10 臥薪
洞窟を後にすると、すかさず滝代から昼食の提案が入る。
何でも引っ越して以来一度も外食に出ていないとのことであり、生まれも育ちも瑞那和の私に是非ともおすすめの食事処を教授願いたいとのことだ。
どうしても私を逃すまいとする魂胆が見え透いているのだが、如何せん、思いの外先の怪奇現象に気持ちをやられていたらしく、寂しさの余り敢え無く承諾してしまった。
「駅チカに美味しい海鮮とイタリアンがあるのはオガちゃんから聞いてるんだけど、全然行けてなくてさ」
「ん――あのさ、タツヤって誰?」
美味しいランチ店について花を咲かせる滝代の表情が一瞬にして思案するときの顔に変わる。
遠くを見つめたまま足は地に着き、信号が青に切り替わっても前には進まない。
「……どこで聞いたのかな。私の知ってる辰也は弟だけ」
「へー。先輩の弟ってことは超絶イケメンじゃん。今は弟くんも夏休み?」
「ううん。辰也はもう死んだよ。三年前に」
再び青になった信号に従った滝代はあっさりと衝撃的なことを口にし、努めて張り付けた笑顔を私に向けた。
なんと返事していいかも分からないまま駅に繋がる交差点を横目にしたとき、交番から出張った警官からニケツについて注意を受けた。
「そうなるかぁ。気を付けてれば大丈夫かと思ったんだけど」
「ニケツを注意されるとか、不良界の話じゃなかったんだ?」
「割とされるよー。私の地元じゃそこら中に警官が立っててさ、弟とニケツしてたときにね」
ニケツが封じられ歩行を強制された滝代と私は大通りの狭い歩道を縦に並んで行く。
すでに目的地が近いのは幸いだったが、再度亡くなった弟くんの話を振られて何も言えなくなる。
「ユキちゃんって一人っ子?」
「うん、そう。予想通りって感じでしょ」
「何となく大事にされてそうだなってのは感じてた。じゃあママにオギャり放題だ」
「言うほどオギャってねぇし――っつか、うちのお母さんも三年前に亡くなったよ」
今度は滝代の方が言葉を詰まらせ、無言のまま私の方をチラチラ観察しているのが分かる。
「お父さんは――」言い掛ける滝代の眼前に勢いよく腕を掲げて目的の店を指し示す。
「『山猫料理店』。私も全然外食はしないんだけど、何か特別なことがあった日には必ず連れてきてもらってた」
例えば誕生日とか、お母さんの仕事が遅くなった日とか、持久走大会で鼻血ブーした日とか。
古びた分厚い木戸を引いてドアベルをカラカラ鳴らすと、温かみのある裸電球に照らされた赴きある店内が迎えてくれる。椅子やテーブル、その他ほとんどの調度品がよく磨かれた木製で、店内中が心地良い木の香りと色とりどりの料理やハーブの匂いが優しく漂っている。
「いらっしゃいませ。お暑いのによくお越しくださいましたねぇ」
白い前掛けをした品の良いお婆さんがメニューを持ってテーブルに案内してくれる。
席に着いて店内を見渡してみると、至る所に大小様々な猫の絵や置物が配されているのが分かる。今は私たちの他に年配の女性が一人だけ端の席でゆったりと食事を取っているばかりだ。
「山猫料理店ってさ、入ったお客が逆に注文されちゃうってやつだよね?」
「おほほほ。お嬢さん、ご存知なんですねぇ。でもそれは『山猫軒』でのお話です。どうか安心して注文なさってください」
カウンターの方でお冷を用意していたお婆さんの耳に私たちの会話が届いたのか、さも愉快そうに笑いながら注文を取りにきた。
「うーん、何にしようかな」
「迷ったら『山猫御膳』で決まり。すみません、御膳二つください。あとアイスクリームも」
「おや、お客さん。どこかでお会いしましたかね?」
「いえ、気のせいでしょう。山猫御膳、楽しみです」
「あら、ごめんなさいねぇ。近頃は物忘れが酷くていけません。御膳二つですね」
どうにか胡麻化す私に申し訳なさそうに頭を下げたお婆さんはカウンター向こうの厨房へと消えて行った。
滝代とテーブルを囲い、オガ先輩が言っていた駅チカのラーメン屋の話で盛り上がっている内に、次々と目の前に小鉢が並べられ、サラダ、ごはん、お吸い物、天ぷらとローストビーフがそれぞれ乗った皿が運ばれた。
「すごい組み合わせ! でも栄養満点だね」
「洋食屋っぽいのにね。お蕎麦も打ってるんだよ」
色彩豊かな食材たちが視覚や箸を取る手を楽しませる。一つ一つを口に運べば、舌触りや歯応えから、そのどれもが新鮮で丁寧に仕上げられているのが容易に分かる。
「美味しいよユキちゃん! こんな近くに住んでるのに今まで気付かなかったなぁ」
