表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

富士登山に挑戦する日(1/3)

 電車を乗り継ぎ、バスを乗り継ぎ、障害者手帳と有り余る時間を駆使して、富士スバルライン五合目へ向かった。今日は〈やりたいことリスト〉の一つ、富士登山に挑戦する日だ。


 登山用具なんてない。だから家にある物をかき集め、最低限の装備だけをそろえた。山小屋は予約済み。少し寝て、翌朝のご来光を狙う。天気予報は曇りで、見られないかもしれない。それでもいい。頂上まで行くだけでもいい。俺だって「日本一の山に登った」と言ってみたい。


 お金を節約したぶん時間を消耗して、登山口に着いたのは夕方の十七時前。五合目は標高が高く、夏でも涼しくて快適だ。


 係の人に障害者手帳を見せ、無料でゲートをくぐる。自分が精神障害だという実感は薄いが、この手帳はやたらと役に立つ。日本は社会福祉の国だ、と素直にありがたく思う。




 空は薄い雲、霧は濃い。だが、それが楽しい。下山者のシルエットが霧の幕から現れては消える。序盤は斜度もゆるく、ツアー客の列を追い抜き、立ち止まらずにすいすい登れる。




 やがて斜面がきつくなる。呼吸が荒い。はぁはぁと音を立てるたび、酸素が足りないのが分かる。俺はペースを落とし、立ち止まって息を整えた。先は長い。酸欠のままではすぐに潰れる。息を荒げないペースを守ることが重要だ。


 あとは、重心。前に進む力は、体重移動を使うと楽になる。これだけの斜面なら、とリュックを胸側に回す。重心が自然と前へ出て、たしかに歩きやすい。見た目は少し変でも、まあいい。


 段差の大きい石の道に変わると、今度は前リュックが邪魔だ。足元が見にくい。背中に戻し、息が上がらないよう注意しながらゆっくり進む。疲れたら少し止まる。その反復で、山小屋がじりじりと近づいてくる。


 順調。少しずつでいい。少しずつでも進めば、いつか目的地に着く。先は長い。途中で急いではいけない。




 七合目の山小屋に着いたのは、登山開始から一時間半後。ちょうど夕日どきだった。下界で見ていた雲は、足元のさらに下。見事な雲海だ。ふわふわと続く白さを眺めていると、自然に気持ちが軽くなる。


 雲海を見るのも〈やりたいことリスト〉の一つ。ここから「登頂」「ご来光」まで重ねられれば、いっぺんに三つ達成だ。期待に胸をふくらませ、しばし景色を眺めてから小屋にチェックインする。寝袋がびっしり並び、隣との距離は近い。気にしない。さっさと短い仮眠を取る。引きこもりでも、なぜか体は強い。どこでも眠れる。




 二十二時半、起こされる。小屋の外は真っ暗で、ひやりと寒い。防寒にレインジャケットの上を羽織る。雨具だが、防寒にもなるので便利だ。もっと上はさらに冷えるはず。厚手のフリースもリュックに入っている。


 見上げると、星が近い。下界の街の灯りは、遠い海岸線のように連なっている。きれいだ。周りを見回せば、登山者のヘッドライトがちらちら揺れ、さらに上には次の山小屋の灯り。おもしろい。


 空っぽの俺の中に、目と肌を通って、この夜空が入ってくる。今の気持ちも景色も、すぐに忘れてしまうだろう。それでも、かすかに心の底には残るはずだ。こういうきれいなものを、たくさん自分の中にしまっておきたい……わざわざ富士山まで来たのだから、少しくらい詩的になっても罰は当たらない。




 五合目の売店で買ったヘッドライトを点ける。闇の中に、進むべき道が浮かび上がる。七合目の道は段差が多く、視界は狭い。上りづらい。それでも少しずつ。見上げれば、次の山小屋の明かりがある。そこを目印に進む。

 

 ここからが“本当の登山”って感じだ。日の出は五時過ぎ。時間はまだまだある。星に感動する人、疲れて腰を下ろす人。それぞれの灯りが、暗闇に点々と続く。


 一歩ずつ。順調だ。




 八合目が近い。整備された区間に入る。ありがたい。時計は一時前。ご来光まで四時間以上、まだまだ余裕がある。


 ……と、ライトの電池が思いのほか早く切れた。予想外だ。スマホのライトで代用する。登山には交換用電池が必要――自身の無知を思い知る。スマホの光は広く照らせて見やすいが、片手がふさがるのが煩わしい。


 風が出てきて手が冷える。手袋を持ってこなかったことを、ここで後悔する。袖を伸ばし、指を重ね、ささやかに抵抗してみるが、効果は薄い。耐えるしかない。


 体力的にきつい。けれど、引き返すわけにもいかない。休み休み、少しずつ。富士山は体力勝負だ。黒い軽石がざらざら滑る。




 山頂手前の山小屋が見えた。やった。疲れた。椅子がある。風が強く、細かな砂粒が目に入る。ベンチに腰を下ろす。売店はあるが、値段が高すぎて買う気にならない。下山後に買おう。少しだけ休む。




 さらに少し登る。ここが本当の山頂だ。突風。寒い。用意していたフリースを着る。

 若干、雲が出ている。ご来光は隠れてしまうかもしれない。


 風を避け、見晴らしのいい場所に腰を下ろす。ご来光を待つ。あと一時間以上。リュックからヘッドホンを取り出し、スマホにダウンロードしてある音楽を聴く。深呼吸をひとつ。やればできるもんだ。




 空が明るむにつれ、雲が増える。下のほうには雲海が広がっていく。非日常の光景に、胸がときめく。


 空は青く、地平線の縁が赤と黄色に染まり始める。もうライトはいらない。写真を撮る。たくさん撮る。きれいだ。ここまで来なければ見られない景色だ。登山口まで来るのに時間がかかり、登りは辛かったけれど、ここに来られてよかった。来た価値はあった。


 ご来光は雲に隠れた。それでも――〈雲海を見ること〉、〈富士山に登ること〉、〈頂上でご来光を見ること〉。〈いつかやりたいこと〉の三つに、いっぺんに横線が引けた。


 こういう価値のある経験を重ねていけば、空っぽではない人生になる。……そう信じたい。好奇心と感動を、忘れずにいたい。


 しばらく、ただぼんやり景色を眺める。




 ......そろそろ下山しよう。下のほうへ行けば、もっときれいな雲海が見られそうだ。


 下山が始まる。小さな軽石が滑る。うざい。降りるのも疲れる。登るよりはましだが、足が痛い。衝撃のせいか、もう筋肉痛が来ているのか。




 途中で雲海を見た。素晴らしい。どこまでも白く、ふわふわが続いていく。もしかすると、朝日より雲海が見られたことのほうが嬉しかったかもしれない。




 途中の売店で耐えきれず食べ物を買う。ミルクティー、パン、チョコ、ソーセージ。合計千四百円。高い。水と軽食は事前に買っておくべきだった。でも、喉は渇いているし、疲れている。仕方ない。




 笑い声が聞こえる。みんな、楽しそうだ。この登山中、挨拶はよく交わしたし、話しかけられることも何度かあった。ここでは、下界の悩みを一時的に置いて来られるのかもしれない。


 たくさん歩いて頭が空白になったからか。視界が遠くまで開けているからか。乾いた喉に甘い飲み物が染みたからか。――いや、ただ天気が良かったからかもしれない。

 山の魅力を、少しだけ知った気がした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