27話
「氷室さん、無理しないでくださいね」
「わかってるって」
幡代の声が背後から聞こえたが、振り向かずに答えた。
そんな言葉を言わないで欲しい、逃げ道を作られると情けなく、縋ってしまうじゃないか。
「……よし、来いッ!!」
「「……グギャァオオオッ! ヴォォオオッ……!」」
けたたましい唸り声を上げて、二体のバケモノはこちらへと迫ってくる。
幸いにもこれまで遭遇してきたヤツらに比べてまだ攻撃は遅いようだった。
これなら、眼を使わなくても容易く避けられる。さすがに空中戦に持ち込まれると厄介だが。
両側から襲いかかるバケモノを巧みに回避して、その一体をナイフで切りつけた。
しかし、ブンッと音を鳴らして見事に空を切る。
「……クソッ、当たらなかったか」
「一匹ずつ倒していきましょう。片方は回避に集中してください。襲ってきたら私が指示を出しますので……」
「わかった、助かる……」
ナイフを前に構える。
ひとまず、一体のバケモノに重きを置く。
(……たしかに、両方相手にしていたらジリ貧になるだけだ。少しずつ仕留めていくか)
「……ギィヤァアアッ!」
空気を揺らすほどの甲高い咆哮を起点に、また襲いかかってくる。
攻撃は相変わらずで避けるのは容易く、苦を強いられる事はない。よし、今だ!
今度は攻勢に転じる為、俺は右目の能力を行使した。
敵の攻撃がスローモーションになり、先ほどと同様に巧みに回避してから俺は大振りに翼の膜に狙いを定め、切りつけた。
が、またしても燦然と輝くナイフは空を切る。
(……なんでだ。今度は当たったと思ったのに……どういう事だ!)
黒い翼を狙って切りつけた──はずだった。
確実に届く距離、目と鼻の先。
その上目の力を行使したのに、それを外すわけがない。様々な可能性と現状の把握を合致させるよう、懸命に思考を巡らせる。
真上はガラス張り。この時間であれば日光が差し込んでいるからか?
いや、それは違う。俺の目は眩んでいなかった。
確たる証拠としてさすがに気付くはずだろう。
まさか……違和感を覚えた俺は手元のナイフを見遣る。同時に面食らった。
「なんだよこれ……? え、液体?」
ナイフの先端にはドロリとした黒い粘液が付着していた。
親指と人差しの腹で擦ってみると、ローションのようなもの。粘度で言えば、それ以上かもしれない。
つまり、確実に切りつけてはいたのだ。が、バケモノの体に纏う粘液によって滑っていたと考えれば胸の痞えが下りた。
同時に、その確信は自身の無力さを通告する凶報に値した。
しかし、だとすれば護身用の銃弾も通らないだろう。
──俺には、どうする事もできないのだ。
「……いや、まだだ。まだ諦めるな!」
目前の黒い異形は、空中で不気味に羽ばたきながらこちらを見下ろしていた。
馬鹿正直に戦えば勝てない……今は避けて避けて、避けまくれ。
そして、模索しろ──アイツらの弱点を!
「一体、後ろから来ます。避けてください氷室さん!」
幡代の忠告が聞こえて、俺は即座に身を翻す。
背後から迫る気配。羽ばたきと共に巻き起こる空気の渦。
音を置き去りにするような速度で迫る異形に、反射的に膝を折って身を低く沈めた。
「……ッ──ぐっ!」
バケモノのかぎ爪が空を切り、俺の額すれすれをかすめていった。
──二度、三度と繰り返す。
身に着けていたジャケットの肩部分が破れ、露出した肌を徐々に切り裂く。
攻撃すべてを避けられるはずもなく、体力はとうに限界を迎えていた。
常人でない集中力、死を前にして肉体的、精神的に疲労していくのがわかる。
脚は震え、集中力も落ちてきた。
体を低く構えながら、俺は足元に広がる黒い粘液の残滓に目を凝らした。
さっきは気付かなかったが、ツンと鼻を突くガソリンのような刺激臭がする。
唇を引き結び、慎重に息を吸い込む。
瞬間、喉の奥に焼けつくような違和感が走った。
「……まさかッ!?」
揮発性の溶剤特有の嫌な頭痛——これはただの粘液ではない。
黒光りの粘液の成分が気化して、呼吸するだけで神経を麻痺させる毒性を持ち得ている。
「危険です! できるだけ吸わないようにしてください」
幡代も異変に気が付いたらしく、声が背後から響く。
確かに、目の前の黒い異形はゆっくりと体液を滴らせ、まるで毒ガスを撒き散らすかのように翼を羽ばたかせている。
これ以上吸い込むのはまずい……! 高濃度のガソリンか何かの揮発性のものか……ベンゼンを含んでいる特有の甘い匂い。
他にも、様々な有毒物質が含まれていると考えると今の状況は相当まずい!
──けれど、ここで俺の勝利は無から確信へと変わった。




