19話
「いきますよ!」
異形のバケモノが地を蹴った。
同時に彼女も走り出す。
床が軋む。高速で突進する獣。
立ち尽くす少女に今にも牙が届きそうな間合い。
──ドンッ!
幡代の身体が弾丸のように割り込み、少女の体を抱きかかえた瞬間、彼女たちは床を転がるようにして横へ飛び退いた。
「女の子、見といてください」
「おい……お前はどうするんだよ」
「私が戦うので、氷室さんは女の子がケガしないように……」
女の子をそっとこちらへ寄越すと、後ろに下がるように合図を送ってきた。
少女を受け取った俺はそのか細い身体の震えに、改めて恐怖の凄まじさを思い知る。
体を強ばらせて両肩にしがみついてきた。
「もう大丈夫だから泣くな……」
「こわい、こわいよぉおおお……!」
俺が声をかけると、少女はぐしゃぐしゃの顔のまま何度も頷いた。
その双眸から絶望と恐怖を宿らせた大粒の雫が絶え間なく、床に落ちてゆく。
煌びやかでしかし、気持ちとは相反する透き通った涙は普遍的なものだった。
ひとまず幼い子供に惨たらしいものを見せるのは酷だ。抱き上げてそっと頭を俯かせてから視界を遮ってやる。
幡代に視線を向ければ、すでにバケモノとの間合いを詰めつつあった。
「……来ますよ、氷室さん!」
その巨体とは思えぬ速度で、俺たちに向かって一直線に迫る。
口を開き、鋭い牙を立てている。
「くっ……!」
反射的に身を引いた俺の目の前で幡代が回避し、ナイフでバケモノの目からしっぽにかけて一閃を入れた。
カチンッと鋭い金属音とともに、漆黒の毛皮から細微で膨大な量の火花が奔流となる。
獣の左目は潰れ、流血した。
「硬い……獣の毛とは思えない感じです。」
幡代はすぐさま後方に軽やかに下がり、体勢を立て直す。
小柄な体躯が放った一閃──その鋭さに俺は思わず息を呑んだ。
致命的なダメージを負わせる事ができなくとも的確に相手の急所を突く。如何せん毛皮は固くどうにもこうにも歯が立たない。
自分には到底真似できない動きだった。
(…………す、すげぇな)
幡代の目には恐れではなく冷静な判断が宿っていた。
もう一度、サバイバルナイフを前に構える。
ナイフは少しだけ刃こぼれしているようだ。
奴との距離はざっと十メートル、じりじりと詰めてくる。
スピードに加えて、殺傷力も兼ね備えているらしい。あの、鋭い牙に鋭い爪──当たれば致命傷は免れない。
幡代だから何とか避ける事ができているが俺では太刀打ちできない。圧倒的な攻撃力はないが、スピードと反射神経は目を見張るほどなのだ。
五メートルほどになったところで、バケモノは左前足を上げて鋭い鉤爪で攻撃する。
「氷室さんは下がっといてくださいね。この敵、とても速いです!」
さらりとまたさっきのように素早く攻撃を回避した。右手で受け身を取り、体勢を整える。
──二回、──三回。
同じように攻撃を避け続けている。
「ほんと、速くて疲れますね……攻撃が当たったとしてもかすり傷程度で弱る気配も見せません」
────そして、四回目
「グルルルルァァアアァッ……!」
継続的な連撃に耐え切れなくなり、怯んだ隙を見逃さなかったバケモノは追い打ちをかけるが如く、けたたましい声を上げて突進すると幡代の小さな体躯に直撃した。
「…………ぐッ!」
ドン、と直撃するとともに鈍い音が鳴る。
俺のすぐ側を横切りそして、背後にある洋服店へと飛ばされた。ガシャンと大きな音が聞こえてくる。
凄まじい風圧にすぐさま振り返れば苦悶の表情を浮かべて、顔を顰めている幡代の姿が見えた。
地面に崩れ落ちたまま口元から微かに血を垂らしていた。
右肩がずれている。骨が外れたか、砕かれたか──あるいは両方だろう。
「……はぁっ、やりますね、あなた……」
壁に叩きつけられた衝撃に息が上がっている。それでも、彼女は立ち上がろうとする。
震える脚に力を込めてギリギリのところで意識を保ち続ける。
波の人間なら体を動かす事さえもできない。
思わず一歩踏み出しそうになったが、足がすくんでいた。
バケモノがこちらを視界に捉えている。
次の獲物を切り替えた、という殺気を肌で感じ、ブワっと寒気が全身を駆け上がる。
(は、はやく逃げねぇと……!)
頭ではそう叫んでいるのに、心と体は幡代のもとへ駆け寄りたい衝動で支配されていた。
「ッ、氷室さん……来ないでください、来ちゃ……ダメです」
声が震えていた。だが、目は折れていない。
彼女の視線の奥には闘志のような何かが、まだ灯っていた。
「私、まだ終わってませんので……」
「……おいっ! でも、これ以上は死ぬだろッ! 俺も一緒に戦うって!!」
「……ダメです」
幡代はそう言って、足を引きずり、側を横切るとバケモノの前に立つ。
背後の俺たちが動かないようにこちらに左手の平を向けて静止を促す。
「──ってもお前、右腕が折れてて動かないだろッ……! そんな状態でどうするってんだよッ!!」
「心配しないでください。氷室さんに心配される必要はないですから……ぐッ……!」
「はぁッ!? 口から血が出てるし……おまえ、何言って──」
幡代は口元の血を拭う。
それから何かを覚悟し深く、重い溜め息を吐いた。
「……ひ、氷室さん、見せてあげます。私の──覚醒者の能力」
「か、覚醒者?」
「はい。あまり使いたくはないんですけど」
幡代から真っ黒の触手のようなものが現れ、形をうねらせながら右半身を呑み込んでいく。
幡代の細い右腕を起点に黒い何かが蠢いていた。
──触手、か?
