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記憶調律師エアラの断罪――硝子の揺り籠と泥の旋律――

作者: 月影の書記
掲載日:2025/12/31

数ある作品の中から本作を見つけていただき、ありがとうございます。

「記憶」という目に見えない財産が、もしも誰かに管理され、奪われていたとしたら。

そんな世界で、美しすぎる嘘を暴こうとする女性の物語を書きました。

どうぞ、最後まで彼女たちの旅路にお付き合いください。

 その場所は、世界の呼吸が止まったかのような静寂に包まれていた。


 王立記憶大図書館――通称「硝子の揺りゆりかご」。


 天井の見えない巨大な円筒形の吹き抜けには、数千万個もの「記憶結晶メモリー・クリスタル」が淡い青光を放ちながら、重力を無視して緩やかに浮遊している。

 それらはかつての英雄、歴代の王、あるいは市井の賢者たちが遺した人生の断片であり、この帝国の正統性を証明する唯一無二の財産であった。


 二十四歳のエアラは、その最深部にある「調律室」で、特殊なピンセットを手に一つの小さな結晶と向き合っていた。

 彼女の職業は「記憶調律師メモリー・チューナー」。


 経年劣化によってノイズが混じり、純度の落ちた記憶から不純物を取り除き、本来の輝きを取り戻させる。

 それは極めて繊細な魔力操作と、他者の人生に対する深い共感性を必要とする、帝国でも一握りの者にしか許されない聖職である。


 エアラは、その中でも最年少で「特級」の称号を得た、稀代の天才として知られていた。

 今日彼女が手掛けているのは、帝国創世の父とされる「初代皇帝アスラン」の晩年の記憶だった。


 針の先ほどの不純物に触れるたび、エアラの脳裏には千年前の戦場の臭いが、焦げた土の感覚が、そして一人の男の孤独な独白が流れ込んでくる。

 記憶の海に深く潜り、その深淵で揺らめく真実の糸を一本ずつ手繰り寄せていく作業。


 ふと、彼女の手が止まった。本来、この結晶には「聖なる光によって魔王を討ち果たした勝利の凱旋」という、建国神話の根幹をなす情景が刻まれているはずだった。


 しかし、不純物を取り除いたその先に現れたのは、歴史書に記された英雄の姿とは、あまりにかけ離れた「記録」だったのである。そこにいたのは、血まみれの剣を捨て、震える手で魔族の少女と契約を交わす、弱々しい一人の男の姿だった。


「私は……神を裏切る。この嘘が、いつか呪いとなって降りかかるとしても」


 男のすすり泣きが、エアラの精神を直接揺さぶった。衝撃が彼女の指先を震わせる。


 これはノイズではない。捏造でもない。これこそが、千年間隠され続けてきた、この国の成り立ちに関する致命的な欠陥であった。


 帝国は、光の奇跡ではなく、闇との密約の上に築かれていたのだ。知ってはならない。


 その確信が、冷たい汗となってエアラの背中を伝った。しかし、プロとしての矜持きょうじが、そして真実に対する純粋な渇望が、彼女にその記憶の続きを暴かせようとした。


 彼女がさらなる調律を加えようとしたその瞬間、背後の重厚な石扉が、轟音と共に跳ね上がった。


「そこまでだ、エアラ・ヴァレンティ」


 冷徹な声が、神聖な調律室を切り裂いた。振り返ると、そこには白銀の甲冑をまとった近衛騎士団と、この図書館の最高責任者である大司教ザカリアが立っていた。


 ザカリアの目は、慈悲深い宗教家のものではなく、獲物を追い詰めた蛇のような鋭利さをはらんでいる。


「大司教様……。これは、その……」


「言い訳は無用。お前は踏み込んではならぬ領域に触れた。我が国の根幹を揺るがす大罪人として、その資格を剥奪する」


 ザカリアの手が空を舞うと、エアラの大切な商売道具である銀の音叉おんさが、目にも止まらぬ速さで床に叩きつけられた。甲高い金属音が響き、音叉は無残に二つに折れる。


 それは、彼女のこれまでの努力と誇りが否定された瞬間だった。騎士たちがエアラの細い腕を容赦なく掴み上げ、強制的に部屋から引きずり出していく。


「待ってください!私はただ、記憶をあるべき姿に戻そうとしただけです!真実を隠すことが、この国のためのわけがない!」


 叫びは空虚に響き、浮遊する結晶たちの光に吸い込まれて消えた。数時間後、エアラは「公式記録」から抹消された。


 特級調律師としての地位、資産、そして市民としての名前すらも奪われた彼女は、浮遊都市の最下層にある、ゴミ捨て場同然のゲートへと突き出された。眼下に広がるのは、分厚い雲海に遮られた、日の当たらない地上世界。


