決意の日
彼の実家の廊下の奥、その突き当たりにある一室。扉は今日も閉じられている。誰かを迎えることも、誰かに開けられることも、もうずっとない。
部屋の壁際の棚には、かつて彼が夢中になったキャラクターグッズが並ぶ。色あせたそれらは、いまや思い出の品として静かに居場所を占めていた。
彼がこの部屋から出るのは、家族が出払った平日の昼間か、深夜に台所やトイレへ向かうときだけ。
両親と暮らしてはいたが、会話らしい会話はとうに消えた。声をかけられても「……ああ」「……うん」と曖昧に返すだけ。目を合わせることも、向き合おうとする意志も失われ、機械的な応答だけが行き交う。“家族”のかたちは、外側だけをなんとか保っていた。
友人はいない。電話は鳴らず、通知も届かない。
今日も彼は、SNSのタイムラインを惰性で眺め、動画を垂れ流し、意味もなくゲームを繰り返す。記憶に残らない情報が静かに堆積し、虚ろな意識のまま日々は流れ、湿った憂鬱が一日をじわじわ溶かしていく。
そして気づけば――彼は三十歳になっていた。
この日もまた、変わりばえのしない夜がやってきた。
彼はいつものようにオンラインゲームにログインする。ボイスチャットには五人。うち四人は二十代前半の若者だ。何気ない雑談と軽口がいつも通り飛び交う。
ただ、その夜は、少しだけ、いつもと違う“空気”があった。
大学生活、趣味、恋愛、就職活動、流行の音楽──軽快な会話は画面の向こうの鮮やかな現実を奏でている。
彼も輪に入ろうとした。タイミングを計り、言葉を投げ、冗談めいたコメントを試みる。
だが、誰も拾わない。
声が被ったのかもしれない。マイクの調子が悪かったかもしれない。あるいは最初から──誰も、聞いてなどいなかったのかもしれない。投げた言葉は誰の耳にも届かず、消えた。
それでも彼は、平静を装って淡々とゲームを続けた。
グループに大学生が一人いた。彼はその若者にも何度か話しかける。最初は短い返事が返った。
だが、三度、四度と重ねるうち、返答はぞんざいになり、語気に疲れと苛立ちが混じっていく。そして若者は、会話の途中で突然、声を張った。
「お疲れ~!」
唐突なその言葉は、場を和ませるものではなく、彼との会話を切るための刃だった。大学生はそのまま他の若者と笑い合いながら別の話題へ移る。
彼は画面を見つめたまま硬直した。言葉は出ない。自分に向けられた拒絶だと、すぐ理解した。
別の若者が気まずさを薄めるように声をかける。空虚な埋め草の雑談だ。
「今日、雨すごかったっすね」「このスキンかわいくないっすか?」
彼は何でもないふうに応じた。だが頭の中では思考が崩れ、形を失っていく。
やがて、心が落ち着きを取り戻し、思考が輪郭を得たとき――気づいた。その若者の声に、かすかな「哀れみ」が混じっていたことに。
見下されているのではない。ただ、誰も彼を「同じグループの人間」とは見ていない。彼は場違いなのだ、と。
”若者たちの楽しげな輪に、一人混ざる無職で無気力な三十代の男”――それが、どうしようもなく現実的な彼自身の姿だった。
事実が腹の底に落ちた瞬間、胃の奥がすうっと冷える。冷たさは血流に乗って全身へ広がっていく。怒りはない。むしろ、納得がある。ただ、どうしようもない情けなさが、心を内側から削った。
「俺は……ここらへんで落ちるね。お疲れ~」
平然を装って告げる。通話を切り、ゲームを閉じ、パソコンの電源を落とす。モニターの光がふっと消え、ファンの唸りが後を追って止む。静寂が、元通りに部屋を満たしていった。
彼は椅子から立ち、重力に引かれるようにベッドへ身を沈めた。布団はかけず、目も閉じない。ただ天井を見つめる。
やがて、音もなく涙が頬を伝う。嗚咽も身震いもない。ただ、静かに、ゆっくりと、熱が零れていく。誰にも見られず、誰にも知られず、ひっそりと。涙はしばらくあふれ続けた。
◆
……なあ、少しだけ、俺の話を聞いてくれないか。
ちょっと前、大学生たちとネットでゲームしてたんだけど、そのときちょっと、グサッとくる出来事があってさ。
会話の中で、自分が完全に“空気”っていうか、ーーいない方がいい人間として扱いされてるって気づいた瞬間があったんだ。
すごくショックだったよ。
でも、それ以上に、はっきり分かってしまったんだ。「――俺は、ただの“痛いおっさん”だったんだな」って。
若者の輪に混ざってるつもりでも、周りから見れば見苦しいだけ。誰も口にはしないけれど、たぶん全員が思っていたはずだ――「気持ち悪いな、こいつ」と。俺だけが、気づかないふりをしていた。
その夜は、自分が情けなさすぎて、嫌でたまらなかった。だからこそ、心の底から思ったんだ――変わりたい、と。
あの出来事は、たぶん“変わる”きっかけだった。そう思わなきゃ、やっていけなかったけど。
とにかく、俺は「変わる」って決めた。 今のままなんて、死ぬより嫌だ。 まずは、朝にちゃんと起きて、机に向かう。そこから始める。毎日、少しずつ積み重ねる。「あの日より少しはマシな自分」になるために。
失敗ばかりの人生だ。これからだって、うまくいく保証はない。
けれど――何もしないまま、今よりもっと情けない自分に転がり落ちるくらいなら、試すしかない。
今さらだとしても、俺は生き方を変えていく。