15話
「氷室さん、起きましたか? もう朝ですよ」
「朝、か……?」
カーテンの隙間から差し込む陽光が、部屋の空気をぼんやり照らしていた。
昨晩、彼女に連れられて浴びるように酒を飲んでしまったのが響いたらしい。
ウイスキーに日本酒、サワー系のお酒。意外にも、幡代は小さな体躯に反して相当な酒豪だった。
そういえば九州出身だと言っていたから、やはり代々受け継ぐ酒飲みの血は抗えないという事か? 九州の人たちは酒がめっぽう強いらしいし。
頬は若干の熱を帯びて、酔いと眠気がまだ抜けきらない。
「酔いは大丈夫なのかよ。あんだけウイスキーやら日本酒を飲んどいて……」
「大丈夫ですよ、というかそれよりも……」
幡代はポッキーを口に含みながら、朝のニュース番組を気怠げに観ていた。
そうしてテレビに指を差す。
俺はねぼけ眼を擦って画面を見遣った。
「……見てくださいこれ」
「は、なんだよこれ……?」
自然とそんな言葉が溢れ出た。
『現場周辺は現在も自衛隊が封鎖中です。地中からは未知の有機物のような何かが確認されており──』
日常的に流れている朝のニュース番組、聞き慣れたアナウンサーの声だ。
そこには、京都府の住宅地に突如出現した黒い穴の映像が映し出されていた。
地面が割れ、地形が歪曲、建物が飲み込まれていく様子が、まるでCGのように流れている。見る限り大きさは直径五〜六メートルほど。
それを取り囲むようにして現在も自衛隊が封鎖を続けていた。だが、映像の画質が乱れた次の瞬間。
──何かが、穴の奥で蠢いた。
明らかに有機的な動き。
闇の中に光すら反射しないぬめりを持った塊がいた。人のようでいて人ではない。
いや、形容し難い何か。
『……ッ、カメラ、引いて! 引いてくださいッ!!』
現場のアナウンサーが叫んだ瞬間、映像はブツリと途切れ、代わりに『技術的な問題が発生しました』の文字が無機質に表示された。
予想はつく。映像を見ていないのにも関わらず妙な事に、映像の続きが脳内で無意識に描写される。
蠢いていたのはおそらく、俺が昨日対峙した類のバケモノだと大体推測はできた。
俺は乾いた喉を鳴らして、幡代の方を一瞥する。
「……やっぱり夢と、完全に同じだよな」
そう口にした俺に幡代は一度だけポッキーを上下に揺らし、淡々と返す。
「はい。あの神が言った事、すべてが合致してますよね」
冗談っぽく言っているのにその声色にはどこか、確信のような冷たさがあった。
「このペースだとあと……六ヶ所ですかね?」
幡代が指でカウントする。夢の中で神が語った七つの異空間の出現。京都で一つ。
残り六つ。現在把握しているのは京都だけだ。
「おい、待て……お前、なんでそんな詳しいんだ?」
俺の問いに、幡代は肩をすくめた。
「だって、私もあの夢……見たからですよ。氷室さんだけじゃないです。人類が見たんです」
「そういえば……そうだったな」
「これ、見てください」
言って幡代はスマホの画面を見せてくる。そこにはSNSのトレンド欄が映っていた。
文頭にはハッシュタグを加え、上から順に──
全人類が見た夢、四十万件の件のポスト。
代償 三十五万件のポスト。
救世主候補 三十四万件のポスト。
覚醒条件 三十万件のポスト。
「救世主候補、覚醒条件……ネットでは皆さんがなりたいと言ってますね。苦労も知らないのによくそんな無神経な言葉を」
幡代は嫌味加減に呟いた。
『俺は何も出来ずに死ぬだけなのに、救世主に選ばれた奴は良いよな。対抗できるし、生き残りやすいもんな』
『早く助けに来いよ。それがお前らの仕事だろうが』
粗末な言葉が羅列されている投稿が視界に入る。
まあ、そういう気持ちを抱くのはわからなくもない。隣の芝生は青く見える、なんて言葉があるように自分に持っていないものを他人が持っているというのは些か穏やかな気分じゃなくなる。
羨望と嫉妬が生じ、それらが昂れば毒にも似た言葉となって吐き出される。
しかし、当事者からすればこれほど迷惑なものはない。幡代もたぶん、同じ事を思っているだろう。
『救世主』という事はある意味世界を託されているに過ぎないのだから、こぞって渇望するような好ましい代物は断じてない。
昨日までは一般人でアスリート的秀でた能力もなかった自分が、いきなり能力をもたされて──いきなり自分だけが世界を救える逸材と知れば、困惑するのは当然の事だ。
「幡代、今はよそう……しかし、これからどうするんだ? このままだったら世界は崩壊してしまうって話だったよな?」
「そうですね。あなたに声をかけたのは他でもありません……」
「ん、ああ……?」
「単刀直入に言います──私に協力してください」
幡代は間髪入れずに続けた。
「私一人だけではどうすることもできません。だから、あなたに手伝って欲しいんです……民間人をこれ以上犠牲に晒すわけにはいきません」
しばらくの沈黙。このまま世界の崩壊を待つよりは少しでも抗ってみる余地はある。
救世主の責務を放棄して短い一生を終えるという考えも脳裏に過った。
また、昨日のバケモノと戦う羽目になる。一匹や二匹どころではないだろう。
──怖い、怖い。それでも。
「もちろん、手伝う。ここまでしてもらったからには手伝わないとは言いにくいし」
震えを押し殺して言葉を吐き出す。選んだのは、抗う道だった。
俺の答えを聞き終えると、幡代は破顔し、
「……そういうと思ってました。ありがとうございます、これからはパートナーですね、よろしくお願いします」
静かに右手を差し出してくる。
俺もまたほんのわずかな逡巡のうちに手を取った。
幡代エマ(覚醒者)である彼女とパートナーを組んだ訳だがこれからどうするのか。
そういった疑問が胸中で渦巻いていた。
未だにバケモノは出てきていて、収まりを見せる気配はなかった。
それどころか、犠牲者も増えており日本中そして世界中までもがパニックに陥っていた。
神が言った七つの異空間のうち、見つかっているのは京都のみ。残りの六つは今もどこかで息を潜めているという事だ。
幡代は黒いダウンジャケットを着て、最低限の武器を装備した。
「氷室さん、行きましょう。銃ひとつじゃさすがに心許ないと思うので、サバイバルナイフを渡しておきます」
「ありがとう。昨日のカッターナイフよりかは使えると思うけど……こんなもの一体どこから持ってきたんだ?」
俺がナイフを受け取りながらそう訊ねると、幡代は無表情に返した。




