ネガティヴは連想ゲーム(2/3)
帰りの電車は、見慣れた日常の匂いがした。ホームのむっとする熱気、車内の冷房の涼しさ。五合目の澄んだ空気は、もうどこにもない。
家に入ると、廊下の先からニュースの音。靴を脱ぐ音が、やけに大きく響いた。
「……ただいま」
「おかえり。富士山、どうだったの?」
母は椅子から半身だけこちらへ向け、リモコンで音量を下げる。俺は雲海のことを話した。光のこと、風のこと。ご来光は雲に隠れたが、足もとに広がる白い海が見事だったこと。スマホを見せると、母は「きれいだねぇ」と写真を見る。
そこへ父が自室から顔を出し、「よく行ってきたなぁ」と笑う。「疲れたけど、行った甲斐はあったよ」と俺。
――ここまではよかった。
話がひと段落して、その次のひと言が問題だった。
「今年で何歳だっけ」
「……三十」
「三十か。俺のときはもう子どもがいたな。なあ、○○に子どもがいたらどうする?」
いやな話題だ。でも、大したことがない。――簡単に言い逃れられる。
「それは俺とは別の誰かの話だよ。子どもがいるってことは相手もいるし、仕事もしてるでしょ。今の俺、収入ゼロなんだから……」
前提を突いて、仮定を否定する。父も母もそれ以上は踏み込まない。テレビの音が少し戻り、天気の話題に流れていく。会話はそこで切れた。
ただの世間話。なのに、胸の底に埋まっていた古い傷が、わずかに身じろぎする。
「真っ当に生きる」──か。そんなふうに生きられたならどんなによかっただろう、と自嘲する。そのまま心が闇の底へゆっくり沈んでいった。なぜ自分は真っ当に生きられないのか。自然と手が過去の傷跡に伸びていった。
その傷は他人には決して見えない。けれど、ほんの些細な会話をきっかけに、忘れかけていた過去の痛みが次々と顔を出した。そう、ネガティヴとは連想ゲームなのだ。かさぶたにそっと触れただけで、血のような痛みがじわりと滲み出してくる。何年経っても、その傷口は完全には塞がらない。
「……疲れたから、休む」とだけ告げて、俺はできるだけ平静を装いながら洗面所に向かった。他人の前ではネガティヴな感情を出すわけにはいかない。
鏡に映った自分の顔をぼんやりと見つめた。右と左で表情が微妙に違っていた。眉の角度も、頬のこわばり方も違った。左の目頭にだけ、薄く涙が浮かんでいた。俺は大きく息を吐いた。歯並びを隠す癖のせいで笑い方が歪み、そのせいで顔の筋肉のバランスがおかしくなったのだろう。そうやって取るに足らない理屈を頭の中で並べ立ててみた。
そうしてつまらない理屈をこねくり回しているうちに、胸の奥深くに黒い糸が一本、するすると垂れてきた。掴んで引きちぎってしまおうと指先を伸ばした瞬間、その糸に絡め取られている自分に気づいた。
俺は慌てて顔を洗うと、自分の部屋へ逃げ込んだ。
小学校の休み時間には、教室の隅でよく寝たふりをして過ごした。幼稚園で友達が作れないまま小学生になり、そのまま六年間は刑期を勤めているような気分だった。逃げ場がなく、窓の外の空をぼんやり眺めては「ここじゃないどこかへ行きたい」と心の中で呟いていた。気持ちだけを空高く飛ばし、孤独も怒りもすべて“感じないふり”で覆い隠すしかなかった。
中学はなんとか卒業したが、高校は二年で中退した。なにも特別な事件があったわけじゃない。ただ日々の中で少しずつ、少しずつ、自分が壊れていったのだ。それが壊れていく音にさえ、当時の俺は気づけないままだった。
世界は、少しずつ「向こう側」になっていった。自分以外のすべてが敵に見え始め、人が怖くなった。心の内側で何かがじわじわと捩じれていくのを感じていた。
世の中には、自分よりもっと辛い思いをしている人だっていくらでもいる――下には下がいるというやつだ。だけど、こんな重荷とは無縁に生きていける幸運な人間もまた大勢いる――上には上がいる。できることなら、俺もそちら側の人間になりたかった。心から他人の幸せを祈れるような人間に……。
なのに、心の奥底から嫉妬が湧いてくる。失敗しろ。不幸になれ。俺と同じ気持ちになれ……。最低でも俺と同じ苦しみを味わってからでなければ、幸福になるなんて許せない。頼むから、俺のいるところまで降りてきてくれ……。
なんて、自己中心的で醜い思いだろう。結局、自分のことしか見えていないのだ。だって、眩しいほど幸福そうな人々にこちらから合わせられる余裕なんて、俺にはないのだから。
友達も恋人も、まともにできた試しがない。世間話くらいなら合わせられるが、その先が続かないのだ。会話術の本も読んだし、実地で訓練もしてみた。けれど、勉強や努力だけではどうにも埋められない隔たりがある。
結局、素質と育ちと運——そのすべてが元から欠けていたのだ。向こう岸へ渡るための足が、俺には生えていなかった。足がない者はいくら訓練したって歩けるようにはならない……。こんなことを言えば「言い訳だ」と笑われるのだろう。それは自分でも分かっている。分かっていても、どうにもならなかったんだ。
「消えてしまいたい」——心が何度もこの言葉に行き着く。誰の記憶にも残らず、人生そのものが初めから無かったことになればどんなに楽だろう……。窓の外を漂う雲を見上げながら、そんなことばかり考えてしまう。
俺は机の引き出しから薬を取り出した。最近になって飲み始めた抗うつ剤だ。コップに注いだ水と一緒に錠剤をひとつ、舌の上に乗せて飲み込んだ。わずかな苦味が喉を通っていった。効いてくれ、と強く願った。今のこの不調は「脳内物質の偏り」に過ぎない——自分にそう言い聞かせた。感情なんて所詮は物理現象、化学反応の結果に過ぎないのだ。だったら薬で少しは正常に戻せるはずだ。〈薬で元気になろう〉……子供じみたスローガンを頭の中で繰り返してみた。
ふと、ニュースで耳にした「無敵の人」という言葉が頭を掠めた。失うものが何もない人間——人生に追い詰められた末の成れの果て。自分はこの先、どちらの方向へ転ぶのだろうか。自分自身を消し去るのか、それとも世界に復讐するのか……。そんな安っぽい二択を一瞬思い浮かべて、すぐに首を振った。どちらにも行きはしない。少なくとも今の俺は、あの頃の俺とは違うのだ。「無敵の人」になどなるものか。
理由もないのに胸が苦しい。自分でもおかしいとは思う。思うのに、涙はそれでも勝手に頬を伝って落ちていく。
窓の外を見る。雲がゆっくり流れる。ついさっきまで憎く思えていた世界が、カーテンの隙間の向こうでほんの少しだけ遠ざかっているように感じられた。
部屋の中は嘘みたいに静かだ。この場所は安全だ。俺はもう一度、心の叫びをそっと空へ解き放ってみる。……そういえばさっきまで、自分はあの雲のさらに上の高い場所にいたのだな。そう思うと、ほんの少し気分がよくなった。今日は十分に疲れた。もう休もう。