「ん……うん? 近くってどういう意味?」
「言ってなかったっけ? 私ン家のアパートってこのすぐそばにあるんだよね」
大根と人参の酢物巻きに舌鼓を打つ滝代によると、この山猫料理店のすぐ裏手にある山を抜けた先の住宅地に間借りしているアパートがあるという。
「そこら辺にある小学校、私の母校なんだけど」
「うっそ! ユキちゃんが通ってた学校とかマジ上がるんだけど! 朝からうっさいガキんちょしかいない学校かと思ってたけど、なんか今なら全部許せるわぁ――。小さい頃のユキちゃんとか絶対可愛いじゃん」
それから最後に運ばれたアイスクリームが空になるまで、三か月選手の滝代と容赦ない地元トークを繰り広げた。
「ごちそうさまでした! とっても美味しかったです!」
「お粗末様でございました。またのご来店をお待ちしておりますね――佐雨さんとこの雪子お嬢さん。ようやっと思い出せましたわ」
「ええ。いつかまた来ます」
綺麗な皺を満面に刻んだお婆さんに見送られ料理店を後にする。
うだるような暑さを時に刻むようにジワジワと蝉の音が鳴り響く。
まだ昼を過ぎたばかりの真っ青な空。真上から凄まじい光線でスポットを当てたかのように、下界のあらゆる物の影が際立って見える。
先より一層増した日差しが落ちる気配はしばらくない。
料理店での話の流れから滝代の住む部屋にお邪魔することになった私の胸は外気の暑さなど比にならないくらい熱く滾っている。細部の毛細血管に至るまで過剰に血が巡るのを感じながら、踊る手足をびくびくと跳ねさせる。
「……ふひっ」
今にも爆発しそうになる蟀谷を抑えつつ、図らずも思い人の住居へ合法的に入り込める喜びを噛み締める。
「着いたよー。こちらが我が家です」
「へぇ――これが、あの……」
駅側の通りから外れた路地に入り、絶壁に穿たれた乗用車一台分が通れる幅のトンネルを抜けて、更に住宅地の路地を三回曲がった先に滝代のホームがある。
申し訳程度の塗装が施された剥がれかけの外壁。木造二階建ての棟から生えた所々穴の開いた鉄骨の階段を上り、踏み締めれば鴬張りよろしくギシギシと軋む廊下を通って最奥へと至る。
お世辞にも綺麗とは言えない造りのお住まい。思わず侘び寂の情緒に浸らずにはいられない。
「散らかってますが、どうぞ」
何故か腰を低くして入りたくなる外観とは対照的に内部はしっかりリフォームされていた。染み一つない清潔な壁紙に張り替えたばかりのフローリング。
浴室はタイル張りでやや昭和感が否めないが、奇跡的に割れた箇所もなく、掃除も十分に行き届いているため嫌な感じはまったくしない。
玄関から上がってすぐ横に台所があり、正面のガラス戸を引くと居間を覗くことができる。
学院外の滝代が生活する一間。外観からして女生徒たちが騒ぐような王子様像からかけ離れていただけに、もう何も驚くことはないだろうと思っていた。
作業机、椅子、布団――以上。十畳はある部屋の隅に置かれた三点が構成する物のすべて。
どこか独房を思わせる薄暗い部屋にはどんよりとした空気が漂っている。
「あ、ごめんごめん。暑かったよね」
ピッと冷房のスイッチを入れた滝代が再び台所に戻っていく。
せっかく南向きに面したベランダの窓も、東側の出窓も、きっちりと雨戸で閉め切られている。時期に限らずとも、年頃の女の子が窓にカーテンも掛けずに過ごすことなど有り得ない。よって二か所の雨戸は常習的に閉鎖されていることが窺える。
試しに床擦れ擦れに顔を近付け髪や埃が落ちていないかチェックするも、浴室同様に掃除が行き届いており、若干意図した物を一つも回収できずに悔しさが残る。
机の上には変わった形状の頭を付けたペンチが一つ置かれ、その周りに同じような円錐型の粒がジャラジャラ入った箱と赤い粉が入った小瓶がある。
「お待たせ―。何もないけどさ、適当に座ってくつろいでよ」
「机の上のそれ、なに?」
「モールドだよ、モールド。押し入れの中は見た?」
押し入れの取っ手に触れかけていたのを胡麻化すため、苦し紛れに机の上にある物に話題をすり替えると聞き慣れない名称が飛び出てきた。
勿論まだ押し入れの内部は見ていない。
「モールド? ってなんだし」
「弾頭作るやつ。イッカに返しておけばよかった」
ダントウってなんだ。箱の中にあった粒の形状を思い返せば辛うじて弾丸の先っちょを想起できるが、何せ言ってることとやってることが普通じゃない。
イッカと言うからにはそのモールドなる器具が小雀先輩の私物ということ――こいつらはどこぞで戦争でもするつもりなのか?
