婚約破棄の予行演習
夜の書斎は静寂に包まれ、ランプの灯りだけが古い書物を照らしていた。エリアナは革表紙の本を閉じ、深い息をついた。銀色の髪が肩に流れ、深い青の瞳には何かを決意した色が宿っていた。
三ヶ月前の光景が脳裏に蘇る。
バラ園の奥で、婚約者のリシャールと、義妹のロゼリアが抱き合っていた。義妹の琥珀色の瞳が、悪戯めいた光を放っていた。
本を書棚に戻し、彼女は窓辺に立つ。月明かりが庭園を照らし、バラの影が地面に伸びていた。
婚約破棄は避けられない。それは三ヶ月前から分かっていた。だが、公の場で屈辱を受けるわけにはいかない。社交界での立場、侯爵家の名誉、そして何より自身のプライド。それらを守るためには、別の方法が必要だった。
机の上には羊皮紙が一枚置いてある。几帳面な文字が並び、古めかしい装飾が施されている。指先でそっと触れると、紙の質感が伝わってきた。アルトハイム侯爵家に代々伝わる書式。形式を重んじる家柄らしい、格式ばった様式だ。
「予行演習、ということにしましょう」
公の場での婚約破棄は、エリアナにとって最大の屈辱だ。社交界の視線、囁き、同情と侮蔑の入り混じった表情。それらを想像するだけで、胸が締め付けられる。だが、もし事前に練習できるなら。もし密室で、静かに、誰にも見られずに済ませられるなら。
エリアナは羊皮紙を手に取り、月明かりにかざした。文字が浮かび上がり、古い時代の様式が目に入る。形式さえ整えれば、本番での失敗を避けられる。
リシャールは、きっと賛成するだろう。彼にとって都合がいいはずだから。
明日、二人を呼ぼう。
そう決めると、不思議と心が落ち着いた。どうせ避けられない結末なら、せめて自分の意思で形を整えたい。傷ついた心を押し殺し、気丈に振る舞う。それが侯爵令嬢としての矜持だった。
*
翌日の午後、執務室に三つの人影があった。エリアナは窓際の椅子に座り、リシャールとロゼリアは向かい側のソファに並んでいる。リシャールの金髪が午後の陽光を受けて輝き、ロゼリアのバラ色の巻き毛が肩で揺れていた。
重い沈黙が部屋を満たしている。エリアナは二人を静かに見つめ、膝の上で手を組んだ。心臓の音が耳に響く。深く息を吸い、言葉を紡ぐ。
「二人の関係を知っています」
リシャールの顔が強張り、ロゼリアが息を呑んだ。だが、エリアナは表情を崩さない。淡々と、事実だけを述べる。
「三ヶ月前、バラ園で見ました。驚きましたが、もう平気です」
「エリアナ、それは……」
「言い訳は不要です」
リシャールの言葉を遮り、エリアナは首を横に振った。銀色の髪が揺れて陽光がきらめく。
「あなたとの婚約破棄は避けられない、でしょう? それは理解しています。ですが、一つだけお願いがあります」
二人は顔を見合わせた。ロゼリアの琥珀色の瞳に、警戒の色が浮かぶ。エリアナは構わず続けた。
「公の場での婚約破棄だけは、避けたいのです」
リシャールの緑の瞳が見開かれた。ロゼリアは小首を傾げ、不思議そうな表情を浮かべている。
「公の場で破棄を宣言されれば、私の立場は地に落ちます。社交界での評判、家名への影響、すべてが失われる。それだけは……せめて、それだけは避けたいのです」
声が震えそうになって、必死に堪える。力を込めすぎて、爪が掌に食い込んだ。だが、表情は崩さない。冷静に、理性的に、交渉を続ける。
「ですから、提案があります。予行演習をさせていただけませんか」
「予行演習?」
リシャールが眉をひそめた。エリアナは頷いて膝の上で組んだ手をそっと解く。
「本番前に、一度練習をするのです。形式だけでも整えて。そうすれば、本番での失敗を避けられます。私が公の場で恥をかくこともない」
「それは……」
「お願いします」
エリアナは頭を下げた。銀色の髪が顔を覆い、表情が見えなくなる。プライドを捨て、懇願する。それが唯一の方法だった。
沈黙が降りた。リシャールとロゼリアが視線を交わす気配がした。やがて、リシャールが口を開く。
「分かった。君の提案を受け入れよう」
エリアナは顔を上げた。リシャールの表情には安堵の色が浮かび、ロゼリアも小さく微笑んでいた。