 かつて「不浄の地」として教えられた、忘れ去られた者たちの住処すみかだ。


「行け、偽りの調律師よ。せいぜい、泥の中で真実を咀嚼そしゃくして生きるがいい」


 騎士の一人が彼女を蹴り飛ばした。重力に引かれ、エアラの体は真っ逆さまに落ちていく。


 遠ざかる黄金の都。折れた音叉だけを胸に抱き、彼女は意識を失った。


 次に目を開けたとき、鼻をついたのは、えたカビの臭いと、湿った土の香りだった。そこは、建物の残骸が複雑に積み重なった、薄暗いスラム街の一角だった。


 全身を走る激痛にうめきながら身を起こすと、視界の端に一人の少年が立っているのが見えた。少年は、泥に汚れたボロ布を纏いながらも、その瞳だけは夜空の星のように澄んだ紫色をしていた。


 彼は無言で、エアラの足元に転がっている「何か」を指差した。それは、彼女が追放される際、無意識に掴み取っていた、あの初代皇帝の黒い結晶の破片だった。


「それ……音がしてるよ」


 少年が低く、震える声で呟いた。エアラは耳を疑った。


 記憶結晶は、高度な魔力を持つ調律師でなければ「音」を聴くことはできない。ましてや、これほど崩壊した破片から、市井の子供が音を聴き取るなど、あり得ないことだった。


「あなた……今、なんて言ったの?」


「泣いてるんだ。その石の中に閉じ込められた人が。助けて、助けてって」


 少年の言葉を聞いた瞬間、エアラの折れかけていた心に、小さな火が灯った。地位を失い、道具を失い、未来を奪われてもなお、彼女の魂は「調律師」であることをやめていなかった。


 この地上の底で、隠された真実が再び動き出そうとしていた。エアラは震える手で結晶の破片を握りしめ、自分を助けてくれた少年の目を見つめ返した。


「教えて。ここは、どこ?そして……あなたは、誰?」


 物語は、このどん底の場所から、再び静かに旋律を刻み始めたのである。


 ◇


 灰色の空から、絶え間なくすすを含んだ雨が降り注いでいた。地上の世界「揺り籠の影」は、上層の浮遊都市から排出される廃棄物と、陽光を遮られた湿気によって、すべてが腐敗と再生の境界線上にあった。


 エアラは、少年に連れられて廃ビルの地下にある小さな空洞へと身を寄せていた。そこには古びた電子部品や、魔力を失ってただの石ころと化した結晶の残骸が山のように積み上げられている。


「ここ、僕の家。誰も来ないから、少しは安心だよ」


 少年はそう言って、泥水で汚れた手でエアラに温かな――といっても、ぬるい泥水のような味がするが――スープを差し出した。彼の名前はリュカ。この地層で「音拾い」をして生活している孤児の一人だった。