あの華奢なメガネの秀才が「カチコミじゃあ!」などと叫びながら事務所を襲撃するシーンが頭をよぎって意味もなく笑えてくる。
「ユキちゃんさ、ここにきた意味わかってる?」
お茶の入ったグラスを机に置き、いつまでもへらへらしている私の腰に滝代の腕が回る。
抱き寄せられたそばから鼻が触れ、目が合う。唇に仄かに甘い息が掛かっていっぺんに呼吸が止まる。
咄嗟に高鳴る鼓動と熱くなる頬を隠したくなって微動した瞬間、腰と肩に回した腕が更に身を寄せ完全に滝代と密着する。
重ねられた唇は想像していたより何倍も柔らかく心地良い。失われた味覚にさえ甘味を感じられる。ずっとこの温もりに浸っていたい。
嬉しさと居場所を見つけた安心感が溢れ返って目尻から涙が零れ落ちる。
華奢で引き締まった女の子の体。その半身に回した腕をこれでもかと力一杯に抱きしめる。
「し、シャワーとか浴びたらいいのかな」
「え、なに? もうしたくなっちゃった?」
「バッ、違うしっ! ……冗談なの?」
「まさか」
急に屈んだかと思えば、滝代は私の背と膝裏に手を添えて抱え上げた。
枕の上にそっと頭が乗せられ、繊細な指が優しく額を撫でていく。
「ちょっと待って……! 恥ずかしい、かも」
腰ベルトに手を掛けられてからようやく次に思考が追いつき、恥辱の念が頭をもたげる。
「――ふふっ。大丈夫だいじょうぶ。お毛毛がボーボーでも私は全然気にしないから」
「お毛毛って――私が気にすんの! っつかボーボーじゃねぇし――! それより先輩、なんか手慣れ過ぎてない? 色んな女の子連れ込んでたりして?」
雰囲気が一気に緩むのを実感し、少し残念な気持ちと「助かった」安堵感を覚える。
「そんな訳ないじゃん。ここにきたのはユキちゃんが初めて。こんなことするのも、ね」
「うわぁ、信じらんねぇ。いかにも女たらしが言いそうなセリフ」
さながら更衣室でダベる女生徒のように、自然と互いにまとった衣服を取り除き、再び腰を通して腕を交える。
「なんかもう気持ちいね」
「……うん。一生こうしてられるわ」
寝そべり、触れていない隙間など一点もないほどに密着して互いの温もりを交換する。
人の温もりに浸る行為がこんなにも心地良いものだとは知らなかった。触れずとも無条件で感じられたかつてのものから離れ、もう何百年も忘れていた気分になった。
「私ね、ここにくるまで――違うな、今この瞬間まで、目的以外のことなんて全部どうでもいいと思ってた」
「……うん」
「でもユキちゃんに会って、オガちゃんとかイッカとも会えて、何だか私も生きてみようかなって思えたんだ――。今日は大好きなユキちゃんとデートもできて、ちょっとエッチなこともしたりして、とっても楽しかった」
「私も、楽しかった。って、なんか変だよそれ」
まるで走馬燈でも見ながら今生の別れを告げるヒロインみたいだ。
「もっと色々したらいいじゃん。エッチなことだってまだまだドギツイこといっぱいあるでしょ」
「ドギツイことって――? うわぁユキちゃんちょーエッチじゃん! え、ナニ、ドギツイことってナぁニ、教えて!?」
「うっさいなもう! こうしてやる!」
馬乗りになって言葉責めする滝代を逆に押し倒して無理やり唇を奪う。
先のおかわりが欲し過ぎて、勢い余って歯と歯がガチッと当たった。それでもお構いなく唇を押し当て甘い唇を無我夢中で堪能する。
「ねぇ、まだする?」
「する。一生する。訳わかんないこと言えなくなるまでずっとするから」
唇の箸休めにと柔らかな乳房を選んだところ、これが想像以上に良いもので、二つにぐりぐりと顔を埋めては両腕でがっちりと滝代の半身を固める。