「ありがとうございます」
エリアナは立ち上がって窓辺へと歩いた。庭園のバラが風に揺れていた。窓を開くと、香りが舞い込んできた。彼女は背中を向けたまま続ける。
「では、明日の午後、この部屋で行いましょう。誰にも邪魔されたくありませんから、鍵をかけます」
「鍵を?」
「他人には見せられません」
彼女が振り返ると、リシャールは納得したように頷いていた。ロゼリアは同情的な眼差しを向けている。
「ただ、証人を二人立てます。執事のセバスチャンと侍女のレオノール。記録のために必要ですから」
「記録?」
エリアナは机の引き出しを開け、羊皮紙を取り出した。古めかしい装飾が施され、格式ばった様式が目を引く。
「これはアルトハイム侯爵家に伝わる書式です。婚約に関わる記録は、すべてこの様式で残すのが慣例なので」
リシャールが羊皮紙に目を走らせた。古風な文字が並び、装飾的な枠が全体を囲んでいる。
「几帳面だな、君は」
「アルトハイム家の慣例ですから」
エリアナは羊皮紙を机に戻し、二人に向き直った。
「では、明日の午後二時に。準備をしておきます」
*
翌日の午後、執務室に午後の陽光が差し込んでいた。エリアナは窓辺に立ち、庭園を眺めていた。バラの香りが微かに漂い、風がカーテンを揺らす。
扉がノックされ、セバスチャンの声が聞こえた。
「お嬢様、リシャール・ド・ヴァランティーヌ様と、ロゼリア様がお見えです」
「お通しして」
セバスチャンの背後から、リシャールとロゼリアが入ってきた。侍女のレオノールも続いて入室し、扉が閉ざされた。鍵をかける音が、奇妙なくらい大きく響いた。
エリアナは窓辺から離れ、部屋の中央へ移動した。リシャールとロゼリアは少し離れた場所に並び、セバスチャンとレオノールは壁際に控えている。
「お集まりいただき、ありがとうございます」
エリアナの声は淡々としていた。感情を押し殺し、事務的に進める。それが唯一の方法だった。
「では、始めましょう。セバスチャン、レオノール、あなた方には証人として立ち会っていただきます」
「承知いたしました」
セバスチャンが一礼し、レオノールも頷いた。エリアナは机に歩み寄り、羊皮紙を取り出した。
「これに署名をいただきます。形式として記録を残すためです」
羊皮紙を机の上に広げると、装飾的な文字が浮かび上がった。リシャールが近づいて内容に目を通す。
「昨日のとは違っているな。これは……婚約解消の文書か」
「ええ。当家の慣例に則った様式です」
エリアナは羽根ペンとインク壺を用意した。リシャールはペンを手に取り、羊皮紙に視線を落とす。
「では、リシャール様、宣言をお願いします」
「宣言?」
「婚約破棄の意思を口頭で述べていただきたいのです。形式として必要ですから」
リシャールは一瞬躊躇したが、やがて姿勢を正した。エリアナを見つめながら口を開く。
「エリアナ・フォン・アルトハイム。私、リシャール・ド・ヴァランティーヌは、あなたとの婚約を解消します」
沈黙が降りた。エリアナは表情を変えず、ゆっくりと頷いた。
「承知しました。では、署名を」
リシャールはペンを走らせ、羊皮紙に名前を記した。インクが紙に染み込み、文字が定着する。続いて、ロゼリアが前に出た。
「私も署名が必要ですか?」
「ええ。当事者として」
彼女は躊躇いがちにペンを取り、名前を記す。ロゼリア・アルトハイム。父の後妻の連れ子。バラ色の巻き毛が肩で揺れ、琥珀色の瞳には複雑な感情が宿っていた。
「次は証人の方々です。セバスチャン、レオノール」
二人が前に進み、順番に署名をする。セバスチャンの筆跡は整然とし、レオノールの文字は丸みを帯びていた。
最後にエリアナ自身がペンを取る。
「私も署名します。これで形式は整いました」
銀色の髪が机の上に垂れ、日の光を反射した。ペン先が紙の上を滑り、名前が刻まれる。インクが乾くまで待ち、エリアナは羊皮紙を持ち上げた。
「これで予行演習は終わりです」
リシャールは安堵の息をついた。ロゼリアも緊張が解けたように肩の力を抜く。
「本番もこれで安心だな」
「ええ。ありがとうございます。エリアナお義姉さま」