まるで生き物のようにどくどく脈打ち、幡代の右半身を包み込むように絡みついていく。
どろりとした黒、艶のない漆黒。液体のようでもあり金属のような硬質感と光沢感すらあった。
「……平気なので、だから。私に任せてください」
声自体は平静そのものであったがいつの間にか右の瞳は異様な赤い光を宿していた。
感情を押し殺して、ただ目の前の敵を『排除する』事だけに集中しているような──人間らしさが一欠片もない目。
「お、おい。幡代……お前……それ、本当に大丈夫なのか?」
狼狽した俺は震えた声で訊いてしまう。
言葉にした瞬間、俺は自分がどこかで彼女の変化を恐れていると気が付いた。
だが、幡代は碌に返事もせず、無言でバケモノを見据えたまま一歩踏み出す。
左半身は幡代の人間のままなのに右半身を覆う漆黒の触手は鎧のように彼女の腕と肩、腰、足の先までを覆っていた。
その触手の一部が鋭く伸び、槍のように先端を尖らせている。
──それは到底人間のものではない。異形、それ以外の言葉で表しようがなかった。
「……これが覚醒者の力?」
覚醒者──世界の崩壊が現在進行形で進んでいる今、神が人類の救世主として授けたもの。
俺は覚醒と言えるのかはわからないが右目を使って時間感覚の流れを遅くする事ができるのだ。
なぜ、自分の能力を覚醒と呼びきれないのは、目の前にいる幡代を見れば火を見るよりも明らかだった。
「氷室さん。これが私の覚醒の能力です」
単調な声。俺は目の前の光景に気圧されていた。
漆黒の触手が幡代の右半身を覆い、今まさに蠢いている。
それは生きているとしか思えない生物的な動きで彼女の細い身体と対照的に、異形そのものの質感を放つ。
触手の一部が槍のように鋭く尖ってバケモノの方へとゆっくりと、しかし確実に焦点を当てて獲物として捉えていた。
「危ないので下がっててください。絶対に飛び込んできたりしないでくださいね……一緒に貫いてしまうかもしれないので」
「あ、ああ……もちろんだ」
自分から放たれる言葉は必然的だった。それ以外に答えようがなかった。
特有の淡々とした声だったがどこか冷酷さを孕んで、思わず体を震わせてしまう。
「ガァッ……!! グルゥアッ、ガァッ!!」
バケモノが動いた。
赤い目をぎらつかせ、威嚇のように前傾姿勢になり、突進の動作を見せる。
ビリビリと空気を震撼させた。先ほど幡代を吹き飛ばしたときの威力を思えば、今度食らえばただでは済まない……全身の骨が粉砕骨折するだろう。
──それでも、幡代は怯まなかった。否、怯めなかったのかもしれない。
彼女の右腕の触手がしなる。空気を裂く音とともに、槍状の先端がバケモノへと突き刺さる。
音速の速さでソニックブームが発生。途端に店舗の磨りガラスがすべて割れた。
俺は瞬時に耳を塞ぎ、少女にも同じ指示を扇ぐ。
────ズガァンッ!!!
音が遅れて耳に届いた。
爆弾を落とされたかの轟音がショッピングモールを占有する。あやうくこの近距離では鼓膜が破れるところだった。
衝撃音と共に、バケモノは頭部から下半身にかけて貫かれていた。
「グルゥア、ギャアアアアアアアアアアアアッ…………!!」
悲鳴ともつかない、脳を揺さぶるような咆哮。金切り声のようなものが響く。
幡代は依然として動じる様子を見せず、即座に触手を引き抜いたかと思うと今度は腕の外装が変化して尖形状に変わっていく。
流体のように自在に形を変えるそれはまるで幡代の意思と完全に同調している風にも見えた。
「……終わらせます」
そう呟いた次の瞬間、幡代は踏み込んだ。
さっきまでの彼女とは違う。
覚醒によって飛躍的に向上した身体能力を武器にバケモノの背後を一瞬で取る。
バシュッ……!!
鋭く斬りつける音。触手の刃がバケモノの背筋に深々とめり込む。
「グアアアアアアァァァアア……ッ!」
バケモノはよろめき、地面に膝をついた。
異様なほど頑丈だった黒い毛並みを易々と貫通し、致命傷を与える威力──これが幡代の覚醒者としての力。
────これが、覚醒。
筆舌に尽くし難い能力を目の当たりにして言葉が出なかった。圧倒された。
俺の右目で捉える時間の歪みなんて、ただの補助機能のようなものじゃないか。
感覚的に使える時間は三秒ほどでそこまでのアドバンテージなるものはない上に殺傷能力のあるものではない。
でも、幡代の能力は違う。
明確な破壊の力だ、おぞましい殺傷力を内包した完全な殺意の具現化。
(…………まるでバケモノだ)
不意にそんな感情が沸き立つ。
あまりにも圧倒的で、あまりにも異質で──そして強すぎた。
──バタリ、と。
バケモノの息の根が完全に沈黙する音が世界の音を取り戻したように響いた。