体勢を整えようとした滝代が「逃げる」と勘違いしたのだ。
「ユキちゃんってば甘えん坊ね。よちよち――こうやってオギャってたんだ?」
「こんなのバブの時しかできねぇわ――。でさ、先輩。連絡先教えてくんない?」
「もしかしてキープってやつ? いやらしい子!」
「茶化さないで。もしかしてスマホとか持ってない? 見たことないんだけど」
「あー……一応、持ってはいる。弟のだけど」
三か月前に出会ってから今まで、滝代がスマホやその他の電子機器を操作しているのを見たことがない。お嬢様学校に通う生徒の中には、稀にそういう筋金入りの箱入り娘も確かに存在するのかもしれない。
しかし滝代はそんな感じのタイプではない。むしろ社交的でコミュ力の鬼と言ってもいい。そんな女子高生まっしぐらな滝代がスマホの一つも持っていない訳がない、と常に連絡先交換の機会を窺っていたのだ。
「さすがに名義は変えてるんだけど、どうも使い方がいまいちでさ。なんか『もういいや』ってなっちゃった」
「なっちゃうなよ! なんなら私が教えるから!」
「ほんとに? 助かるよー。もうIDってなにって感じでさ。『頭文字D』じゃねぇのかよみたいな」
そこからかよ、と突っ込みたくなる気持ちをぐっと抑え、二人して全裸のまま滝代の弟くんが使っていたというスマホをいじくり回した。
かれこれ小一時間は最低限の操作方法について滝代に教えている内に、何故今まで使わなかったのかと思えるほどに滝代のスマホ捌きは上達した。
「でもさー、私はやっぱり昔のガラケーのがよかったかも」
「いまさら言うなし。ネットとかSNSが使えるのも案外便利だろ?」
布団でごろごろしながら呟く滝代の脇腹を人差し指で突いて同意を求める。
くすぐったそうに脇を抑えて笑う滝代の手にはすでに何もなく、飽きて放ったスマホが机のそばに転がっている。
何気なくそのスマホに手を伸ばすと、ふと画面が明るくなって何かを通知したのが分かった。
「なんだよ、しっかりアカウント持ってんじゃん。『承認欲求モンスター生成アプリ』のさ」
「うん。でもそれ弟のだからよくわかんないんだよね。通知がきたときに見てるだけ」
かく言う私もアプリの実在は知っていてもその内容ともなると未知の面が多過ぎて正直怖い。
滝代の同意を得て通知からアプリを起動させると、そこには何ともケバケバしい、良く言えば煌びやかな世界が広がっていた。
『@maho.naka03』なるユーザーは近況で友人との休暇を楽しむ様子を画像で投稿したらしい。
二人組の派手な女子が水着姿で毒々しい色のドリンクを手に持ってはしゃいでいる。
二人の内どちらが投稿者か判断し兼ねるが、絶対に関わりたくない類の人種であることだけははっきりした。
「なにこれ、知り合いなの? 弟くんって不良だったの?」
「……あ、ううん。辰也はちょー真面目。この左の子、見覚えない?」
画面に映る女子を再度眺めてみるも、やはりまったく知らない顔だった。これだけ化粧をした女子なら覚えたくなくても記憶のどこかに残りそうなものだ。
「会ったときは化粧もなにも付けてなかったしね。全裸だったし。隣のは学院外のやつ」
滝代が「嶽裡レイム」と正解を口にしてもピンとこない私に「宿泊棟の地下にいた」と補足したところでようやく話が繋がった。
一か月監禁されていた女生徒に比べて一週間ではあったものの、心身共に相当なダメージを負っていたはずだ。それが事件後十日も経たない内から学院外の友人と羽目を外すなど、正気の沙汰じゃない。
「そっかそっか。この近くの海まできてたんだね。お魚さん大丈夫かな」
