脳が壊れている
決意の日から四ヶ月が過ぎた。夏だ。冷房の吹き出し口がカタカタ鳴り、閉じたカーテンの向こうでは蝉が薄く鳴いている。今日もまた「目を覚ます」だけの一日が始まる。天井を見つめたまま、身体は動かない。思考は霞み、時間の輪郭も溶けている。――この季節の巡りは、いまの俺には関係ない。
風呂には四日入っていない。脱ぎ捨てたTシャツがベッド脇に積もり、机の端には食べ終えた容器と箸が重なって、わずかに発酵した酸い臭いが滞留している。廊下の先からは、親のテレビの音が微かに漏れてくる。俺はドアを開けない。
思えば、最初は順調だった。あの日、本気で変わろうと決めた。
<毎日やること>と<いつかやりたいこと>の二つのリストを書き出し、白紙だった人生に、自分の手で線を引き始めた。小さくても前へ――そう思っていた。
――だが、あの夜の涙の熱は、いつしか思い出せなくなった。指の隙間から零れた水のように「決意の温度」は失われ、当時の自分が遠い他人のように感じられる。
何度も仕切り直した。少し進めば、すぐ怠惰に流される。無為な日が続くと、自己嫌悪が胸を締めつけ、呼吸まで苦しくなる。
気づけば、またYouTubeを開いている。SNS、ネット漫画、アニメ、映画、Web小説――流れるように消費して、一日が終わる。苦しみから目を逸らし、何も考えず、何も得ない。心は相変わらず空っぽだ。
再生ボタンは、俺よりも強い。
俺の意志は、俺の脳よりも弱い。
――退屈
この時代に飼いならされた俺の脳は、もはや「退屈」に耐えられない。手軽な刺激に慣れきり、わずかな静けさも不安へと変える。現実は重い。だから軽い方へ逃げる。異常だという自覚はある。いちばんよく知っているのは、俺だ。
それでも動けない。心が反応しない。脳が怠惰を選び、身体は従う。どれほどハードルを下げても、それすら越えられない。
不安だ。どうせまた途中で投げ出すのではないか。この空虚な生活が、この先も続くのではないか。
やがて持ち直すだろう、とは思う。だが、回復の幅は小さくなり、戻るまでの時間は延びている。自分という輪郭が、ゆっくり沼へ沈んでいくような感覚さえある。
感情が壊れている。楽しくもない。悲しくもない。怒りもない。ただ「なんとかしないと」と思いながら、その上から蓋をする。心の底に沈殿した濁りが、ときおり泡を一つ吐いては消える。
――精神が終わってる。
理由なんてない。
ただ、そうとしか言えない。
――ああ、今日も、また、何もしないで終わるのか。
予感というより、確信だった。もう一週間、ずっとこうだ。
俺は怠けている。働いていない。打ち込めるものもない。ただ時間だけがあるのに、何ひとつ生み出せない。ときどき「羨ましい」と言う人がいる。なら、なぜ同じように生きないのか。彼らには頑張る理由と、頑張れる心があるのだろう。
俺だって、有り余る時間を有意義に使いたい。趣味でも、仕事でも、なんでもいい。それだけで、いまよりマシになれるはずだ。
……分かっていても、変わらない。「このままじゃいけない」という言葉も、今では遠く掠れた音にしか聞こえない。
リストを見る気力も湧かない。どうせやらない。やれない。だから、見ない。
それでも――今日は、ほんの少しだけ違った。「このままじゃだめだ」という声が、心の底で小さく鳴った。嫌だった。けれど、動いた。
重い身体を起こし、机の端の紙へ手を伸ばす。〈やることリスト〉。七つの項目のうち、三つに横線。できなかったから、消したのだ。
「こんなことすらできなかったのか」と頭の奥で響く。――それでも。
〈やりたいことリスト〉には、三本の横線があった。たった三つ。されど三つ。達成済みの証だ。ささやかでも、変化の線が確かに刻まれていた。
まだ変われていないのかもしれない。けれど、もがいていた。あの夜の決意は、まったくの無駄ではなかったのかもしれない。
この紙を、机に伏せておくのはやめよう。目に入る場所へ。手の届くところへ。ベッド脇の壁に貼る。いつでも見えるように。いつでも思い出せるように。
亀の歩みだ。止まって見えても、わずかに前へ進んでいる。少しだけ、意志が戻ってきた気がする。
部屋はまだ汚い。風呂にも入っていない。洗濯物もそのままだ。それでも――今なら、少しだけ動けそうだ。
よかった。本当に、よかった。
「やるべきことを、やれる人間になりたい」
祈るように、心の中でそう唱えた。