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楽園連鎖  作者: 臂りき
10/19

9 寺院洞窟

 雲ばかりと見た日の朝はたいていカンカン照りの晴天に変わる。

 殊に夏の盛りともなればその傾向は顕著で、涼し気な空に誘われて出た日には、嫌と言うほど焼き焦がされるのがお決まりのパターンだ。

 普段なら帽子で遮れるはずの陽光も、今は苦し紛れに手を翳して顔を顰めることでしか対処できない。

 小高い山の天辺、日当たりの良い寺院にある墓地で、手に持つ柄杓ですっぽりと日の丸を囲って遊ぶ――唯一とも言えるささやかな仕返しだ。

 境内を覆うように茂った木々の間からは瑞那和の駅や商店街が一望できる。

 齷齪と先を急ぐ人々の点を遠目に見下ろしていると、不意に立っているこの場この時が切り取られ、安堵のため息が漏れる。

 虫の音や鳥がさえずる声が慎ましく聴こえる。

 時折灼熱を忘れさせるかのような涼風が木々を揺らし、眼下に広がる営みに深緑(ふかみどり)を添える。

 住宅街からちょっとした坂を上って辿り着ける寺院との往復が毎朝の日課。

「え――嘘っ」

 恐らくもう一方の坂道と見誤って崩れかけの石段を上ってきたのだろう。

 駅から程近い位置にあるこの小さな山には、必ずと言っていいほど観光者が立ち寄るスポットが存在する。しかしそこに繋がる坂道が早朝には開かれていないがために、こうして何も知らない観光者が迷い込んでしまうことが間々ある。

 墓石が並ぶ境内には私の他に誰もいない。本堂横から玉砂利を踏み鳴らし「すみません」と声を掛けられるのも時間の問題だ。

 最後に一度だけ手を合わせ、そそくさと本堂から最も離れた門戸からの逃走を図る。

 すでにもう一つの門の方から私を見ていたらしい観光者がこちらに足を向けたのが横目に分かる。

「――え、嘘」

 この際たとえ声を掛けられても強行しようと決めていた私の足がふと止まる。

 それだけその『観光者』に吸引力があったのだ。

 墓参りを日課とする抹香女を引き付けるだけの謎の吸引力が。

「えーっ! 嘘嘘嘘ぉっ!!」

「やめろ! 怖い怖い怖いっ!」

 観光者の正体が滝代だと分かった途端、向こうも初めて私だと知ったのか物凄い勢いで距離を詰めてきた。

 言うまでもないがフィジカルお化けの滝代に足で敵うはずもなく、他人の振りをする間もなく追撃を許してしまう。

「嘘嘘嘘嘘ぉっ! なにそれっ、ダメだってぇ! 可愛すぎる!!」

「うるさっ! こっち見んなし!」

 そっぽを向く私の体を後ろからひしと抱いた滝代は例の如く襟首に顔を埋めて「すぅはぁ」し始めた。

「こんな可愛いユキちゃん、誰にも見せられないよぉ」

「そっくりそのまま返すぞ先輩。他の生徒が見たら卒倒するだろうな。――っつか、いい加減離れろ暑苦しい!」

 我が意を得たりと言わんばかりに襟元で落ち着き出した滝代を、全力で体を揺すって振るい落とす。

「どうしたのその格好? どこのお嬢様なの?」

「うっさいなぁ……お母さ、親が用意したのを着てるだけだ。他意はない」

「――お母さん!」

 何かが滝代の琴線に触れたのか興奮気味のご様子。

 先から私の顔と衣服を器用に撫で回しては溜息を吐いていることから、どうやら私が着ている物が大層お気に召したらしいことだけは分かった。

 濃紺の半袖ワンピースを基調とした学院の制服に似た薄手の黒いセーラーワンピース。

 細身のリボンタイを三角スカーフに代えればほとんど制服と同様で、腰ベルトもある。

 しかし意図して制服に合わせた訳でなければ、女学院が目指すようなお嬢様を気取ったつもりも毛頭ない。

 三年前に母がまとめて用意してくれた物をそのまま着ているだけで、制服に似ているのは単なる偶然。だが、見た目や着心地がさほど変わらないお陰で普段着として着るのに抵抗がないのは事実である。