「え、なにが大丈夫って?」
「あー、こいつらが変な汁出して海まで汚染しちゃったら大変だなぁと思って」
爪でコツコツと画面を叩く滝代はこれまでに見たことのない表情でブツブツと呪詛を吐き続けた。無表情だが爛々と怪しい光を帯びた目はじっと画面の二人を見下ろし、明らかな憎悪を体中から滲ませている。
「先輩の目的って――」
「こいつらを殺すことだよ。そのためにずっと準備してきたんだ」
「嶽裡レイムを……? どうして」
「んー、正確にはその隣にいる莫和マホってゴミなんだけどね。辰也を殺したゴミグループのリーダー」
虚ろな目を中空に彷徨わせる滝代が何を考えているかは分からない。なんの事情も知らない部外者の私がとやかく口を挟む余地も恐らくない。
しかし、この世界で最も大切な人が一大決心をしているのだ。止めるでもなく、むしろ後押ししてあげるのが自称彼氏の役目なんじゃないだろうか。
「私も手伝うよ。できることがあったらなんでも言って」
「ユキちゃん……ありがとう。それじゃあ一緒にこいつらをぶっ殺そうね」
首をもたげた滝代の表情が少しだけいつもの調子に戻った気がする。
寄り添う手に指を絡めると、先より冷たくなった手の平が微かに震えていた。
ふと以前、登校中にオガ先輩から「滝代のために死ねるか」と聞かれたのを思い出す。あの時は急に問われたこともあって咄嗟に答えられなかったが、今なら即答できる。
私は埜七里滝代のために死ねる。何かが滝代を阻むなら全力でそれを止めるし、必要であれば躊躇なく排除する。
滝代こそが私の居場所であり、私が愛するすべてだ。
「ところで今日はどうする? もう暗いけど、泊まってく?」
「え、いいの?」
「大歓迎! 最近変な影も見えるし、本当はユキちゃんに居てほしいって思ってたんだぁ」
「『影』ってどんなの? もしかして髪の長いやつ?」
「そう、それ! ユキちゃんも見えてたんだ!?」
このところ家にいると時折誰かの気配を感じることが多くなった。気のせいと言われればそれまでだが、それは明らかに家の中に存在し、気付けば再びどこかに消えている。
正体を掴んでやろうと何度か扉や壁の隅で待ち伏せをしてみたこともあった。しかし大抵そんなときに影は現れず、忘れかけたときを狙い澄ましたかのように突然目の端に感じられる。
驚くことに、聞いてみれば滝代も同様の影を目撃しており、すでに正体に迫るのを諦めた私と違って日頃から影について意識し過ぎているせいか神経をすり減らしているとのことだ。
「やっぱり『青女』はいたんだよ。存在を知った人のところに回ってくるんだ」
「そんな、サンタクロースじゃないんだから。でもマジで何なんだろうアレ。今のところなんも害はないけど」
「大ありだよ! もう毎日寝不足。ユキちゃん抱き枕になってぇ」
まったく先まで人を殺すとか言ってた人間が取る態度じゃねぇなと思いつつ、言下に抱き付いてくる滝代を熱く抱擁し役得を享受する。
「……すぅ……すぅ……」
物の数秒で寝息が立って、さすがに冗談だろうと思い軽く声を掛けたり揺すったりするも、まったく起きる気配がなかった。
謎の影があろうとなかろうと、眠ることのできない私にとってこれからの夜が長い。
せっかく滝代と深夜の女子トークとやらに洒落込もうともくろんでいただけに残念が過ぎる。
しかし、すでに温もりのないあの家で一人寂しく抹香を食らっているよりも、こうして思い人のそばで本物の温もりに浸っている方が遥かに有意義なのは確かだった。
「ごめんね、お母さん。おやすみ」
掛け布団をひっつかみ、安らかに眠る滝代の体と一緒の世界に入り込む。