28話
ポケットに手を伸ばす。
約二年、俺と共にしたジッポライターが勝機を見出す鍵なのだ。
煙草を吸う為のもの、ではなく今はバケモノを殺す道具として変わった。
これほどの高濃度の揮発性物質、燃え移らないはずがない。
「まさか……それって? ライターですか!?」と、幡代が訊ねた。
「ああ、できるだけ下がっといてくれ。どのくらい炎が上がるかわからないからな」
「……はい」
指示通りに一歩、二歩と下がると俺から数メートルほど後ろに離れる。
オイルライターのホイールを擦る。シュッと子気味良い音を響かせた。
そよ風でゆらりゆらり、大きく火が揺らぐ。
「……一世一代の賭けだがやってやる。そんなに燃えたきゃ、ご希望通り燃やしてやるよ」
「……グギャァオオオ、グルァァァっ!!」
笑みを浮かべた俺の顔を見た瞬間、バケモノの一匹が憤慨し、怒りを全身で示すかのようにして猛然とこちらへと迫ってくる。
同時に火の灯ったライターを宙に投げた。
放物線線を描き、バケモノの目前に到達する──
それをバケモノが本能的に切り裂くと同時に、業火が視界を占有した。
「……あっつ!」
強烈な熱風を浴びて反射的に体を引く。まさに地獄絵図だった。
化学反応によって生み出された千度に及ぶ炎の悪魔はバケモノの体を一瞬にして包み込んでしまった。
「ギィヤァアアッ!!」と、空気を揺るがす金切り声とともに暴れ狂う様子が炎越しの影に見て取れる。
おどろおどろしかったあの黒い翼はだんだん縮んでいく。炎の向こう側には確かな手応えがあった。
あの炎はバケモノを確実に消し去る力を持っている。揺れる影がまるで必死にもがく亡霊に見える。
目の前で広がる炎のカーテンは、まさしく現世と地獄を隔てる境界線のように感じられた。
炎が消える頃には単なる焦げと化していた。
関節が曲がって熱硬直──今ではタンパク質の塊へと変わり果てたそれを、したり顔で見下すにはまだ早かった。
「……やっと倒したか……残りはアイツだけか?」
──残り一体。
盛る業火を免れたバケモノは警戒心を強め、威嚇していた。
しかし、限界はすでに迎えて、体に疲労が一気に押し寄せた俺は膝から崩れ落ちる。
痺れ、困憊が体中を支配してもはや立てそうにない。覚醒者の能力を行使するにしても、眼の力は数秒しか持たず幡代のような触手らしき力も発現しそうにはなかった。
「…………氷室さん、立ってください!」
幡代の声が背後から聞こえる。
体は完全に脱力しきっていて膝を着いたまま俯く俺は振り返る事すらできない。
腕はだらんと垂れて、握力を失った手はナイフを床に落とした。
あぁ、彼女の呼ぶ声もだんだんと遠くなってきた。
カランッ、と大理石の床と刃の接した音がする。
────今度こそ、死んだ。
そう思った直後だった。
「やっほ〜、戻ってきたよ。なになに、ゆうっち死にかけてんじゃん!」
欣快に堪えない声色が耳朶を打った。
ぼやけた視界に映ったのは制服のスカートと、ローファー。
それはついさっき見たものだった。
「……あし……、……や?」
ひどくかすれた声で目だけを動かす。
徐々に視線を足元から上に遣る──芦屋ひなみが目の前に立っていたのだ。
「んじゃ〜、コイツ、殺していい?」
俺を見下ろしながら訊く。
その表情は愉快さを孕み、この状況を誰よりも楽しんでいるように見えた。
疲労が身体中を駆け巡り、答えられずにいた自分を他所に一人で納得したのか、より一層笑みを深める。
「はいはーい、沈黙って事はイエスって解釈でいーよね……ひなみんのご褒美ターイムだよ!」
そう無邪気な笑みとともに、芦屋ひなみは一歩、バケモノに向かって歩み出た。
その足取りは軽快だ。
だが、その背中から放たれる気配は異様な熱を帯び、異形にすら本能的に警戒心を与えている。
ああ、やっぱりそうだ。コイツは……。
「じゃあさ、いっちょお披露目といきますか──」
芦屋が右手を前に突き出した瞬間、空気が振動した。ぶちぶちと嫌な音がする。
その細い腕が、皮膚の内側から無理やり何かに食い破られるようにして裂けた。
ぬるりと飛び出した黒い触手。
触手というにはあまりにも禍々しい。
光を飲み込む漆黒、表面には蠢く血管のような模様が走り、体を呑み込もうとするそれは、幡代が見せた能力と酷似していた。
すると、突風が吹いた。
触手が現れた瞬間、気流が巻き起こり、室内に渦を巻いている。異常だ。
付近に窓もなく、風など吹くはずもない密室で突風が生まれていた。




