11 試し打ち
翌朝、真っ暗な部屋の隅で「うんうん」言いながら寝返りを打つ全裸の滝代を観察しながら朝食の支度をする。
誰かのためにご飯を作るなんて何年ぶりのことだろうか。ましてや自分のためですら台所に立たなくなってから久しく、他人の家の台所に立っている現状が酷く不思議に思えた。
「できたよー」
生活感のない部屋から冷蔵庫事情を危惧していたが、案外食材は揃えてあった。
味見をしなくても彩ることのできる料理なら今の私にもできる。最低限のバターと卵でオムレツを作り、レタスとトーストを皿に添えて台所横のテーブルに並べた。
雨戸を閉め切っているせいで日の当たらない部屋は間違いなく滝代の覚醒を妨げている。
思い切って錆び付いてゴリゴリと鳴る雨戸を全開にする。
出窓から差し込む光がちょうど滝代の顔に当たり、次第に当人もムズムズと動きが活発になっていく。
「おーい、起きろー」
仰向けになったまま粘る姿に少しだけイラっとして、股から慎ましく生えた柔らかな陰毛を軽く引いて遊んだ。
「――あっ!」
軽く引いたそれらが段々愛おしくなって思わず唇を近付けた瞬間、突然滝代の半身が起き上がり、つい「ごめん!」と言葉が口を突き慌てて腕を引っ込めた。
焦った様子で窓に駆け寄った滝代は雨戸に手を掛けたところで不意に動きを止める。
「そっか、もう必要ないんだった」
心底安堵したのか強張った全身を脱力させ、ようやくこちらの存在に意識を向ける。
さっと胸と股間を手で覆った滝代は赤面しながら「お騒がせしました」と言い残して押し入れを漁り始めた。
「少し大きいけど私の服使ってよ。下着は新しいから安心して」
「いやむしろお古のがいいんだけど。お土産に何着か見てもいい?」
押し入れ前をガードする滝代を押し退けて、洋服ダンスの中にある宝の山を大いに漁る。
そんなこんなで全裸のまま無事に朝食を済ませた私たちはその後仲良くシャワーを浴び、昨日よりはやや大人しく抱き合って温もりを交換した。
「今日の夜、隣の駅の方に行くんだけどユキちゃんも来てくれる?」
「行くよ。もしかして莫和マホを殺しに行くの?」
すぐには私の質問には答えず、押し入れに置かれた黒くて大きなボストンバッグを引っ張り出してから軽く「そう」と言った。
バッグを開いて中から取った鞘の付いたナイフを「護身用に」と私に持たせる。
刃渡りニ十センチほどのナイフをどう扱ったものかと眺める横で、滝代は真剣な面持ちのままバッグの中身の「最終チェック」を始める。
「見て、これ。十四年式拳銃。カッコイイでしょ」
「なんだよそれ、まるっきりオモチャじゃん。ミリオタかよ」
やけに細い銃身と持ち手と、撃鉄に当たる部位に付いたポンプの取っ手のような物が妙に偽物感を出している。
滝代は真剣な面持ちでそのオモチャを目に近づけ、細部に傷がないか隅々まで確認する。
「おじいちゃん家の倉庫にあったんだー。工廠で働いてた時からずっと欲しくて、戦後に払い下げがあってからすぐに買ったんだって」
丁寧に使用された物であるらしく、その後の手入れも怠らなかった甲斐もあって未だに現役のままなのだとか。
チンプンカンプンな私のことなどお構いなしに、その後小一時間は十四年式拳銃の特徴や性能の素晴らしさについて力説されるに至った。
*
Tシャツにデニムのショートパンツ、キャップ、走りやすい様にとスニーカー。刃渡りニ十センチのナイフがギリギリ入るショルダーバッグ。
帰路につく人々の間を縫って日の沈んだ駅前通りを二人並んで歩く。
「大丈夫かな、これ。肌出し過ぎじゃない? 変態じゃない?」
「全然大丈夫だって。むしろ可愛いよ」
Tシャツならまだしも、ショートパンツとやらは下半身のほとんどを外気に晒してしまい衣服としての機能性を疑わざるを得ない。ショートパンツと言うより、ただのショーツと言った方がしっくりくる。
日頃から露出の少ない服しか着ないもやし女に対して、同じく肌を晒した滝代はさすがにこなれたものだ――黒のショートパンツに白のタンクトップ、リネン生地の長袖ベージュシャツを羽織る。肩からは例のボストンバッグが下げられている。
思えばこうして電車を利用するのは小学生以来かもしれない。人通りの多い駅前や構内などに用はなく、近付きもしなかった。
「隣駅までだけど、自転車で行くと割と距離もあるし荷物も多いからね――」
――エヘッ、エヘッ、コッ、カァア!
