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夢落ち(3/3)

 目が覚めると、あの空間にいた。初めて見る場所なのに、懐かしい感覚がある。――逃げなければいけない。

 脳より先に、背骨の奥がそう告げていた。


 薄暗い一本の通路。巨大なパイプの内側のように、壁は均一に丸く、先へ先へと弧を描く。振り返っても同じ。弧が続く。足音は吸い込まれ、心臓の鼓動だけがやけに大きい。




 シュー、と空気の抜ける音。赤い筒が角をゆっくり曲がってくる。消火器の怪物だ。圧力計の針が目玉のように揺れ、黒いホースは舌のように垂れている。一定の速さで、こちらへ。......怖い。けれど、怖いまま立ち尽くすわけにはいかない。覚悟を決める。


 通路の端に身を貼りつけ、息を殺す。すれ違う瞬間、指の方が先に動く。安全ピンを抜き、レバーを強く握る。白い粉が爆ぜ、世界が霧で満ちる。むせながらも押しつけ続ける。しばらくの格闘。やがてレバーが軽くなり、圧が抜け、怪物はただの重さになって倒れた。


 一体ずつなら、倒せる。その事実が、胸の底に小さな火だまりのように灯る。


 「行ける。今のうちだ」


 声の方を向くと、いつの間にか一人の人間がいた。

 頷き合い、二人で進む。右手に見覚えのある扉。

 開けると、埃の匂いといっしょに空気が流れ出た。古い倉庫だ。使われなくなった器具、布にくるまれた何か、紙箱。棚の奥にランタンとマッチが二つ、用意されていたみたいに置いてある。


 外で擦れる足音。ボロボロの人影が、通路の奥からゆっくりこちらへ。二体、三体……いや、もっと。まだ気づかれてはいない。そっと扉を閉め、内側から鍵をかける。小さな金属の落ちる音に、全身が緩む。やがて足音は遠のき、周囲から音が消えた。


「ここは長居する場所じゃない。息が整ったら行こう」


 相手はランタンを掲げ、通路の先を指す。頼りない手首が、それでも真っすぐだ。


「……もう少しだけ。少しだけ休んだら、すぐに」


 自分の声が、思ったより弱い。喉に砂がつまっているみたいだ。相手は短く頷くと、扉を少し開けて外の気配を確かめ、こちらを振り返った。


「今なら抜けられる。行くよ」


 差し出された手。指先が炎であたたかい色をしている。俺は、その手を取らなかった。代わりに、内側の鍵に指を置いてしまった。


「……先に行って。あとで追いつく」


 相手は一瞬、眉を寄せ、小さくため息を落とす。それでも何も言わず通路へ出ていった。オレンジの灯りが、弧の向こうへ吸い込まれていく。倉庫は静かになった。ここは安全だ。外を徘徊するものに近づかなくても、ここにいれば守られる。椅子を引き寄せ、影の濃い場所に腰を下ろす。背中が壁に触れる。安堵が骨の内側に流れ込む。


 ときどき、外の通路を影が横切る。足音がゆっくり近づき、遠ざかっていく。扉の隙間で、埃の粒が光を帯びて舞う。空腹も眠気も来ない。時間だけが、音もなく削れていく。ランタンの炎は小さくなったり大きくなったりしながら、なぜか芯が減らない。俺は炎を見つめ、金具の冷たさを撫で、息をひそめ続けた。


 影は、少しずつ濃くなる。足音は重なり合い、床の振動が椅子の脚へ伝わる。扉の外の、怪物の数も大きさも増えている――ゆっくりしすぎた。ここは「避難場所」であって「居場所」ではなかった。もっと早く、別の出口を探すべきだった。もう、どこへも出られない。


 ノブが、かすかに揺れた。

 コン、コン。 

 控えめで、しかし離れないノック。ランタンの火を手で覆う。呼吸を止める。心臓だけがうるさい。


 コン、コン、コン。

 数が増える。扉の前に集まる気配。ノブががちゃり、がちゃりと回される。

 内側の鍵が、頼りない音で応える。開けようとする。開けようとする。開けようとする。外側から、均等な力で、諦めずに。


 どん、どん、どん。

 板が低く響き、蝶番がきしむ。枠から粉がぱらぱら落ちる。立ち上がって体で扉を支える。背中に伝わる震えが強くなる。吐く息に、埃の味がする。


 扉の蝶番が裂け、影が流れ込む。古い紙片と埃が舞う。

 思わず叫び、近いものの頭を拳で打つ。硬い手応え。ひとつが崩れる。――一体ずつなら、まだどうにかなる。

 だが、次の影が肩にのしかかる。膝に重み。背中に重み。呼吸の道が布で塞がれる。腕が空を掴み、指が何も掴めない。床が冷たい。ランタンが転がり、炎が低くうなる。


「もう……無理だ」


 こぼれた声は自分のもの。胸の奥で、最初に灯った小さな火が、風に吹かれた蝋燭みたいに細くなる。目を閉じる。音が遠のく。手が、自分からほどけていく。ここで終わり。諦めだけが残る。


――いつか、また現実に……


 その言葉を、心のどこかでそっと置いた瞬間だった。

 ポッ! 

 小さな破裂音。指先が跳ねる。瞼がほどける。天井。枕。カーテンの縁。喉に残る粉の幻。まだ速い心拍。――夢だった。


 ただの夢ではない。忘れてしまいそうになるのを堪える。この夢は、重要なことを暗示している。


 俺には「一体ずつなら倒せる」力がある。だが慎重さに負けて小部屋に居続ければ、外側の問題は静かに増え、やがて扉を破る。そうなる前に。


 朝になったら、扉を開けよう。炎を守りながら、影を一つずつ薄くしていく。大丈夫だ。さっきも、一体ずつなら倒せたのだから。


 

※夢の解説


怪物=現実の問題。影=怪物の集合体。ランタンの炎=命の灯、意志の力。古い倉庫=実家の自室。もう一人の人物=自分の可能性。


消火器の怪物=人を救うはずのものが襲ってくる恐怖。

ボロボロの人影=集団での対人関係の恐怖。

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