ロゼリアの声には、確たる勝利の響きが含まれていた。
エリアナは二人を見つめながら、羊皮紙を机の上に置く。
「では、これで……」
リシャールが立ち上がって扉へと向かう。ロゼリアも続いた。
そのとき、リシャールの足が止まった。
「待てよ。これは予行演習だったな? 本番はいつにする?」
「本番……とは?」
エリアナの声に感情の色が混じった。唇の端が、ほんの少しだけ上がる。
「おいおい、冗談だろ? これは予行演習だ!」
扉が開いた。鍵はかかっていなかったようだ。そこから見知らぬ男が現れた。
「失礼ながら申し上げます。これは正式な婚約解消です。古式貴族法により、効力は即座に発生しますので」
執務室に入ってきた男は、羊皮紙を手に取った。彼の名は、ヴィクトル・ノイマン。
アルトハイム侯爵家、顧問弁護士の顔が、日の光に照らされる。
「何を言っている! これは練習だ!」
「いいえ」
ヴィクトルは冷徹な声で続けた。
「密室、当事者、証人二名、宣言、署名。すべての要件が満たされています。古式貴族法第三章、離縁の誓約の規定により、この婚約解消は法的に有効です」
「そんな……」
ロゼリアの顔が青ざめた。リシャールは棒立ちのまま、硬直している。
「加えて申し上げます『予行演習』という言葉で、法的効力を無効化できません。宣言と署名がある以上、これは正式な効力があります」
エリアナが窓を開けた。風が舞い込み、バラの香りが強く漂う。彼女が振り返ると、冷たい微笑が唇に浮かんでいた。
「予行演習とは言いましたが、無効とは言っていません」
銀色の髪が陽光を受けて輝き、深い青の瞳には勝利の色が宿っている。
「これで、公の場での屈辱は避けられました。私の望み通りに」
リシャールとロゼリアは言葉を失い、ただ立ち尽くしていた。ヴィクトルは羊皮紙を丁寧に巻き、エリアナに手渡す。
「お嬢様、これで正式に婚約は解消されました。おめでとうございます」
「ありがとう、ヴィクトル」
エリアナは羊皮紙を受け取り、胸に抱いた。バラの香りが部屋を満たし、陽光が銀色の髪を照らす。窓の外では、庭園のバラが風に揺れていた。
ヴィクトルが冷徹に告げる。
「なお、古式貴族法による婚約解消を行った男性は、三日以内に断頭台へ送られます。この法は、国王陛下であろうと覆すことはできません」
リシャールの顔色が変わる。
「み、三日以内……だと? おいっエリアナ!! き、貴様っ、騙したな!!」
エリアナは微動だにせず、怒り狂うリシャールを眺めていた。
「心苦しくもありましたが……致し方ありません。ね、ロゼリア」
エリアナの視線が、リシャールから義妹のロゼリアへ移る。
「はい! お義姉さま! あたしの演技、どうでした?」
ロゼリアの元気のいい返事にエリアナが満面の笑みを浮かべた。
と同時にはじけるように扉が開き、筋骨隆々のアルトハイム侯爵がのっそりと現れた。
「ふはははは! よくやった、エリアナ。これでヴァランティーヌのクソ野郎を潰せる!」
野太い声を発しながら、侯爵はリシャールを睨みつけた。逃げ場はないぞ、彼の目はそう語っていた。
「貴様の父は辺境伯という立場。本来なら隣国との国境を監視し、領土を守ることが仕事だ。しかし、残念ながら貴様と貴様の父は隣国と共謀し、物資の横流し、違法薬物の輸入、禁止された奴隷売買と、あらゆる犯罪に手を染めた。申し開きはあるか?」
侯爵は鼻をほじりながら、証拠書類を卓上に並べていく。きたない。だが、その書類は全て、リシャールの見覚えがあるものだった。
「……」
だらだらと汗を流すリシャールは、無言で膝をついた。
侯爵家の長女、エリアナ。(冷静沈着)
連れ子のロゼリア。(お義姉さま大好きキュルン)
執事のセバスチャン。(できる執事)
侍女のレオノール。(王国の元暗部)
顧問弁護士のヴィクトル。(常勝無敗の弁護士)
そして、アルトハイム侯爵。(脳筋)
全ては特権持ちの貴族を追い詰めるための罠だった。
(了)
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