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23話

 彼は確かに俺たちを指していた──さっき幡代がバケモノと対峙したとき、右腕に漆黒の異形を纏っていた。

 一瞬何を言っているのかと困惑したがあの姿を見た誰かが、生き延びてここに逃げ込んだのだと理解した。


 ──いや、違う。

 それは『見ていた』ではなく『誤解していた』のだ。


 まずい事になった。このままでは……。


「あれを……あれを見たんだよ! そこにいる女……! 右腕からバケモノみたいな黒い触手を生やしてやがったんだよ!!」


「ちょっと待ってくれ……! 誤解だって!」


「な、何が誤解だよ!! 後ろの女、バケモノだぞ……!? もしかしてお前もその仲間なのかッ!!」


「……違うって!」


「ち、違うのは女の方だろうがッ……!」


 男性は物凄い剣幕で捲し立てる。


 ……ダメだ、まったく聞く耳を持っていない。更に声を荒らげては完全に平静を失っている様子だ。

 その声に避難所にいる多くの民間人は怯えた表情でドミノ倒しの如く後ろの人たちにも不安が伝播していった。


 幡代が一歩、後退りをした。肩が微かに震え、俯いた表情からは感情が読み取れない。

 ただ、指を差されたままその場所に彼女は静かに佇んでいた。


「おい、あんたら、離れろ……! あれ、絶対おかしいって……!」


 ざわつく声が広がる。

 母親に身を寄せる子供、遠巻きにこちらを睨む中年の男。警戒心を露わに、距離を取る人々。


 場の空気が音もなく変質していくのが肌でわかった。


「やめてくれ!」


 俺が思わず叫んだ。


「コイツは俺たちを助けてくれた。俺も目の前で見たんだ! 誰よりも人間の命を大事にしてた! そして、人間だった。それを知らずに誤解しているだけなんだ!」


「助けた……? そんな事信じられるわけがないだろ!」


 責め立てる声と、それに伴って子供の泣き声が重なる。


 疑心という名の見えない凶器がじわじわと空間を侵食していく。


「エマさんは、人間だよ! ちゃんと助けてくれた、やさしくて……絶対に怖い人じゃない」


 玄ちゃんの小さな声が響いた。


 だが、それでも多くの視線はなお、幡代を疑うように注がれたままだった。


「……そういう風に、子どもに言い聞かせてるだけかもしれないだろ。あの女が……その、洗脳とか……」


「……は? どんな理屈だよ、それ」


 思わず語気を強める。けれど、男の目は変わらなかった。


 怯えと混乱の末に作り上げられた『誤解』を誰も覆していない。

 ──俺たちが敵じゃないと、どうやって信じてもらえばいい? いや、もう手遅れなのだ。


 周囲を見渡せば、あの冷たい視線が俺たちを取り囲んでいた。

 懐疑の目、畏怖の目が俺たちを捉え、その視線の奔流が瞬く間に避難所を席巻していた。誰もが疑念を糧にして裁く為の大義名分を欲している。

 そして、幼稚園児くらいの小さな男の子が異様な空気に呑まれ、たじろぐのが見えた。


 怯えた目で小さな人差し指を俺たちへと向けている。


「……怖い。あんなのが近くにいるなんて、嫌だよ……」


 その言葉が引き金だった。続けて、別の女の人が震える声を上げた。


「私たちの子どもに、何かあったらどうするんですか……!」


「元はといえば、あんたらが変なバケモノを連れてきたからじゃないのか!?」


「責任取れるのかよ、なぁ!」


 罵声と非難が一気に洪水のように押し寄せる。もはや理屈ではない。

 怒りと不安と恐怖が合わさって、人々の感情が暴走し始めているのがわかった。


 幡代は何も言わない。ただ俯いたまま唇を噛んでいた。


 俺はそれが悔しくて、口を開こうとした。


「……お前ら────」


「静かにしてください!」


 突然、鋭い声が響いて群衆の騒ぎが一瞬だけ止まった。


 人々が注目した先には、先ほどのスーツ姿の職員が立っていた。

 名簿を抱えたまま、顔色ひとつ変えずに俺たちに視線を寄越している。


「避難所内でのトラブルは、他の避難者の安全を脅かす重大な問題です……申し訳ありませんが、これ以上の混乱を避ける為にもあなた方三名には一時、避難所の外へ出ていただく必要があります」


