいたであろう芦屋はいつの間にか目前にいた。


 真っ黒の体躯、血を彷彿とさせる紅い眼。


「……え?」


 思考がその事態を認識するよりも先に、腹部に激痛が走るとそのまま吹き飛ばされていた。


 殴られた、気が付いたのは展示品の鉄道車両に体を打ち付けたときだった。


 衝撃で電車は凹んだが、幸運にも腹部は傷ひとつ付いていない。


 これも、覚醒者の力だと思うとなぜだか自分の体ではないような気がしてならない。

 普通であれば大きな風穴を開けられ臓器という臓器が一掃されていただろう。



 ──しかし、それよりも芦屋のあの速さ。



 腹を押さえて俺は思考を巡らせる。


「クソッ。厄介なヤツだな……どうすればいいんだ」

……一体、どうすればいい。


 芦屋の常軌を逸した速度は触れる事すら難しい。

 ただ、このまま立ち尽くすわけにもいかなかった。


 再び芦屋が跳ねる。

 黒い残像を描きながら俺に迫る。


「クソッ、来るなッ──!」 



 その瞬間だった。



 鋭く風を裂く音と共に、芦屋の動きが一瞬鈍る。

 すぐ横を何かが駆け抜けた。



 ──否、誰かが。



「……い、一体なんだ?」


 視界の隅で風になびく長髪が揺れた。幡代だ。


 彼女は一直線に芦屋へと踏み込み瞬時に跳躍、脇腹へ鋭い蹴りを叩き込んだ。

 そのまま大きな芝生へと飛ばされた。


「氷室さん。大丈夫ですか?」と、淡々とした声色でこちらに右手を差し伸べる。


「……あぁ、助かった。すまない幡代……助けられてばっかで……」


「気にしないでください。パートナーなので」


 俺は手を取って立ち上がり、呼吸を整える間もなく芦屋の方へ目を遣った。


 広大な芝生の上でうつ伏せになっていた彼女が、ゆっくりと顔を上げる。


 その眼差しは、微塵も揺らいでいなかった。


「……グ、グギヤァアアッ!」


 怒りの咆哮。

 その雄叫びはピリピリと大気を揺るがす。


「氷室さんは左から。私は右からで挟み撃ちにしましょう」


「わかった。パートナーなんだろ? なら、信じて任せる」


「お願いします」


 幡代の言葉に静かに頷くとともに俺たちは走り出す。視線の先、芦屋がゆらりと立ち上がった。

 空を仰ぎ臨戦態勢をとっているのだろう。隙のない妙な威圧感。


 幡代は迷いなく右へ回り込む。俺も左へと走る。

 風を切る音が耳を叩く最中、芦屋の視線が幡代に逸れた瞬間を逃さず、地面を蹴った。


 近い。今なら届く──そう思った矢先、幡代の身体がぶれて見えた。


(……ったく、なんて速さなんだよアイツは……!)


 すかさず、芦屋も反撃に備えるが、しかしながら振るった右腕は空を切る。


 そして、華麗に避けると内に潜り込む。気を抜けば動きすら何も見えない。


 芦屋の圧倒的な速さに匹敵する彼女は重圧に耐えながらも、自分の体をすり減らして戦っている。


 バケモノの力こそ行使していないが、負担は想像を絶するものに変わりない。

 自分が出せる限界出力のトリガーを解除し、それ以上の力を出しているのだろう。


「あのままじゃ死んでしまう……早くケリをつけねぇとな」


 脇腹に入り込んだ幡代は芦屋にもう一度蹴りを放つ。


 致命傷をつける為の強烈な蹴りでも、単なる無策の蹴りでもない。


 小さな体躯から放った攻撃だが、これには明確な意図がある。


「左からもお願いします!」


「ああ! まかせとけ!」


 的確な合図とともに芦屋に迫る。

 また、素早い大振りの攻撃が来た。


 避けられない──だが、俺には右目の力がある。

 全神経を目に集中させると時間がスローモーションに変わり、危なくも回避する事に成功した。


「……くらいやがれ!」

 

