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全人間

 あの日、俺は静香の裏切りを知った。

 きっかけは、本当に些細なことだった。


 深夜に帰宅した静香が、携帯をテーブルに置きっぱなしにして、風呂場へと消えた。シャワーの音が響き出す。ふと視線を落とした俺の目に、通知の光が差し込んだ。ためらいながらも画面を開くと、メッセージアプリが立ち上がったままになっていた。そこに映っていたのは──。


「次はいつ会える? 君の旦那がいない日に、また。酒井より」


 一瞬、思考停止になった。そのあと、少し間を置いて思考が追いついた。


 ”酒井”


 静香が普段から口にしていた、パート先の男の名前だ。冗談めかして「頼れる人」だと話していた静香の顔が、途端に別の意味を帯びる。


 その瞬間、静香がバスルームから出てきた。髪はまだ少し濡れていて、肩から滴る水滴が肌を伝う。バスタオルで無造作に体を覆っているだけの姿は、結婚してから何度も見慣れたはずのものだった。けれど今は違った感情が渦巻いている。さっき目にした文字が、すべてを別の色に変えていた。


 俺は携帯を静かに元の場所に戻し、表情を殺した。何事もなかったように振る舞うことは、できたと思う。


「今日は、遅くなってごめんね」


 いつものように穏やかな笑顔を見せた。だが、その顔はどこかぎこちない。


「大丈夫だよ。何かあったの?」


 俺は平静を装いながら尋ねた。


「うん、シフト上がりでバタバタして、すぐ帰れなくて」


 静香はそう言った。けれど、どこかひっかかる気がして、俺は更に尋ねてみる。


「それで、こんな遅くまで…?」


 すると、俺の疑問にかぶせるように、静香は続けた。


「あ、それでね。そのあと女の子と少し喋ってたら、こんな時間になっちゃって」


 ──なぜ、そっちの方を先に言わなかったんだろう?


 普通に考えて、帰宅が遅れるほどの出来事なら、それをまず最初に告げるだろう。なのに静香は「シフト上がりでバタバタして、すぐ帰れなくて」と言った。


 まるで、別の言い訳を隠すように…。


 もしかすると「女の子と少し喋ってた」という部分を、本当は隠したかったのではないか? そんな疑念が浮かんだ。


 静香が話した「女の子」とは、本当に女性だったのか…? とも。


 ──その夜から、俺の中で冷たい何かが育ち始めた。


 けれども。本当に、そうなのか? あのメッセージを見ても。静香の怪しい言い訳を聞いても、それでもなお「考えすぎだった」と思いたかった。だから俺は散々悩んだ挙句、興信所に依頼することにした。


 数日後、俺は興信所を訪れた。受付で名を告げ、狭い応接室に通される。待たされる時間が、やけに長く感じられた。やがて調査員が現れ、茶封筒を差し出す。


「こちらがご依頼の調査報告書になります」


 俺は無言で受け取り、震えを抑えながら封を開いた。中には数枚の写真と、簡潔な報告が綴られていた。


「ああ……そうですか」


 そう言うしか、言葉が見つからなかった。


 そこには、静香の姿があった。

 昼下がりの喫茶店。笑顔で向かいに座る男と話す静香。

 ホテル街の入り口。周囲を気にしながら並んで歩く二人。

 そして夜のアパートに入っていく背中。


 静香の表情は、俺が知る妻のものと同じだった。だが、隣にいるのは俺ではない。別の男だ。そいつの名前は『酒井』

 

 調査していた期間中、必ず水曜日に密会していたらしい。きっとそれ以前から、密会する曜日はいつも水曜日に、と二人で決めていたんだろう。


 俺の中で何かが壊れた。もう考える余地もない。思考はただひとつ──。


 こいつを……。


 *


 次の週の水曜日。俺は仕事を休んだ。

 そのことを静香には告げず、いつものように出勤するふりをし、こっそり家の前で張り込む。


 昼の光が徐々に暮れに変わる頃、酒井が現れ、静香が家に招き入れるのを確認した。


 俺は鍵をそっと開け、リビングに潜り込む。寝室を覗き込むと──。


 …声が聞こえた。


「ァ…」


 それは、逃れようのない現実の音だった。


 薄明かりの中で、動物のように絡み合う二人。なにかを懇願するような、切なくて、甘えたような、静香の声。なにより苦痛だったのは、静香のそんな声を、俺は一度も聞いたことがなかった……。


 二人はすでに……つまり……認めたくないが……。そういう状態だった。


 (ひざまず)く静香。その前で仁王立ちの酒井。酒井は腕組みをして、ニヤニヤと笑いながら(静香)を見下ろしている。


 俺たちのベッドの上で、こいつらは一体何をしてるんだ……。


 目の前が真っ白になる。


 静香は相変わらず、みっともない声を出している──。


 旦那の俺が、こんなところにひっそりと隠れて、いったい何を見せられているんだろう……。俺たちがいつも寝ているベッドで、酒井(おまえ)は何をしてるんだ!?


 理解が追いつかない!!


