12話
──午後十時。
地下鉄烏丸御池駅付近まで歩いた。
徒歩で約三十分程度、特段遠くもなく近くもない距離を寒空の下、俺たちは向かう。
ボロボロの容体には少々厳しかったが、歯を噛み締めて我慢した。
幡代の家まであと、半分まで来たところで訊ねた。 少し、気にかかっていた事。
「なぁ……ひとつ訊いてもいいか?」
「はい」
肩を並べている彼女は表情を変えず、正面を向いたまま歩を進める。
「お前なんで、インターホン鳴らしてきたんだ? そこがよくわからない。俺が覚醒者って知っていたからなのか?」
「……ん〜、そうですね〜」
自宅のインターホンが鳴ったのは、まさにバケモノが現れる直前の出来事だった。
偶然にしては出来すぎているというか、些か不可解に思う。
「……そこが一番引っかかってる」
幡代はだんまりを決め込む。
口を引き結んだまま、ゆっくりと顎に指を添える。 それから、何かを吟味するようにほんの少し考える素振りを見せた。
「えっと、そうですね〜」
軽く引き伸ばすような声。
彼女の目は、相変わらずまっすぐ前を見据えている。
しかし、含蓄のある溜めから放たれた言葉は肩透かしを食らうものだった。
「たまたまですよ。ただ、追いかけていたアイツが氷室さんの家の方に向かっただけ。だから……行っただけです、つまるところ直感って奴ですよ」
「は? それだけ、って……」
「ええ、それだけです。本当に」
彼女は歩みを緩めず、答えにもブレはない。
嘘ではない。だが、本当のすべてを語っている訳でもない。
そんな曖昧さが滲んでいた。
「たまたま……か。じゃあ、俺が覚醒者だってのは……?」
「なんとなく、です」
「それ、答えになってないだろ……適当に答えてるだけだ」
「人間の直感って侮ると痛い目見ますよ? 何ででしょうね、正直自分でもわかりません」
おそらく、本当に直感なのだろう。
これ以上追求したところで平行線を辿ると踏んだ俺は「わかった」と、軽くだけ返事をした。
それにしても、自分と一つしか年代が変わらないのにも関わらず、彼女はこんな状況下でも平静を保っている事に驚きと感心を覚える。
小柄な体躯にして、よくもまああんなバケモノを目の前に余裕を纏えるものだと、正直なところ自分と比較してしまい、少し不甲斐ない気持ちが胸に渦巻いた。
しかし、アイツを丸投げしたのは許していないが、少しは助けてくれてもよかったのではないだろうか、とも思う。
「もうすぐですよ。あの角を曲がった先のアパートです」
「そうか……」
目前で建物が見え、幡代は深く息をついた。
足元に広がる夜の静けさの中、三階建ての古びたアパートの外観が見えてくる。
白い外壁に、黒い鉄の階段。ありふれた見た目のアパート、経年劣化が現在進行形で始まりつつある。
これはこれで趣があると捉えられそうだが、幡代に訊けば案外喜べたものでもないらしい。
最初は同じような感性だったはずが、一年近く住んでいると自ずと嫌なところが見えてくるのかもしれない。
だから、さっき溜め息をついたのか?
思考を巡らせて階段を上がっていると、一段上る毎にギシリと軋みを立てている事に気が付き、少しだけ彼女の言っている意味を理解できた。
三階の角部屋に向かって、幡代が先導する。
廊下に差す蛍光灯の明かりがちらちらと揺れる。不思議と嫌な感じはしない。
それどころか帰る場所もない今の俺にはあまりに温かく、そして有難かった。
「ここです。散らかってるかもしれませんけど……どうぞ」
幡代が鍵を開けガチャッと、小気味いい音が鳴ってから玄関が開いた。
靴を脱いで中に入る。
特有の木の香りが漂い、同時に女子特有の少し甘いような柔軟剤の匂いがふんわりと鼻腔をくすぐった。
唐突の訪問にも関わらず部屋は思っていたよりも整っていて、きちんとした暮らしぶりが窺える。
如何せん女子大生の部屋に入った事が今までになかったのも起因しているようで若干の引け目を感じてしまう。
落ち着かぬ様子で俺は部屋の隅々まで目を走らせた。
キッチンの棚に並べられたマグカップ、窓際に置かれた観葉植物のパキラは美しく剪定が施されている。 他にも青のカーペットに馴染むように置かれた低めのソファとローテーブル。
その上には大学の教科書であろう、歴史学と中国の社会学と表紙に大きく書かれた本が整頓されて置かれてあった。
彼女がソファにコンパクトなバッグを置くと、
「荷物、そこに置いてください。あとシャワー、浴びますか?」
「ああ……借りていいか?」
「もちろんです、その間に何か温かいもの作ります。期待はしないでくださいね、冷蔵庫には豆腐と卵くらいしか入ってないので」
「豆腐と卵があればなんでもできるさ」
「ふふ……そうですよね」
俺がリュックを降ろして早々にバスルームへと向かおうとすると、幡代がタオルを差し出してくる。
「これ、タオルなかったら貸します」
「いいのか?」
「もちろんです」
「なんかここまでしてくれてありがとうな……最初は胡散臭いヤツだなと思ってたけど」
「別に構いませんよ。それより、そんな事言ったら外に放り出しますよ」
「それだけはやめてくれ……!」
両手を前に出し、ぶんぶんと首を振った。
受け取ったタオルは俺の体には少し小さい気がしたが、この期に及んでそんな事は些細な事象に過ぎず、何より口に出すのは無粋だ。
顔はバケモノの返り血を浴びて見るに堪えない姿をしているのだ。
覚醒者なる同属で一般人とは乖離した例外でありしも、これほどの温情を受けて否定するのは失礼極まりない。もしかすれば違うだろうか。
彼女は誰にだって同じようにしていたのかもしれない。真意は不明だ。
然れども、今はそのご厚意に預かるとしよう。帰る場所もない俺がこうしてシャワーを借りて温かい部屋にいられる。
それだけで、もう十分すぎるくらい救われていた。
──ザーッ、ザーザーッ……。
すっかり冷えた体は四十一度の温水を受けて、みるみるうちに体の芯から温まった。
顔面にべっとりと付着した血を洗い流して頭を洗う。
シャンプーを付けて次に体、そして足など順々に洗っていく。
最後に顔に両手を当てて、俺は思い出した。
(右目、時間感覚をミリ単位に操る、だったか……?)
湯気で曇った鏡を擦って右目を注視する。
若干、黒目が白っぽく変色していた。
特段痛みはなく、まさか白内障なのかと疑ったがまさかそれほど歳をとっているわけでもない。
色々な原因を憶測で模索してみるけれど、掴めない砂を握ろうとしているに過ぎず、バカバカしいと思った俺は諦めて髪を乾かしに出た。