 上層から捨てられた記憶結晶の破片から、わずかに残った感情の残滓ざんさいを嗅ぎ取り、それを闇市で売ることで食い繋いでいるという。


「……リュカ。あなた、さっきこの石が鳴っていると言ったわね。それは、どういう感覚なの?」


 エアラは胸元に隠していた初代皇帝の記憶結晶の破片を取り出した。それは本来、国家の至宝として完璧に管理されるべきものだった。


 だが今、彼女の手元にあるのは、亀裂が走り、禍々しい黒い光を帯びた「禁忌の記憶」だ。リュカは結晶を怖がるふうでもなく、そっと耳を近づけた。


「言葉じゃないんだ。もっと、こう、胸の奥がギュッとするような……冷たくて、でもすごく熱い音がする。その人は、誰かを待ってるんだと思う。自分を殺してくれる誰かを」


 その言葉に、エアラは息を呑んだ。記憶調律師として数千の人生に触れてきた彼女ですら、そんな「音」を直接聴いたことはない。


 彼女たちはあくまで専用の音叉と魔力回路を通じて、視覚的・論理的に記憶を解析する。リュカが持っているのは、技術ではなく、剥き出しの「共鳴」だった。


「……私の音叉は折れてしまった。これでは、もう何もできない」


 エアラは二つに折れた銀の音叉を見つめた。調律師にとって、音叉は単なる道具ではない。


 己の魔力を特定の周波数に固定し、記憶の海で溺れないための命綱だ。それがなければ、たとえ天才と言われた彼女でも、結晶の中に引きずり込まれ、自己を喪失してしまう。


 しかし、リュカは首を振った。


「道具がないなら、僕が代わりになればいいのかな。僕には聴こえる。お姉さんには、中が見える。二人でやれば、その人の泣き声を止められるんじゃない?」


 子供の無邪気な提案。けれど、それは絶望の淵にいたエアラにとって、唯一の救いのように聞こえた。


「……無茶よ。でも、やるしかないわね。このまま黙って、あの嘘に塗れた楽園が続くのを見ているなんて、私にはできない」


 エアラは立ち上がった。全身を打撲の痛みが走るが、調律師としての矜持が彼女を突き動かす。


 二人は、リュカが集めてきたガラクタの中から、魔導伝導率の高い古いワイヤーや、壊れた蓄音機のパーツをかき集めた。正規の設備はない。清浄な空気もない。


 あるのは、泥にまみれた天才の知恵と、真実を聴き取る少年の耳だけだ。


「いい、リュカ。私があなたの意識に潜り込む。あなたは、その結晶から聞こえる音だけに集中して。私がその音を『鍵』にして、記憶の最深部をこじ開ける」


「わかった。やってみるよ」


 二人が結晶を挟んで手を取り合ったその時、地上の重厚なハッチが、暴力的な魔力によって破壊された。


「いたぞ!大罪人エアラ・ヴァレンティだ!」


 煤煙の中から現れたのは、上層からの追手――帝国直属の「浄化騎士団」だった。彼らは、不浄の地に墜ちた獲物を確実に仕留めるため、対魔術師用の結界を張りながら迫ってくる。


「逃がすな!あの結晶の破片を回収し、女は即刻処刑せよ!」


 指揮官の冷徹な声が響く。逃げ場はない。廃ビルの地下は、そのまま彼らにとっての墓場になるはずだった。


 しかし、エアラは動かなかった。彼女の指先は、すでにリュカの手を通じて結晶の「核」に触れていた。


「リュカ、集中して!音を逃がさないで!」


「……う、あぁぁぁ!」


 リュカの瞳が、鮮やかな紫色に発光した。次の瞬間、結晶から漆黒の衝撃波が放たれ、迫りくる騎士たちを吹き飛ばした。


 それは攻撃魔法などではない。千年前の初代皇帝が抱いていた、あまりに巨大な「後悔」と「憎悪」が、調律によって物理的な質量を持って溢れ出したのだ。


「な、なんだこれは……!?ただの記憶結晶が、これほどの魔力を……!」


 騎士たちが困惑し、後退する。その隙に、エアラの視界は別の情景へと切り替わっていた。


 それは、歴史書には存在しない、もう一つの「建国」の場面。光輝く玉座に座るアスランの足元で、数千、数万の人々が、見えない糸で繋がれ、その魂を吸い取られている光景。


 帝国を支えるエネルギー「魔力」の正体は、慈悲深い神の贈り物などではなく、国民の「寿命」と「記憶」を強制的に徴収する、おぞましい吸血のシステムだった。


「これが……硝子の揺り籠の真実……」


 上層の住人たちが享受している永遠の美しさと安らぎは、地上の民を「電池」として使い潰すことで成立していたのだ。エアラは震える手で、その真実を己の脳に刻みつけた。


 リュカが苦痛に顔を歪める。彼の小さな体が、結晶の負荷に耐えきれなくなっている。


「そこまでよ!」


 エアラは強引に調律を終了させ、溢れ出す情報を遮断した。爆発的な魔力の余波が収まると、そこには気を失ったリュカと、ボロボロになったエアラ、そして一時的に混乱状態に陥った騎士たちが残された。