 そのあとも、俺は二人が楽しむ姿を盗み見ていた。


 馬鹿げたことだけど──俺は二人の情事を呆然と眺めながら、泣いていた。


 その時、静香に覆いかぶさる酒井の背中越しに目が合った。悦楽に溺れる静香の視線が俺を捉えて、驚いている。


 俺は自分でも気づかないうちに、寝室の中まで入り込んでいたんだ。そう、二人の重なり合う姿を呆然と立ち尽くし見下ろしていた。


「キャァアアアー!!!!」


 次の瞬間、静香が悲鳴を上げた。

 膝立ちの酒井が、慌てて振り返る。酒井の下で仰向け姿勢の静香が、恐怖に目を見開いていた。


「殺してやるっっ!」


 だが興奮しすぎた俺は、突っ込みすぎて、完全に密着してしまった。酒井のものが俺の体に触れた。


「こんなものっ!」


 俺は蹴とばしてやった。しかし、その瞬間、酒井に手首をつかまれてしまう。


「くそっ!」


 届かない…。

 大の男二人が、揉み合っている。


 殴り合いの喧嘩などしたことのない俺は、全く現実味のない夢の中にいるようだった。力が入らない。ふわふわと足元も定まらない。


 だが、その様子を真っ青な顔で見ている静香の”静香を見た瞬間、俺は”再び猛り狂う猛獣へと変貌していた。


「この野郎ぉぉぉぉぉ!!」


 体制を整えて、力いっぱい刃を突き立てる!


 しかし──、予期せぬ事態に遭遇する…。当初の俺の計画とは違う結果になってしまったのだ。


「いやあぁあぁぁぁああああぁぁ!!」


 それは静香の声だった。一気に血の気が引いていった。


 静香が俺と酒井の間に、割って入ってしまったため、誤って静香の胸を突き刺していたのだ。


「静香ァーー!」


 酒井に対しての殺意はあったけれど、静香まで殺そうとは思っていなかった……。


(ああ……嘘だろ……!)


 静香は苦しみもがいたが、それもほんの僅かのことだった。すぐに、うつぶせに倒れ込んだ。シーツは静香の血で大きな地図を描いてゆく──。


 まるで夏の昆虫の死に際のようだった。籠に入れても数秒と持たず、あっさり息絶えてしまう。


 酒井は恐怖に駆られ、俺の静香を助けることもせず「ひぃぃぃー!」と声を上げて、一目散に逃げ出した。


 もう頭が破裂しそうだ!

 なぜ逃げる!

 なぜ静香を助けない!


 俺は逃げる酒井の背中を見て、怒りが湧き上がった。


 追いかける、追いかける!


 すぐに追いつき。


 何度も刺し!


 また刺して!


 えぐり。


 めった刺しにして仕留めてやった。


 はぁ…はぁ……はぁ…………。


 部屋に戻ると、静香の存在はすでにない。きっと今、空中を漂っているんだろう。

 さっきまで傅いて奉仕する静香を、我が物顔で支配していた男は、自分に身の危険を感じた瞬間、一切の迷いもなく平然と妻を見捨てた。


 なんて馬鹿な静香……。

 こんな体だけしか興味のない男に、まんまと引っかかって──。


 お前は、軽い女だったよ。


 俺は酒井への怒り以上に、馬鹿みたいに乗せられて、挙句、旦那に刺殺された静香()の軽率な行動を、心の底から軽蔑した。


 部屋に突入した時に見た光景。

 それが生々しく目の前に浮かんでは消えて、また浮かんでくる。もう死んだってのに。


「あんなやつに!」


 だけど。

 驚いた事に、俺はすぐに冷静になっていた。

 

”不思議な感覚だった”


 人を二人も殺したというのに、妙にすっきりとしていた。


「これで俺も、お終いか…」


 二人を殺し、めった刺しにし、計画的に殺人を犯した。

 きっと死刑になるだろう。


 そのことを考えたら、悔しくてたまらなかった。

 裏切られたのは俺の方なんだ。


「もう…終わらせよう」


 気づいたら俺は、法律による裁きを避け、自分の手で幕を下ろそうとしていた──。


 震える手で刃を握り直す。

 先ほどまで静香とこの間男に、怒りや軽蔑を向けていたのに、最後には自分自身の保身に走った。


 情けなくて、やりきれなかった。

 怒り、軽蔑した。そいつらと俺は──結局、同じ穴のムジナだよ…。


──それが、俺が電車に乗る前の最後の意識だった。


 *


 気づくと、知らない場所に立っていた。

 揺れる床、低く響く金属音。眼前には光る手すりと、向こう側へ続く長い通路。すっと浮くような感覚。



 電車だ。



 俺はこれから裁かれ、次の道を歩む旅に出る。


 電車の中はひどく静かで、まるで時間が止まっているかのようだった。

 俺は座席に腰を下ろし、ただ正面を見つめる。


(ああ……)


 と、その時──。

 話し声が聞こえてきた。


「実は私、半人間なんです」


 わたしは戸惑う。

 耳を疑った。

 聞き間違いかと思った。

 けれど、その声は確かに耳に届いている。


──ここは本当に現実なのか?

──いや、現実などもうどうでもいい。もう、死人なのだから。


 しかし、声は繰り返される。

 横から、知らない者の告白が。


「半人間なんですよ私は。絶対に人には言わないでくださいね。内緒ですよ」


 わたしは顔を向けた。


「はい?」


 半人間は真剣な顔で頷く。


 電車の揺れに合わせるように、半人間との奇妙な対話が始まった。



真実は──。

この電車に乗る時に。


真実は見えたでしょうか?


それとも?



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