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10話

 ──ふと、京都駅での女の人の姿が脳裏を過る。


 上半身はまるで風船のように簡単に破裂、内臓は散らばり無惨に死ぬ。

 あれを見る限りもがき苦しんで死ぬ事はなさそうだった……痛みを介する事なく瞬殺も瞬殺に違いない。


 やはり、一矢報いる事すらも叶わない──これがバケモノと人間の決定的な違いだと、嫌でも痛感させられた。せめて苦しまずに死なせてくれ。



 ──目を瞑ろうとしたそのときだった。時間が止まったのだ。


 ……いや、違う。俺の感覚だけが異常に拡張されたのだ。ミリ単位の時間感覚で。


 薄目で見遣ると、目の前で飛びかかってくるバケモノの姿がスローモーションに見えた。

 筋肉の動き、爪の角度、重心、呼吸の波さえもすべてが手に取るようにわかる。


 例えるならハエの時間感覚。人間と比べて時間感覚は大きく異なり、人間の行動がスローモーションに感じているのは承知だろう。

 ハエは一秒に二百五十コマを認識できるのに対して、人間は約六十コマ、約四倍も差があるのだ。おそらくそういった原理。


(見える……刺せる!!)


 一世一代の大チャンス。

 何が起きたかわからなかった。


 けれど、迷わなかった。

 俺は右手をそのまま突き刺した──


「…………っらああああああッ!!」


 弱々しいカッターナイフがバケモノの胸部にある大きな目を刺す。


 ズブッ、と刃がめり込む感触が手に伝わる。ただの文房具──だが、今の俺の手に握られたそれは、まるで意志を持った刃のようにこのバケモノの中心に突き立った。


「……ギギギギ、ギャ……グギャギャギッ!」


 バケモノが叫ぶ。金属をひきちぎるような耳を劈く不快な音で全身をくねらせ暴れ回る。

 しかし、俺はもう手を離さなかった。更に刃を捻り込む。カッターナイフの刃先が軋む。

 ただの文具が今、この命を守っている。


(はやく、はやく死んでくれッ……!!!)


 願った、切実に願った。

 目を潰されたコイツは、痙攣しながら一歩、二歩と後退し──最後は呆気なく地面に崩れ落ちた。


 ドスン、という衝撃。

 それが静寂の始まりだった。


 辺りには何の音もせず、夜風が静かに吹き抜ける。

血と汗で濡れた服がひんやりと体を冷やす。


「……やった、のか……?」


 膝から力が抜けた。尻餅をついた俺は、その場で大きく嘆息する。


 心臓は今にも破裂しそうな勢いで鼓動を打っていたがそれでも──俺は生きた。

 拳銃のマガジンを確認する。残弾は五発、右手のカッターは折れて血に染まっていた。


「……はぁ、はぁ……死ぬかと思った」


 本当に前途多難だ。

 行く先々でこれほどの窮地に立たされると、身が持たなくなる。


 運良く殺す事ができたが、ホームで遭遇した件といいどうやら運に味方されているのかもしれない。

 どちらかと言えば二度も出会っている分、不運が過ぎる。


 ひとまず難局を逃れた事に安堵していると、どこからかさきほどの少女が唐突に視界に映り、バケモノの死体を覗き込み始めた。


「お見事です。凄いですね」


「……お前、どっから出てきやがったんだ!」


「あなたの家の裏庭からですよ」


 少女は平静を保ちながら見下ろして言った。


「人の家に勝手に入ってんじゃねえよ。ていうか……か、覚醒者だったら、少しは助けてくれてもいいんじゃなかったのかよ……!」


 アドレナリンの分泌が切れたようで膝の緊張が解けて笑い出す。


「いえ、あなたなら倒せると踏んでの考えでしたので。あえて手は出しませんでした」


「……ふざけるなよ! 死んでたらどうしたんだよ。実際あと少しのところで死んでたんだぞ!? それにお前は……一体、誰なんだ?」


「はい、誰って?」


「………………ッ」


 重要な事をたらいわましにされている気がして、苛立ちが込み上げる。


「誰って、しらばっくれるなよ! わけのわからない事に巻き込まれてるのになんで名前の一つや二つ────ッ、痛ッ……!」


 憤慨した俺は起き上がろうとしても十分な力が伝わらず、膝が折れて尻もちをついた。


 少女の姿を見上げる形になる。


「とりあえず、ほら。立ってください。このままじゃ話しにくいですよ?」


「立てねぇんだよ……」


「手、お貸ししますので」


 少女が出した右手に手を重ね、支えてもらう。

 ゆっくりと上半身を捻り、俺はやっとの思いで立ち上がった。猜疑心の視線で少女の顔を見据える。


 身長は百四十センチ後半〜百五十センチ前半あるかどうかといった具合だ。

 小柄な体躯で覚醒者とは思えない、覚醒者と聞くと筋骨隆々で屈強なヤツと色々勘繰ってしまったがどうやらそうでもないらしい。


 白色の長髪、服はダウンジャケットを着て紺のスニーカーを履いている。

 目と鼻立ちははっきりして綺麗だ……美少女と差し支えない容姿だった。


 少女は前傾姿勢になり、全身を舐め回すように観察してくる。


 なんか、変な感じだな……気持ち悪い。

 そして一通り見終え、スッと体を引いて向き直った。


「……まだ、本格的に覚醒はしていないようですね。特に目に見えてわかりやすい身体的な変化は現れていない感じです」


「……勝手に話を進めるな。お前の正体くらい教えてくれてもいいだろ?」


 好き放題視線を這わせた挙句、自問自答は虫が良すぎる。

 俺の問いかけに対して彼女は胸元に垂れた挑発を弄りながら、簡素な紹介を始めた。


「ああ、すみませんでした。自己紹介がまだでしたね──私は幡代エマです……先程も言った通り私も覚醒者の一人です」


 とりあえず、今は乗るしかない。


「……そうか。俺は氷室祐。立志社大学の学生だ、よろしくな」


「はい。よろしくお願いします」


 幡代は少し寒いのか両手で口元を覆い、息をかけて暖めている。


 白い息を両手の隙間から漏らす。

 俺はコンクリートの壁に体を預けた。なんだか体が気怠い。


 手の甲に付着した自分の血を拭うと、山のように積もった疑問を訊いてみる。


「で、本格的に覚醒してないってどういう事なんだ? 突拍子もない話でまったくわからないんだが……?」


「色々話す事がありますが、そうですね……」


 幾つもの話題に思案を巡らせていた小柄な少女は、程なくして決意を固めた。

 頷きとともに掲げられた人差し指が、鋭く俺の右目を射抜く。


「氷室さんの目、ですよ。さっきの戦いを見ていてわかりました、右目を使う事で時間感覚を変える事ができるんじゃないですか?」


「は、右目……?」


 さっきの戦いを思い出す。


 そういえば、死にそうになったところでバケモノの動きがとても鈍く見えた……まるで、スローモーションになったかのようにして。

 しかし、自分の速度は比例せず普段と変わらなかった。



 ──あれは、右目のせいだったのか。


「はい。おそらく覚醒の一種です」


「右目が?」


「ご存知だと思いますが『人類が同時に見た夢』の中で神とやらが言ったと思います。救世主を作ったと、つまりその能力です」


「何バカげた事を。聞けば聞くほど頭痛くなってきた……」


 言いながら右目を撫でると、焦点の合わないぼやけた視界がまだ残っていた。

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