「……リュカ!しっかりして!」


 彼女は少年を背負い、騎士たちが態勢を立て直す前に、迷路のようなスラムの深淵へと駆け出した。背後からは、なおも追手の叫び声が聞こえる。


 だが、今のエアラには迷いはなかった。彼女が知った真実。それは、この帝国そのものを崩壊させかねない猛毒だ。


 同時に、それは虐げられた地上の民にとって、唯一の反撃の狼煙のろしになるかもしれない。


「見ていなさい、ザカリア大司教。あなたが守ろうとしたその綺麗な『偽物』を、私が根底から調律し直してあげる」


 雨は次第に激しさを増し、泥流が足元をすくおうとする。しかし、エアラの胸の中では、あの黒い結晶が、かつてないほど鮮明な「革命」の音を奏で始めていた。


 ◇


 エアラは適宜立ち止まって周囲を警戒しながら、地下水路へと潜り込んだ。水路の奥には、リュカのような子供たちが身を寄せる「忘れられたキャンプ」がある。


 そこには、帝国に不都合な存在として消された、かつての学者や技術者たちが隠れ住んでいるという噂があった。エアラは、己の知識と、リュカの耳、そしてこの呪われた結晶を武器に、反撃の準備を整えることを誓った。


 逃走から闘争へと、その色彩を変えていく。彼女の指先に残る結晶の熱は、もはや消えることのない業火となって、彼女の魂を焼き続けていた。


 ◇


 地下水路の奥深く、湿った闇が支配する場所に、その「聖域」は存在していた。無数に絡み合う錆びついたパイプの隙間を抜け、崩落しかけた岩肌の先。


 そこには、上層の華やかさとは対極にある、剥き出しの知性が息づいていた。「記憶の墓場アーカイブ・オフ・フォールン」。


 かつて帝国を追放された学者や、自らの良心に従って筆を折った記録官たちが、命を繋ぎながら真実を綴り続けてきた最果ての資料室。エアラは、高熱にうなされるリュカを背負い、その重厚な鉄扉を叩いた。


「……誰だ。ここへ至る道を知る者は、もう絶えたはずだが」


 扉の隙間から覗いたのは、片目を失った老人の鋭い眼光だった。


「私はエアラ・ヴァレンティ。王立記憶大図書館の……元、特級調律師です。これを見てください」


 彼女が差し出したのは、折れた銀の音叉。そして、あの黒く濁った結晶の破片だった。老人の目が大きく見開かれる。


「その輝き……いや、その『嘆き』は。……入れ。追手はすぐそこまで来ている」


 老人の名はガレ。かつて特級調律師の筆頭として、大司教ザカリアと共に働いていた男だった。


 彼はリュカを古い寝台に横たえると、手際よく薬草をせんじ始めた。


「この子は記憶の『共鳴体』だ。上層の連中が廃棄した残留思念を吸い込みすぎて、魂の器が溢れかけている。放っておけば、数日のうちに自己が崩壊していただろう」


「そんな……。リュカは、私を助けるために……」


 エアラは少年の細い手を握りしめた。リュカが聴いていた「泣き声」は、彼自身の魂を削る代償の上に成り立っていたのだ。


 ガレは溜息をつきながら、壁一面に貼られた古い地図を指差した。


「エアラ、お前が見たものは、氷山の一角に過ぎん。帝国創世の秘密……『アスランの契約』は、魔王との密約どころか、この世界そのものを裏切るものだ」


 ガレが語った真実は、エアラの想像を遥かに超えていた。浮遊都市「硝子の揺り籠」を宙に留めている動力源。


 それは、地上の民から奪った「寿命」だけではない。


「人間が持つ『希望』という感情のエネルギーだ。調律師は、そのために不純物と称して、人々から前向きな記憶や未来への活力を取り除き続けてきた」


 エアラが今まで「不純物」として消去してきたノイズ。それは、苦しい生活の中でも地上の民が抱いていた、ささやかな喜びや、明日への期待だった。


 それらを組織的に吸い上げ、上層の住人たちが享受する「永遠の若さ」へと変換する。帝国は、巨大な精神の吸血鬼だったのである。


「私がやってきたことは……救いではなく、略奪だったというのですか?」


 エアラの声が震える。


「お前は、最も純度の高いエネルギーを抽出できる稀代の才能を持っていた。だからこそ、ザカリアは焦ったのだ。お前があの黒い結晶……初代皇帝が唯一遺した『良心の呵責かしゃく』に触れることを」


 ガレによれば、初代皇帝アスランは晩年、己の犯した罪に耐えかね、システムの停止コードをある記憶の中に隠したのだという。それこそが、エアラが手にしている結晶の破片だった。