 そのまま体制を崩した体に迷わず右腕を突き刺す。


 肋骨を粉砕し、肉を貫く感触が掌から伝わってくる。


 黒い液体が噴き出し、俺の腕を濡らすと同時に芦屋の身体は崩れ落ちた。


 膝をついて力なくうつ伏せに倒れ込む。

 目を閉じたその顔には緊張も怒りも、憎悪もすべてが抜け落ちている。


 幡代は駆け寄り、息を詰めて慎重に体を確認する。恐る恐る、指先で肩や首の動きを確かめ安堵と緊張が交錯する表情を浮かべた。


 俺も自然と力が抜け、膝に溜まっていた緊張がじわりと溶けていくのを感じた。


 やっと終わったのだと、胸の奥から小さな吐息が漏れた。


「……意識はありません」


「危なかったな。危うく死んじまうところだった……」


「そうですね……にしても、なんだか呆気ない結末な気がしますね」


「……ちょっと待ってくれ」


 俺は思わず声を上げた。

 胸の奥がざわつき、なんだか腑に落ちない。 


「どういう事だ? 本当に……終わりなのか? これくらいの攻撃で死ぬなんて事がありえるのか、覚醒者の力は……」


「でも……動かないですよね……?」


 幡代が肩を押さえつつ小さく問いかける。


「いや、まだ……」


 もう一度、目を閉じた芦屋の体をじっと見下ろすとわずかな呼吸の揺れ、胸の微かな上下運動が再び起こっていたのだ。



 完全に動きを止めてはいなかった。

 いわゆる、仮死状態だったのだ。


「まだ生きてる……!」


 そう叫んだときだった。

 四肢が軋みを上げて、捻じれる。


「なッ──!?」


 瞬間、芦屋の体が跳ね起きた。

 顔は伏せたまま、四つ足のような異形の体勢で地を這い、獣のように俺へと飛びかかる。



 ──反応できなかった。



 殺意だけが鋭い刃のように俺の全身を占有する。

 脚が動かない。



 右目を使うにも時間が足りない上におそらく、碌に役割も果たさないだろう。


 逃げられない、本能が告げた。




 ──ここで死ぬ。



 確信したそのとき、視界を覆う影があった。


「氷室さん、下がって──」


「え?」


 幡代だった。俺を突き飛ばし、自らが前に出た。


 間に合わなかった。

 芦屋の鋭利な爪が幡代の腹部を貫く。


 背へと貫通した爪から鮮血が滴り落ちている。

 黒い閃光とともに血飛沫が舞った。


 声もなく、幡代の身体が仰け反る。


「……ッ、幡代ッ!!」


 俺が駆け寄ろうとするよりも早く、幡代は芦屋の腕を掴んだまま動かなかった。


 その小さな体で、バケモノとなった芦屋を押し留めている。


「今です……氷室さん……やるなら、今しか……ッ!」


 その声はか細く、それでいて決意に満ちていた。

 幡代の手が震えながらも俺を信じていた。


 考える時間も惜しく、俺は無我夢中では芦屋へと向かう。


「……くそ、あああぁぁあッ!!!」


 咄嗟に全力で跳び込む。

 胸元へ再び右腕を突き刺す。


 今度こそ確実に心臓を劈いた手応えがあった。

 芦屋の身体が大きく痙攣し、もがくように暴れたかと思うとやがて動きを止めた。



 ──やっと終わった。


 安堵する気持ちよりも先に俺は幡代の元に駆け寄る。


 起き上がる事もできず、ただ呆然と彼女は空を仰いでいた。


 虚ろな目、それはまるで風前の灯火のような状態だった。


「氷室、さん。やりましたね……とても、よかったです」


「……お前、治るんだよな!? この傷、覚醒者の力で何とかなるんだよな!?」 


 叫んだ。

 叫びまくった。


 喉が焼けるように痛く熱い。


 幡代の腹部には貫かれた風穴。

 ある程度の傷なら覚醒者の力でなんとか治癒する。これは俺も経験済みだった。


 しかし、彼女の傷はどうだろうか。細胞同士が引かれ合い、肉と肉を繋げようとしているが、なぜか戻らない。


 治癒の範疇を遥かに逸脱していたのだ。


「……何、戯言言ってるんですか氷室さん。いつもみたいに合理的に考えてくださいよ」


「お前こそ何言ってんだよ……? 合理的になんてなれるわけないだろ。治る可能性があるのならそれに縋るしかねぇだろうが……!」


「この傷は治りませんよ……これが治ったらなんでもありじゃないですか。自分が無理だと思ったらそこで細胞は再生を諦めるんです」


「俺が治ったから、お前も治るだろうが!」


「何を言ってるんですか……」


 今にも消えそうな声色で呆れたように微笑む。


「それにお、お前、なんで俺を庇うんだよ! 何回助けたら気が済むんだよ!?」


「そんなの、決まってるじゃないですか……氷室さんは世界を救う事ができるから」


「……は、俺が? そんなわけないだろ。救うのはお前しかいねぇって……」



 ──俺が世界を救う。



 それは間違いだ。

 断固として思う。


 優先順位で言えば頼り甲斐のある精悍さを携えた彼女と比較して俺は臆病だ、その二文字に尽きる。

 だからこそ、世界を救う希望となるのは幡代しかいないはずなのに、庇った事に幾許か憤りを感じた。



 思いを見透かしたのだろう、かぶりを振り彼女の瞼が徐々に下がる。


 そのまま幡代は自分の最後を悟り、力を振り絞って呟いた。


「……私からの、幡代エマというパートナーからの最後のお願いです──どうか、世界を救ってください」


「それはだから……お前が自分で──」


 言おうとしたところで、幡代は割入る。


「……お願いします」


 痛みに耐え兼ねて「ううっ」と、苦悶の表情を表す。


 彼女はもう決断しているのだ。

 自分の死を受け止め、それでもなお痛みに耐えながら俺に伝えようとする。


 腹部に手を当てればどんどんと血が流れ出て止血しようにも手元にはガーゼやハンカチなど、最低限の布切れすらない。


 必要最低限の応急処置すら叶わない。


 狼狽しながらもう一度、顔を見遣ると死を恐れた表情だった。


 幡代はぽつりぽつりと涙を地面に落とし、


「──だから、私の分までお願いします。氷室さん……」


「おい……!」


 その光景に唖然としたが深く頷くと、そのまま彼女の体から力が抜け落ちた。


 瞳には光が宿っておらず、ゆっくりと炭化して風に吹かれていった。


 最後の安堵したような表情が脳裏にべったりとこびりつく。


「嘘だろ、幡代……?」


 なんで、なんでこんな事に……!


 抱いていた手に残っていたのは幡代の体ではなく、仄かに残る体温と血だけ。


 何度も手のひらをぎこちなく開いては閉じる。

 しかし、何も掴めない。


 どれだけ失えば済むのだろうか? 唐突に訪れた孤独に、込み上げる嗚咽を堪えられなかった。


 声にならない叫びが喉の奥で張り裂けそうになって暴発する。

 胸が痛い。心臓がドンドンと壁を叩く。



『どうか、世界を救ってください』



 俺を信じてくれた。

 命を懸けて、未来を託してくれた。



 ──だったら、俺がやらなきゃいけない。



 どんなにボロボロでも、もう立ち止まれない。


「必ず……お前の願いを叶えてやるからな」

抱いた決意を何度も反芻し、噛み締めるように呟いた。

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