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13話

 タオルで髪を拭きながらバスルームを出ると、ふわりと味噌の香りが鼻腔を撫でた。


「おかえりなさい。はい、どうぞ。こっちに来て食べましょう」


 幡代が差し出してきたのは、湯気の立つ小さな鍋と木製のお椀。

 中には豆腐と卵と刻みネギだけの、シンプルな雑炊。木製のお椀には味噌汁が入っている。


 どちらも簡素な食事だ。しかし、朝から腹に何も入れていない空っぽの胃が匂いに反応。

 さらに連動するようにして無意識に分泌された唾液を思わず飲み込んだ。


「……ありがとう。改めて言うけど……こんなにしてもらって、悪いな」


「全然いいですって。氷室さんには死んでもらったら困るので……救世主に選ばれた人がすぐ死ぬなんて事があったら困りますよ」


「救世主、か……あんま自覚はないけど。ひとまず、いただきます……」


 そう言いながらソファに座り、鍋からよそった雑炊をひと口運ぶ。


 熱い、けど美味しい。これまでも感じてきたはずなのに、それだけの事なのに不思議と感動を覚える。

 おそらく、今の俺には頼るものがなかったからなのだとすぐに理解できた。


「美味しいですか? 私、あんまり料理は上手じゃないんですけど。不味かったら残してもいいです」


 呆然と感傷に浸っていた俺を心配してくれているのか、幡代は温かな表情でお茶を持ってきてくれた。


 もちろん、不味いはずがない。というより美味しい方が勝っている。


「いや、めっちゃうまいぞ! 全然料理下手じゃないしいくらでも食べれるくらいだ」


「そう言ってもらえてよかったです」


 幡代は思い出したかのように手を叩く。


「あ、忘れてた。あと……煙草、氷室さんが吸ってるなら別に吸っていいですよ。私も喫煙者なので全然大丈夫です」


「……あ、ありがとう──って、え……?」


「はい? なんですか……そんなにジロジロ見てきて。怖いですよ」


「お前、煙草なんて吸っていいのかよ。まだ高校生──」

 と、口を衝いてしまいそうになった間際、危うく大切な事を思い出した。


 そういえばコイツ、二十歳超えてるんだったっけ……ああ、ややこしいな!


 幡代を見ているとどうにも成人していたという事を忘れてしまう。

 小柄な体躯で童顔だからかは知らないが。勝手に脳が識別機能を削がれ錯覚する。これは相当マズイ。


「氷室さん。失礼ですね、さっき私二十歳超えてるって言いましたよね? なんですか、体格ですか? もしかしておっぱいが小さいからついつい間違えてしまうとかそういうのですか?」


 自分の胸を両手で触ると、眉を顰めた。


「私、Bカップはあるんですけど。胸、ないように見えますか? 今は……厚めのスウェット着てるから分かりにくいですけど」


「……ち、違うって!! お前、思考が飛躍しすぎだろ。別にそんな事言ってねぇよ!」


 全力で両手を左右に振って否定の姿勢を見せる。


「本当ですか? 恩を仇で返す気じゃありませんよね?」


「んなわけないだろ! 普通に胸あるって、どこか見てもお前は大人だ。女子大生だ」


「まぁ、そういう事にしときますよ」


「いや、ほんとなんだって……」


 小さな体躯、と小さなおっぱ──じゃなかった。が、コンプレックスなのか不機嫌な様子を顕にしてポケットから煙草を取り出した。


 確かに、体は小さいが別に女性としての魅力に欠けているとか頭ごなしな中傷をしたいわけではない。

 女性は胸だけじゃないんだ、足、そして顔の可愛さもあるし何よりも性格が大事なんだ。

 ああ、もうやめよう……これ以上は失言しそうだ。今度は激昂される。


「……て、ていうか、お前。煙草吸うようなタイプに見えなかったけどな」


 どうにかこの場を乗り切ろうと、苦笑しながら俺もリュックの中から少しだけ湿った箱を取り出す。

 えっとライターは……あった、あった。オイルもあるしまだ使えそうだ。


「なんか上手く話をすり替えられた感じで釈然としませんけど……まぁ、昔からですね。最初は反抗期の延長みたいなもので」


 幡代は小さく肩をすくめて、自分の鞄から水色のパッケージをしたソフト煙草を取り出す。

 フィルターは茶色をしていて、見るにレギュラー煙草だった。


「へぇ。昔から吸ってるとかじゃないよな、さすがにそんな風には見えないし」


「当たり前じゃないですか」


 呆れたように溜め息をついてから徐に立ち上がる。


「ベランダ行きませんか? とっても風が気持ちいいですし。あと、部屋少しだけ窓開けます」


「そうだな。ここで吸ったら折角の綺麗な壁が黄ばんじまうし」


「はい。案外綺麗好きなので」


 そう言って幡代は窓を数センチ開ける。

 夜の冷たい空気がすっと差し込んできて、湯気の籠った部屋をほんのわずかに引き締めた。


 ガラス戸を静かに開けると金具が小さく鳴り、外気が一層強く流れ込んだ。ベランダに一歩踏み出すと、夜の闇に包まれた街の灯りが遠くに瞬いている。


 そこで煙草に火をつける。

 一口吸って、肺に煙を溜める。

 焦げた紙の匂いと、ほのかなバニラ風味の後味が鼻から抜けた。


「……落ち着くな」


「ですね」


 幡代も自分の煙草に火をつけると、口元から静かに煙を吐いた。


 その横顔は、どこか遠いものを見ているようだった。ベランダに出て、視線を落とすと大通り。彼女の部屋は三階で随分と眺めも良かった。

 しばらくの沈黙が心地よく、テレビもスマホもないこの空間が今だけ異様に静かで、電子機器を片手に持たない一風違った時代錯誤な感じが堪らない。


「昔さ、母親が言ってたんだよ。本当にしんどい時は、ちゃんと食べて、ちゃんと風呂入って、ちゃんと一服しろって」


「……いいお母さんですね。でも、一服って絶対に煙草の意味じゃないですよね」


「そりゃあ、もちろん。休憩って意味だろ」


「ふふっ。まぁそうですよね。今どき吸っている人の方が少ないですし、両親から怒られますよ」


「……両親、か。今日いなくなっちゃったけどな……」


 今日の出来事を思い返して嘆息する。


 途端に幡代は少しだけ目を伏せた。

 気まずくなったかと思った束の間、彼女は何も語らずもう一度煙を吐いた。


「私も、似たようなものですよ」


「家族、いないんだな」


「いないっていうか……もういない事になってる感じですね。実家からは籍も外されてるので、今何をしているかも知らないし知りたくもありません」


 薄らと零してはいたが、それはどこか自嘲に近いものだった。


 無理に口角を持ち上げた笑みは目だけが笑っていなかった。

 まるで、自分の痛みを茶化す事でしか昇華できないような、そんな表情で。


 煙草の火がじりじりとフィルターに近づいてゆく。夜の冷気が二人の間をすり抜けて、でもその寒ささえ、今は妙に優しかった。

 吸い込んだ煙が肺に染みてそれを吐き出すと、冷たい空気と混ざり合って空に溶けていく。


 夜風が頬を撫でるたびに今だけは世界の喧騒が遠のいた気がした。

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