「これを……これを調律すれば、すべてを終わらせられるのですね?」


「可能だ。だが、それは同時に『硝子の揺り籠』の墜落を意味する。数百万の上層住人を道連れにする……その覚悟があるか?」


 究極の選択を突きつけられ、エアラは言葉を失った。罪なき民をも殺す破壊者になるのか。それとも、このまま呪われた搾取を黙認するのか。


 その時、地下水路を揺らすほどの爆音と共に、壁が崩落した。


「見つけたぞ、ねずみ共が」


 噴煙の中から現れたのは、強化魔導外骨格を纏ったザカリア大司教本人だった。彼の背後には、意識を奪われ、操り人形と化した「浄化騎士団」が控えている。


「ガレ、生きていたか。だが、今日で終わりだ。その娘も、共鳴体のガキも、すべてを灰にしてくれる」


 ザカリアが手を掲げると、周囲の空間が歪み、極大の魔力収束が始まった。


「エアラ!リュカを連れて逃げろ!ここは私が食い止める!」


 ガレが古い音叉を構え、老いた体に鞭打って魔力を奔らせる。しかし、全盛期を過ぎた彼と、国の全魔力を掌握するザカリアでは勝負にならなかった。


 一閃。白光がガレを貫き、老人は無残に吹き飛ばされた。


「ガレ様!」


「ハハハ!真実を知ったところで、力がなければ何も変えられん。エアラ、お前の記憶もここで再調律してやろう。従順な奴隷としてな!」


 ザカリアの触手が、エアラの脳に直接干渉しようと伸びてくる。恐怖で体が動かない。


 絶体絶命の瞬間、寝台の上で眠っていたリュカの瞳が、唐突に開いた。それは、もはや人間の瞳ではなかった。


 深淵のような紫。その奥で、千年前の初代皇帝の意思が共鳴していた。


「……うるさいよ、おじさん」


 リュカが小さく呟いた瞬間、部屋を満たしていたザカリアの魔圧が、霧散した。


「何だと……!?馬鹿な、私の調律魔法が無効化されるなど……!」


 リュカはふらふらと立ち上がり、エアラが持つ結晶の破片に手を触れた。その瞬間、エアラの脳内に濁流のような記憶が流れ込んできた。


 それは他人の記憶ではない。彼女自身が、幼い頃に「消去」された、本当の両親の記憶。


 彼女の父は、かつての抵抗組織のリーダーだった。そして、彼女に「調律師」としての才能を見出したザカリアによって、両親は殺され、彼女自身の記憶も書き換えられていたのだ。


「私は……利用されていた……最初から、最後まで……!」


 激しい怒りと悲しみが、エアラの魔力を覚醒させる。彼女の手にあった折れた音叉が、青白い炎をまとって再生していく。


 それはもはや、記憶を整えるための道具ではない。虚飾に満ちた世界を切り裂くための、断罪の剣。


「リュカ、力を貸して。この結晶に残された、最後の声を解き放つのよ」


「うん。お姉さん、全部聞こえるよ。この国の、本当の形が」


 二人の魂が重なった瞬間、地下室は眩い光に包まれた。それは破壊の光ではない。


 地上の民から奪われ、蓄積されてきた「希望」が、一気に逆流し始めたのだ。


「やめろ!それを戻せば、帝国のバランスが崩れる!すべてが崩壊するぞ!」


 ザカリアの悲鳴を無視し、エアラは覚醒した。記憶結晶の破片は、彼女の呼びかけに応えるように、天へと向かって巨大な光の柱を突き立てた。


 その光は、分厚い雲海を突き破り、遥か上空の「硝子の揺り籠」へと直撃する。世界が反転する音がした。


 上層と下層。支配と被支配。千年にわたって維持されてきた不平等の連鎖が、一人の調律師と一人の少年の手によって、修復不可能なほどに「転換」させられたのである。


 ◇


 空が、砕けた。


 千年の間、地上の民から太陽を奪い、傲慢なまでに輝き続けていた「硝子の揺り籠」の底面が、巨大な蜘蛛の巣のような亀裂に覆われていく。それは物理的な破壊ではなかった。


 帝国を繋ぎ止めていた「奪われた希望」という名の魔力回路が、エアラとリュカが放った逆流の波動によって、本来の持ち主へと還ろうとしているのだ。


「ああ……、あああああ!」


 大司教ザカリアは、虚空を掴むようにして絶叫した。彼の纏っていた豪華な法衣は、魔力の奔流に耐えきれずボロ切れのように引き裂かれ、若々しかった肌は、みるみるうちに老婆のようなしわに刻まれていく。