 その言葉が鋭く、刃のように突き刺さる。


「……は? 何を、せめて玄ちゃんだけは──」


「申し訳ありません」


 食い下がる俺に、職員はわずかに目を伏せた。


「そういう決まりです。争いの種になりかねない以上、老若男女関係ありません。他の避難者の不安の抑制を優先せざるを得ません」


「尚更、バケモノの疑いがあるのなら」と、付け加えて。


 男性の言葉は建前だった。


 だが同時に、ここが『無法ではない場所』である事の意思表示でもあった。

 誰かを排除する事で秩序を保つ。一見冷酷だが、正しいとも言える。


「……ふざけんな」


 俺は唇を噛み締め、吐き捨てるように言った。


 何も悪くない幡代が、ただ人を助けた幡代が追い出されようとしている。


 それでも──

「玄ちゃん……ごめんね。行こうか」


 幡代が静かに声をかけた。


 見せた表情は泣きそうな子どもに寄り添うように、優しかった。


「幡代……お前は本当にいいのかよ……」


「私は別にいいんです、ありがとうございます。お邪魔なので私たちはお暇しましょう」


「ちょっと待てよ……これが許される訳がないだろ」


「……庇ってくれるだけでも嬉しいです」


 俺がか細い腕を掴むと、小さく首を振った。


 これまで毅然と振る舞っていた幡代も今回ばかりは動揺を隠せずにいたようだ。


(…………クソッ! コイツらッ!)


 俺は去り際に睨みつけた。

 目一杯の憎悪を孕んだ目で。


 踵を返して扉を出ると、ピシャリと閉め出された。その瞬間に背後から罵詈雑言の声が背中を刺したような気がした。もちろん、矛先は俺たちだろう。


 危険な時にこそ人間の本性が現れるというが、おそらく事実だ。

 弁解の余地もないただただ、四方八方の言葉に呑み込まれるだけだった。


 確かに、リスクヘッジは大切だ──いや、もう終わった事だ……これ以上はよそう。


「ごめんね。玄ちゃん」


「……ううん。でも、エマちゃんは絶対にいい人だからあの人たちが言っている事はおかしいよ」


「八歳くらい下の離れてる子に慰められるなんて、思いもしなかったです。ありがとね」


 幡代は自分のせいで、玄ちゃんも道連れになってしまった事を気にしているのだろう。

 少なくとも、外にいるよりはマシだった。


 それなのに──自分が原因でそこから追い出され、再び危険に晒される事になった。助けるはずがむしろ、危険に投じるなど本末転倒だ。その責任をひどく感じていると見える。


 しかし、バレるのは時間の問題だったと俺は思う。結局のところ、今はまだバケモノに気づかれていないが見つかったらで、幡代と俺が戦う事になっていた。


 結果として避難民を助けたならどうなっていたのだろう。同じようにバケモノと非難されるか、救世主として崇められるか──もう起きやしない無意味な憶測ばかりに焦点を当ててしまう。 


 ああ、ばかばかしいな。

 今はこれからの事を考えないと。


「……幡代。玄ちゃんのお母さんを探そう」


「え? ですけど……」


「俺たちにはその責任があると思う。危険に晒した役目だ」


「そう……ですね。探しましょうか」


 幡代は何か言いたげな様子だったが、首を縦に振った。


『もし、死んでいたら?』という懸念が脳裏を過ぎったに違いない。それは俺も重々承知だった。


 恰好がつかないと言うと、利己的だと思われるがこのままでは玄ちゃんが不憫でならなかったのだ。

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