2話
途端に思考がまとまらなくなり混濁の末、俺は意識を取り戻す。
曖昧で不明瞭な夢。頭の奥にあの声だけがハウリングするように響く。耳障りで不快な音だ。同時に神が言い放った言葉が何度も脳内でリフレインされる。
胸裡にざわざわと波打つ感覚──そんな状態で瞼を開けると、自室のベッドに横たわっていた。
天井には自分の好きなアイドルのポスターがぼやけて見える。
(今日も可愛いな……ていうか、妙な夢を見たな。高熱でもあったのか?)
思いながら体の向きを左に回転させた。今日はやけに起きる気がしない。
前提としてなぜ、ポスターを天井に貼っているのか、それには理にかなった理由がある。なぜなら、気分良く起きれるからだ。ただそれだけ……合理性のある行動なのだ。
普段であればその美貌に意識を覚醒させる事ができるのだが、今日は不気味な夢と現実味のあるポスターとの乖離で悶々とした挙句、しばらくの間その余韻で起床する気にもなれず重い体をベッドへ預けていた。
しかし、今日は大学の講義もあるがゆえに、やむを得ず体を起こすしかない。
「クソッ……なんだこれ。ベトベトじゃねぇか」
シャツの下から背に手を伸ばそうとした瞬間、俺は気がついた。全身にはびっしょりと汗をかいていたのだ。水色のベッドシーツは湿っており、明々に汗の跡が残っている。
絶賛、冬にも関わらず妙に体が暑く、気怠さも感じる。暖房をかけているにしても、体の芯から湧き上がる熱気はどうもおかしい。
あぁ、やっぱり嫌な夢を見ていたのだろう。誰しも悪夢を見た後は大抵こんな風になるものだ。
自問自答してから無理やり胸に落とし込む。上体を起こして机の上に目を遣ると、へしゃげたビールの缶にプルタブがちぎれて、数本の煙草が突き刺さっているのが見えた。
視線を少しずらすと、隣には積み重ねられたノートの山々。その中に一際分厚い経済学の教科書が視界に入り、陰鬱な気分が連続する。
……そうだ、課題が終わってねぇ。今日の二限提出なのに経済学入門Ⅱのレポート……今回の単位やばいかもな。
五千字以上の課題だが、俺はまだ半分ほどしか進んでいない。今日の二限提出という事はつまり、もう間に合わない事に他ならない。
更にレポートは三割を占めている事実から今回の単位は絶望的と言わざるを得なかった。
「とりあえず、さっさと身支度済まして出ないとまた遅刻する羽目になる。それはほんとに避けなきゃいけねぇ!」
今日の授業で使う教科書を慌てて本棚から取り出し、鞄を背負うと俺は一階に降りた。
一階のリビングに行くと、両親は既に食卓についていた。
「おはよう。祐、どうした今日はやけに早い起床なんだな」
「ああ、父さんおはよう」
「おはよ〜。今日も学校なんでしょ? ご飯できてるから早く食べて行きなさいよ。もう三回生なんだし、ちゃんと単位とって就活の体制整えなきゃね」
母さんは心配そうに訊ねた。
「母さんもおはよう。知ってるってその話」
「ちゃんと考えなさいよね。ところでインターンは出してる?」
「一応出してるってば」
「ほんと?」
「ほんとだよ!」
耳の痛くなる話が耳朶を打ち、俺は億劫になった。
父さんは香ばしい匂いの珈琲を心地よい音で啜り、新聞を眺めている。
どうやら朝食は済ませてきたらしい。それは明白だった。お皿は空である上、普段の様子ならご飯を済ませたあとに、新聞を読むのがルーティンだからだ。
母さんは俺の返答に不満気な表情を示すが異を唱える事も決してせず、子慣れた様子で台所から朝食を運んできていた。
「今日はパンだけどいい?」
「うん。なんでも構わないけど」
鞄を椅子の横に置く。続いて俺もご飯に手をつける。適当な具合に焼けたトーストと、ピーナッツバター。バターナイフですくい取ってパンにディップした。
「……ふわぁ、ねみぃ……」