ホームで電車待ちをする群れの中から一際大きな咳払いをする男性の声が響き渡る。
どうにか気にしないようにと努めて滝代との会話に集中しようとしていたが、やはりその声量が大き過ぎて話にならなかった。
――エヘッ、エヘッ、コッ、カァア!
周囲の人たちもその男性から距離を置いて顔を背け、俯いたりスマホを凝視したりと何とか気を紛らせようとしている様子が窺える。
「喉輪締めえずきオッサン――意味もなく不快な咳払いをするオッサンね。ちょっと待ってて、試してくる」
滝代が言った言葉の意味が分からず聞き返そうとするよりも早く、颯爽と例の不快音を発し続ける薄らハゲたスーツ姿の中年男性の方へと向かって行く。
――オッ、エヘッ、エヘッ、カッ!
間もなく電車が到着するとのアナウンスが入るのと同じくして、列後方から滝代が顔を出した。
「何しに行ったの?」
「ああね。これの性能チェックに行ってた」
言ってそっと私にだけ分かるように長袖シャツの下に隠した『何か突起の付いたゴム製の柄のような物』を覗かせる。
――アッ、オエェッ、ホァッ、ホァアアッ!
「なんだ、ちゃんとえずけるじゃん」
心なしか向かいの電車待ちをしていた乗客たちのざわつきが強くなった気がする。
こちらの電車が到着しホームドアが開いた途端、向かい側から悲鳴が上がった。
振り向く私の背を滝代が軽く押す形で車内へと乗り込む。ホームでは先の中年男性がいた辺りに人だかりができていて何が起きているのか分からなかった。
さすがの事態に停車するかと思われた電車は定刻通りに出発することを決め、あっという間に謎の群衆を後にした。
「袖の中にあるのって、もしかしてヤバいやつ?」
「無針注射器って言う医療器具。中にある液体に圧を掛けて皮下に注入するやつ。針が無いから刺した痛みがないんだよ」
ヤバいかヤバくないかで言ったら、器具自体は何もヤバくないと言う。しかし、中にある液体というのが極めてヤバいらしい。
アコニチン。主に近所の山にも自生しているらしいヤマトリカブトの根っこから抽出したものをエタノールに溶かして入れたものらしい。
「トリカブトってかなりヤバい毒だったよね」
「そうそう。でも実際効くかどうか不安だったから、試せてよかったよ。注射器の性能も十分だね」
「いやそうじゃなくてさ……! 普通に死ぬよね、あの人」
「まぁ、運が良ければ死ぬんじゃない? 神経に効くやつだから痺れは残るかも」
満員とはいかないまでも満遍なく乗客で埋まった車内で平然と殺人について語る滝代。吊り革の輪よりも革の方を握りながら袖に隠した注射器の中にある透明な小瓶を交換している。
目的のためなら手段は選ばない女だと思ってはいたが、まさかここまで常軌を逸していたとは思わなかった。
だからと言って止めはしない。むしろ励行するし、理解不能の爽快感すら覚え始めてもいる。
「うるさい蝿とか蚊って叩き殺すでしょ。それと一緒だよ」
確かに、人以外の「うるさい生き物」は人間の都合によっていつでも殺される。
しかし、だからと言って人だけが生殺与奪の権利を握っているというのもおかしな話だ。
殺人自体がおかしいという意見もあるだろう。実際そちらの意見の方が多いし、それが「正常だ」とする感覚も理解できる。
生きている、という事象から言えば蝿と蚊、人の生にも何ら差異はない。ヒューマニズムを前提とした考え方が最早「異常」なのだ。
