32話
「……お前は、強いな」
ようやく絞り出せたのはただ一言だけだった。幡代はふと目を見開き、すぐに伏せる。
その反応は言葉がもっとも鋭く突き刺さった証左のようにも思えた。
「強くなんか……ないですよ。私は、怖いんです。いつか完全にバケモノになるんじゃないかって。自分の意思も、様々な感情も、全部失って殺戮兵器になるんじゃないかって」
声が震えていた。
「でも……それでも、私はこの力を使いたいんです。バケモノになるその瞬間まで私は──人でありたい」
放たれた言葉は今にも消えてなくなりそうな微細な儚さを内含していた。
俺は幡代の姿を目の当たりにして思う。
この世界で、本当に強い人間というのはこういう奴なんだ、と。
身を挺してなお、誰かの為に生きようとする模範的かつ理想的な人間。
人類が皆そうあるべきで、荒廃の前途を前にした今でも綺麗事を夢想する。
にも関わらず、人なる動物はいざ恐怖を目の前にすると慈愛の心を忘れ、自然と利己的になる醜悪さもある──そんな動物なんだとつくづく思った。
疑わしきは罰せずを度外視して法が通じない人の価値観に左右されたあの避難所では、危険分子と見なされる幡代は否応なしに排斥されるのだ。
幡代に向けられた視線を俺は未だに忘れられない。あのとき、誰もが彼女から距離を取り、まるで病原菌でも見るかのような冷淡な視線。
誰だってそうだ。どれほどの人格者でも、真人間でも死を恐れる。
自己保存本能を剥き出しに拒絶し、醜く抗う。死の恐怖は見せかけの善意をも凌駕する。
だが、それでも未だに抜本的な芯をぶらす事なく夢想する幡代の姿は誰よりも人間らしく、他の誰よりも人間らしくなかった。
「なーに、このしんみりした空気! 嫌なんだけど……あははは!」
場の空気にそぐわない芦屋の笑い声が地下駐車場に反響した。
可笑しく笑う彼女に微かな苛立ちを覚え、思わず語気を強めた。
「……お前は一体何がしたいんだ?」
「え、何って、他の覚醒者を見てみたかっただけかな? どういう人で、思想で何を考えているのか気になるんだ」
「……それを見たところで何かあるのか?」
「そりゃあ、私と同じ思想でも持ってるなら仲間になっちゃおっかなって? アウトローなら逆張りでもありかな? ん〜わかんない!」
「……戯言はいいが結局、俺たちの仲間になるって事でいいのか?」
「え〜、どうしよっかな?」
はぐらかすような芦屋の声に、喉の奥が若干の熱を帯びた。
どこか軽薄で、何も背負ってなさそうなその態度が今の俺には耐え難く、気に食わなかった。
俺たちの会話を嘲笑しているみたいで許せなかったのだ。
「正直に言うと、興味ないかな〜。私はただ自分のしたい事だけをしたいんだよね〜。つまり、仲間にはならないよ? 善人振るのって退屈だし、なんで民間人の為に私が犠牲にならなきゃいけないのかホントに理解できないかな」
その言葉に、数秒ほど沈黙の時間が流れる。
しばらくして、幡代が目を細めて訊いた。
「それが親や兄弟、大事な人だとしてもですか?」
「うん。どんなに大事で、私を産んだ母親だとしても関係ないよ? 私が私である限り、自分の生きたいようにするのは当然の事じゃない?」
「随分と早い返事ですね……」
「そりゃあそうじゃん! 別に覚醒者に選ばれたからって世界を救う義理はないし、神でさえ強要はしてなかったの夢で覚えてる?」
その言葉を聞いてふと、脳裏にちらついたのは神の啓示だった。
『救世主とやらが世界を救おうが救わまいがどっちでも構わない』か……。
一体何を目論んでいるのか皆目見当もつかない。
ただ世界の崩壊を待ち望んでいるだけなのか、世界の崩壊を止めて欲しいのか、どちらにしても行動と言動に齟齬があるのは確かだ。
遥か昔から傍観者的視点をテレオロジーとして、実行しているに過ぎないのかもしれない。
俺はかぶりを振る。
「この世界が崩壊するって事実が救う道理になっているだろ?」
「ううん。ないよ、この世界はそんな価値ないと思う。絶対に」
「…………ッ!」
言葉を返す事ができなかった。
心のどこかで、理解を示してしまったからだ。
今の言葉が彼女のすべてを物語っている気がしてならない。
ローファーの先をコンクリートの地面に数回当て、コツコツと音を鳴らした。
そのまま俺たちに背を向けて少しずつ歩き出す。
「んじゃ、また明日。もうここにいる意味もないって事がわかったしね」
「あなたはこれからどうするんですか? 芦屋さん」
幡代の問いかけに対して、芦屋はピタリと足を止める。
「……もちろん決まってるじゃん! 私の理想の世界──」
芦屋はそこで言葉を切り、振り返らないまま軽快に言い放った。
「誰にも縛られず、誰も救わず、誰からも何も望まれない世界。ねえ、それって最高じゃない? 痛みも、責任も希望すらいらない。ただ静かに綺麗に壊れていく……そんな世界、ちょっと憧れるよね?」
コツコツとローファーの音が駐車場に反響する。
芦屋が離れていくにつれて小気味良い靴音が遠ざかる。
幡代は押し黙ったままその背中を見送っていた。
俺も同様に、幾らか不平不満を言う事も後を追う事もできなかった。
「……あの子、芦屋ひなみさんは敵と見なして良いと思います。やっと今までの得も言えぬ不信感の正体がわかりました。氷室さんも考えておいてください、生きる道、そして自分の選択を」
返答の余地も与える事なく、一方的に言い放った。
──正しいのは誰なのか?
間違っているのは自分なのか?
それとも世界の方なのだろうか。
俺たちには到底知る由もなかった。




