3 陸上部
「――きゃー! タキ先輩――!」
タータントラックから少し離れた芝生の縁に出た瞬間、集団の一つから黄色い声が上がる。
声を皮切りに一団が一斉に滝代を取り囲み、どうにか逃すまいと矢継ぎ早に質問攻めにした。
「ふぅ」やれやれ。グラウンドに出てまだ数十秒もしない内からこの盛況振りである。滝代の彼氏としては非常に鼻が高いが、如何せん居た堪れないのが難点である。
「せんぱーい、一緒に記録会出てくださいよぉ!」
「あはは。全然練習してないからね、格好悪いところを見られるのは恥ずかしいかな」
「なら明日から一緒に合宿しましょーよぉ! 先輩がいてくださるだけで私たち、死ぬほど頑張れるんですぅ!」
調子の良いことを次々と投げつけられ苦笑気味の滝代は実に手慣れた様子でいなしながら、やんわりと別の話題を切り出していく。
「そう言えば最近、陸部の子が変なものを見たって話を聞いたんだけど」
「はい! それ私です! なんか夜中に目が覚めちゃって、トイレに行った帰りに見ちゃったんです!」
先月行われた学院内の強化合宿での夜、宿泊棟から何気なく窓の外を見た生徒は一つの影がトラックを横切り石段のある鉄柵の方に消えて行くのを見たという。
「暗くてほとんど見えなかったんですけど、長い髪をバサッとしてぇ、腕をこんな感じに前でぶらぶらさせてましたぁ! もう、思い出しただけで怖くってぇ!」
「そっか。話してくれてありがとう。何事もなくて本当によかったよ」
怖いと言いながら両腕を抱く女生徒は滝代に優しい言葉を掛けられ満更でもない様子で群れの奥へと下がる。
「まだあるんですよ先輩! その次の日もぉ!」
「おや、それは聞いたことないな。詳しく聞かせて」
滝代と私とで「青女」としている件があった日の翌日、これまた真夜中に不可思議な現象が起きたのだという。
その日は昨年学院を卒業したOGが合宿に参加してくれたこともあり、夜中までちょっとしたどんちゃん騒ぎだったらしい。
夏を控えた時期ということもあり、話の流れからいつしか各々が持つ怪談話を披露する段に入った。OGたちが話す内容はどれも学院に関する怪談ばかりで、現役の女生徒である部員たちの没入感は凄まじく、時折自分たちすら驚くほどの悲鳴を三階まである広い宿泊棟中に響かせていた。
やがてふとした折りに冗談めかして悲鳴を上げるタイミングをずらす部員が出始め、怪談に対する恐怖を和らげようとする他の部員も次第に追随し、本当に怖い怪談ほど様々なタイミングで悲鳴が上がるようになった。
「『きゃーきゃーうるせー』ってなってたときぃ、なんかずっとうるせーヤツいんなぁとか言ってぇ」
「それで誰が言ってんだーって、『話続けられんからやめろ』って言っても叫んでてぇ!」
「――でも、誰も叫んでなかったってオチ」
まさに悲鳴が悲鳴を呼ぶ阿鼻叫喚の図であった。
三つの部屋の間仕切りを取り払える二階の大部屋で雑魚寝していた部員たちは互いに顔を見合わせ、叫び声の出所を探った。しかし、どうやら二階のフロアから生じたものでないということが分かっただけで結局正確な位置まで特定することはできなかったという。
真夜中に全員が揃っているはずの部屋とは違う場所からタイミングよく悲鳴が上がったときの恐怖と言ったら、想像しただけでもゾッとする。
「大変だったんだね――。よし、わかった。今回は私も参加するよ」
「……え?」
唐突の強化合宿参加表明にその場に居合わせた者たちは一様にきょとんと口を半開きにするしかなかった。
「――きゃーっ!!」
やがて、違った意味の熱い悲鳴がグラウンド中にこだましたことは言うまでもない。
「あ、この子はユキちゃん。マネージャーとして一緒に参加してもいいかな?」
「勿論ですよ! マネなら何人でも歓迎しまっす! よろしくね、ユキちゃん!」
そんなこんなで断りを入れる遑すら与えられなかった私は、特に断る理由も見当たらずまごまごしている内に合宿参加が決定した。
まったく気乗りのしない、むしろ今すぐ逃げ出してなかったことにしたい陸部との約束。
無縁だったはずの部活動の、しかも運動部の中でも最もハードな部類との接触。
「こっちが叫びてぇよ……」
と言うより失踪事件が起きてるのによく学院も合宿を認可したな、などとは口が裂けても言えない。一見粗忽に見える彼女らも、それだけの結果を出しているという証拠なのだろう。
結果を出して「働いている」者こそが社会の摂理を決めるのだ。
部員が見たという長髪の影よろしく脱力した腕を猫背から生やして「とほほ」と独りごち、女子たちに囲まれた滝代を遠い目のまましばらく眺めた。
*
「でさ、いきなり合宿に参加することになっちゃって。私がだよ? 一キロも走ったことないのにね」
灯明から取った火を片手で仰ぎ、灰の溜まった香炉にもう一本線香を追加する。
「最近貧血も酷くてさ、たぶん十メートルくらいダッシュしたら死ぬ。お母さんも知ってるでしょ、小1の時の持久走で初っ端からズッコケて鼻血ブーしたやつ。今はあれを越えられるね」
ずっと笑顔のまま、他愛もない私の話を母は黙って聞いてくれる。
「ほんっと、滝代には困ったもんだよ。どうして私なんか誘っちゃったんだろうねぇ。他に女なんていくらでもいるのに――」
リビングの方でカタカタと音がして、母との会話を止める。
「ただいま。雪子、帰ってるのか?」
仏壇のある和室とリビングとを仕切る引き戸の前で父が声を発する。
爪を嚙みながら無言で線香の箱へと手を伸ばす。
「ちゃんと飯は食ってるのか? 最近学校はどうだ?」
花模様のあるすりガラスにぼんやりと影を浮かべる父が代り映えのしないいつもの質問を投げ掛けてくる。
黙りこくる私に痺れを切らしたのか、ガラスに映る影が更に濃くなる。
「なぁ、雪子――」
「うっせぇんだよクソがぁっ!! いつまで父親面してんだ!? さっさとどっか消えちまえよぉ!!」
凪いでいたはずの波が急激に競り上がって、まるで脊椎反射のように侮蔑の言葉が溢れ出す。
投げつけたコップが戸の木部に当たり家中に鋭い音が鳴り響く。
音で我に返ると「すまない」やら何かを呟く父の声は遠退き、閉め切られた和室に再び静寂が還る。
「訳わからん……」
まだまだ話し足りないと思っていた先の感情は不意に薄れ、身に付けた制服や下着を部屋の隅に放った。
「わかってるって。ちゃんと歯磨きもするし、シャワーも浴びるから」
畳に放り掛けた体を立て直し、笑顔で諭す母へと言い訳をする。
リビングとは反対の引き戸を開き真っ暗な廊下の板張りに素足を着くと、ヒヤリとした感触がふと思い出させる。
「あはっ、シャワー使えないんだった」
引き戸の向こうにいる母に言い、蝋燭の火がぼんやり照らす部屋を閉じて洗面所へと向かう。