なんでもかんでも殺すのとは違う。だが言っても分からない生き物、ましてや何十年ものうのうと生きてきたのに「他者を慮ることができない人間」が残りの人生で変わっていく可能性などいかほどのものか。
変われる人はいる。しかし変われない者が大半だと言わざるを得ないのも事実。また、同時に変わって欲しいと願うのも人の性というものである。
故に分からず屋の人間に直接的な死を与えるのではなく、変われる可能性を信じてその者の生殺与奪を握る。
生きるか死ぬかは投与した薬の効果と、その者の抵抗力次第。
死を身近に感じた人ほど他者に優しくなれる、と滝代は続ける。
「――土下座しろぉっ!!」
突然車内に怒声が響き渡る。
距離を取った乗客が隣の車両か或いは離れたこちらの方に移動してきた。
「セルフ去勢プライヤー――他人の迷惑を顧みず足組みを断行する人。じゃ、行ってくるね」
まさか、とはもう言うまい。滝代がそうしたいと思ったのならすればいい。
他人に迷惑を掛ける頭のバグった人間が世の中から消えるのはとても良いことだ。
「なんだテメェ、ぶっ殺されてぇのか!!」
周囲の目などお構いなしに怒鳴り散らす男性。外見だけで言えばどこかのオフィスにいそうな自称仕事のできる男。
両隣にまで広げた腕と太々しく前方に組まれた足。ふんぞり返り顎鬚を前に突き出した男の足下には小学生と思われる少女がうずくまっている。
男と少女の距離、周囲のひそひそ話から察するに、動線を塞ぐほど大きく組んだ男の足に偶然よろけてぶつかった少女に対してその男が頭ごなしにキレ散らかしているといった具合だった。
「おいっテメェッ! 待ちやがれ!」
そこに現れた滝代は容赦なく男の足を靴底で蹴り飛ばし、うずくまった少女を抱えて傍観者たちが作るヴィクトリーロードを優雅に抜けてくる。
少女に寄り添う際、袖の下から伸びた手が剥き出た男の脛を捉えたのを見逃さなかった。
『杜塚ぁー、杜塚ぁです。お降りの際はお足元に十分ご注意ください』
「ウアッ、アァッ! ウァアア――」
駅ホームに少女を下ろし怪我がないことを確認した滝代は、取り出したハンカチで少女の頬を拭い手を振って別れた。
「あの子もこの駅で降りるって。よかったよかった――。ねぇ、ユキちゃん! 見てあれ!」
一仕事終えて満足そうに額を拭う滝代の目に何かが止まった。
興奮気味に指差す方を見ると、駅ホームの明かりにぼんやりと浮かぶ二頭のヤギの姿がある。
予定していた方とは正反対に抜け、この辺りでは最も有名なヤギのメーちゃんとユーちゃんに対面する。
もう夜ということもあり、どこか眠たげな目でフェンスを甘噛みするヤギさんたち。
「あはっ、いいお顔ぉ! 君たち可愛いねぇ」
若干嫌がるヤギの頭部を撫で回してどこかのオジサンみたいな猫撫で声を発する滝代。
杜塚ヤギ。十年前にこの近辺の家庭で一人の少年が母と祖母を殺害した事件を契機に、駅近くの喫茶店オーナーが飼育を始めたのがこの二頭。
二頭には『子供たちに命を身近に感じてほしい』との思いが込められている訳だが、恐らく滝代はその事実を知らない。
撫で方が余りにもしつこ過ぎて二頭共にフラれた傷心気味の滝代に、彼らの由縁を伝えるべきかどうか迷ったが、結局やめた。
これから人を殺しに行こうと決めた人にそれを言うのは何だか酷な気がした。