 彼が他者から吸い取り、己の糧としてきた「時間」が、調律の解除と共に一気に本人へと返却されたのである。


「やめろ、やめてくれ!私はただ、この国の秩序を……永遠の安らぎを守ろうとしただけだ!」


「あなたが守りたかったのは秩序じゃない。自分が支配できる、都合の良い箱庭でしょう」


 エアラは、光り輝く音叉を真っ直ぐにザカリアへ向けた。


「記憶は、誰かに管理されるための道具じゃない。苦しみも、悲しみも、それを乗り越えようとする希望も……すべてはその人自身のもの。奪っていい理由なんて、世界のどこにもないわ」


 その瞬間、地下室を突き抜けけた光の柱が臨界点に達した。地上のスラム街に、雪のような光の粒子が降り注ぎ始める。


 それはかつて人々が「不純物」として奪われた、ささやかな幸せの断片だった。病床で伏せっていた老人が、かつて愛した妻の笑顔を思い出し、涙を流す。


 希望を失い、泥水をすすっていた若者が、幼い頃に抱いた「何かになりたい」という熱い志を再び胸に宿す。奪われていた色が、音が、感情が、モノクロだった地上の世界に猛烈な勢いで染み渡っていく。


「……暖かいね、お姉さん」


 リュカが、エアラの裾を握りながら空を見上げた。雲海が割れ、そこから零れ落ちたのは、本物の、黄金色の陽光だった。


 浮遊都市は墜落しなかった。だが、その高度をゆっくりと下げ、かつて自分たちが踏みつけにしていた地上へと、うやうやしく着陸を始めたのである。


 神の如き支配者たちは、今や等しく大地に立つ一人の人間へと引きずり下ろされた。エアラの脳裏に、封印されていた最後の記憶が蘇る。


 両親の優しい手の温もり。


「エアラ、お前の手は、壊すためではなく、整えるために使いなさい。世界が不協和音を奏でたとき、正しい音を導き出せるのは、心ある調律師だけなのだから」


 父の遺した言葉が、今、確かな輪郭を持って彼女の魂を抱きしめた。ザカリアは、もはや立ち上がる力も失い、崩落した瓦礫の中で茫然と自失していた。


 彼が奪ってきた数万人の記憶の重みが、今度は「罪悪感」となって彼自身の精神を永久にさいなみ続けるだろう。それは、どんな極刑よりも残酷で、そして何よりも公平な調律むくいだった。


 数ヶ月後。世界は一変していた。


 浮遊都市と地上の境界は消え、人々は失われた技術と、取り戻した希望を手に、新たな国造りを始めていた。かつて「硝子の揺り籠」と呼ばれた場所は、今や誰もが自由に訪れ、過去の教訓を学ぶための真実の図書館として開放されている。


 エアラは、その入り口に立っていた。彼女の隣には、少し背が伸び、見違えるほど綺麗な服を着たリュカがいる。


 彼の瞳は、もはや「音」に怯えることなく、未来を真っ直ぐに見据えていた。


「先生、今日の依頼人は、昔の記憶がどうしても思い出せなくて困ってるおじいさんだって」


「ええ。行きましょう、リュカ。私たちの仕事は、これからもっと忙しくなるわよ」


 エアラは腰に下げた、新しい銀の音叉にそっと触れた。それはかつてのような権威の象徴ではない。


 人々の心の痛みに寄り添い、失われた旋律を一緒に探し出すための、希望の指針だ。世界はまだ、完璧ではない。


 混乱もあり、争いも消えてはいない。けれど、人々はもう、自分の足で歩くことを恐れていなかった。


 忘れてはならない痛みがある。伝えていかなければならない喜びがある。それらを一つひとつ丁寧に調律し、未来という名の楽譜に記していくこと。


 それが、名前を奪われ、地獄を見た彼女が選んだ、新しい「聖職」だった。ふと見上げた空は、どこまでも高く、青い。


 もう、誰にも遮られることのない、本当の空だ。エアラはリュカの手を取り、ゆっくりと一歩を踏み出した。


 世界が奏でる新しい序曲プレリュードが、彼女の耳に心地よく響いていた。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

一つの世界が変わり、新しい夜明けを迎えるまでを描き切りました。

エアラとリュカ、二人の調律師がこれから紡いでいく新しい日常に、少しでも思いを馳せていただければ幸いです。

もしよろしければ、評価や感想などで応援いただけますと、今後の執筆の励みになります。

また別の物語でお会いしましょう。

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