寝ぼけ眼を無理やりこじ開けようと擦る。
見てわかる通り、家族で食卓を囲みながら朝食を取るのがこの家のしきたりだ。家族の絆を大事にしている事が起因しているようで、コミュニケーションを測る要素に毎朝恒例の談笑が始まる。
これは家庭に欠かせない行事。誇張はしていない。
兄弟はおらず、独りだという事もその理由として考えられるかもしれない。子供の頃から約二十年。毎朝こんな感じだ。言うならば、一日の始まりに過ぎないただの日常の一片。
しかし、今日は様子が違った。
──昨日の夢の話をする。それが原因だったのだ。
「てか……なんかさ、昨日変な夢見たんだよ」
「ふぅん、どんな夢だ?」
「いや、なんていうか」
「うんうん」
父さんは依然として、新聞に目を落としながら頷く。
「なんか神様みたいなヤツが出てきて、世界がどうとか、代償がどうとか……あー、うまく説明できねぇけど、映画みたいな夢だった。昨日の夜に変なSF小説でも読んだからかな?」
笑い混じりに話した途端、ピタリと若干の静寂が家の中を支配する。父さんは捲っていた新聞の手を不自然に止め、母さんも同様に口へ運ぼうとしていたトーストの手を止めた。
「それでさ〜。異空間とか言って、そのまま小説にできそうな設定──って……」
何気ない面持ちで雑談の続きを話そうとする。が、二人の異変に気付いた俺は同様を隠せずに口を噤ませた。一体どうしたというのか?
目を泳がせる。上がっていた口角が徐々に落ち着きを取り戻す。
「……え、俺なんか変な事言った?」
「いや……」
その言葉は厭に歯切れの悪いものだった。
両親は眉を顰め、訝しげな表情を浮かべると同時に顔を見合わせている。
それから切り出したのはやはり父さんの方で。
「…………父さんもその夢、見たぞ」
「私も……なんか、世界が崩壊するって話」
「……え、もしかしてみんなも同じ夢見たって事?」
思わず問い返した俺に、両親は答えられないまま黙り込んだ。互いに顔を見合わせ、どちらからも続きの言葉が出てこない。
ふと、背筋にぞわりと嫌な感覚が走る。
同じ夢を見たなんて偶然とは思えなかった。夢の内容が一致するなんて、そんな馬鹿な話があるか?
『同床異夢』なんて中国の言葉があるように、同じ床で寝ていても同じ夢を見る事はない。
ましてやとある大学の研究で脳の構造や機能的なものは個体差があると科学的に証明されて、人間の指紋と同じといった資料を見た事がある。
遺伝子的要因、環境要因を鑑みたところ同じ夢を見るのは不可能と結論づけられた。鵜呑みにしてしまうのも自分ではどうかと思うが厄介な性格上、合理性がないと信じられないタチだ。
いや、おかしい。やっぱりおかしい。そんな事が起こりうるはずがない。家族みんなが同じ夢を見たのはやっぱり何かがあるのかもしれない。
「……他にも、見た人いるのか?」
無意識のうちに手が机にあるリモコンを掴んでいた。
もしかして、と思いテレビの電源を入れる。
──衝撃の光景を目の当たりにした。内心ではバカげていると思いつつも、四十五インチの液晶画面はその考えを無情にも砕き、事実となって俺に襲いかかってきたのだ。
「────ッ! な、なんだよこれ……!?」
「祐、よせ。朝からこんなもの──」
「……いやっ!!!!!!!!」
バケモノバケモノバケモノバケモノバケモノバケモノ。
瞬時にその言葉が脳裏を過ぎる。
あの夢は本当だった。世界は──本当に終わり始めている。俺は不思議と確信した。
喉を掻っ切り、内臓を抉りとられた人の死体が中継に映されていた。見るも無惨な姿で上半身と下半身は分断され、周辺に真っ赤な血が飛散している。
一体何が、誰がこんな事をしたのか俺、いや多くの人がこの文字を見て確信しただろう。
画面の右上には
──『全人類が同時に見た夢』と、テロップが表示されていた。