 もしかすると、当時の母は高校に上がる私が今のような物臭女になることをすでに予期していたのかもしれない。

「あぁ、こうしていつも見せないうなじを晒して私を困らせたいんだね?」

「暑いからだっつの。――変?」

「全っ然! むしろ凄くいいっ!」

 着ている服に合わせたつもりはないが、それなりに苦労して結った髪なので思いもよらぬ滝代からの評価は満更でもなかった。

「……先輩も、その、かっこいい……っす」

「ん。ありがとー」

 ハーフ丈のショートパンツに五分袖の水色ストライプシャツ。ウエストインしたシャツと足元のグルカサンダルが美麗かつ活発な滝代の良さを十分に表現できている。

「とろこで、ユキちゃんはお墓参り? お盆には早くない?」

「日課なの。これしかやることないし」

「じゃあ今からユキちゃん家行っていい?」

 何が「じゃあ」だ。私の家に用もないのに取り敢えず付き添う連れション感覚で立ち寄られては困る。

「あーっ、分かったわかった! 冗談だから、ね?」

 踵を返して無言のまま立ち去ろうとする私の前に回り込んだ滝代が慌てた様子で取り繕う。

「ご多忙な先輩にはカビ臭い女の休日なんて想像もつかないんでしょうね。夏休みなんて――」

「じゃ、お願いだからさ。夏休み中、ずっと私に付き合ってよ」

 不意に片手を握られ思わず全身が跳ねる。動きを封じられた私を切れ長の双眸で捉え、微動すれば触れるほどに接近した唇が低く囁いた。

「はい――……いや、さすがにずっとは無理だわ!」

「だよね! 取り敢えず今日一日は付き合ってよ!」

 うまい具合に騙された感は否めないが、今日に限らずあと一か月以上は暇を持て余すことが確定していたため、特に断る理由もなく満面の笑みを浮かべる滝代に同行することにした。

 今更になってふと滝代が何を思ってこの寺院を訪れたのか、今日一日何をして過ごすつもりなのかが気になり尋ねてみると、「観光がしたい」というシンプルな回答が返ってくる。

「いやぁ、引っ越してもう三か月以上経つのに『そう言えば瑞那和のこと何も知らないな』って思ってね――。エスコートしますよ、お嬢様」

「うむ。苦しゅうない」

 言下に差し出す手を私が握り返すと、滝代は至る所が崩れた石段を一歩一歩先んじて下り始める。

 その様は差し詰め幽閉された姫をお忍びで外に連れ出す一国の王子のようで、常に私の足元を気に掛ける仕草や微笑みかける表情までもが堂に入っていた。

 これからエスコートするのが「姫」なのはこの際よそに置いておく。

「では、参りますぞ姫!」

「そこは白馬にしとけ! チャリにニケツって、王子様よ」

 真新しい銀色の車体が頭上の日を照り返して眩しい。

 転入初日に乗ってきたロードバイクはどうしたのかと聞けば、その日の内に売り払ったのだと言う。そうしてできた資金で購入したのがこの銀色の通学自転車なのだそうだ。

 学院が自転車通学を許していれば滝代がロードバイクを手放すことも、私がニケツに巻き込まれる心配もなかっただろうに。

「始めに言っとくけど、私チャリ乗れないから」

「はーい。どの道、お嬢様には漕がせないよ」

 片足をペダルに掛けたまま待ち伏せる滝代にニケツの方法を教わり、道交法違反という前提付きで「横座り」を採用することにした。

 出発の合図と共に大きく揺れた拍子に滝代の腰に回した腕に力が籠る。

 自然の成り行きとは言え、密着した腕から更に伝わる温もりと引き締まった腰のラインが私の中にあった何かを決壊させた。

「すぅ……はぁ……」

「私、いい匂い?」

「うん。ちょーいい匂い。最高」

 いつの間にか半身を密着させる形で滝代に迫った私の顔面は目の前の背中に押し付けられ、思う存分匂いを吸引していた。

 桃と柑橘類を合わせたような仄かな香りに、甘い砂糖菓子をほんのり焦がしたような優しい香りが重なり合った匂いが、得も言われぬ境地へと私を誘う。

「あとで覚えとけよー。ユキちゃんのもいっぱい嗅いだげるから」

「……それはダメ」

 どさくさに紛れて腰より上の膨らみに伸ばし掛けた指を止め、本来あるべき姿勢へと戻る。

 車輪が小気味良いリズムを刻み、吹く風が火照った頬を撫でていく。

 時折私が指す方へと進む自転車は瑞那和の駅から伸びる長い連絡通路を潜り、すぐに学院行きの路線バスが回るロータリーを越して行った。

 駅から遠ざかるにつれて住宅街の色が濃くなり、片や大通りに面した空き地には重機や建設機材がぼうぼうに生えた雑草の傍らに置かれた田舎特有の風景が現れる。

 比較的車通りの多い道から逸れてしばらく行くと、私が案内できる唯一の観光スポットに至る入口看板が見えてくる。

「へぇ、改めて洞窟に入るのって初めてかも」

「だろうね。修行以外で好き好んで入る人なんてそうそういないんじゃない?」

 おまけにここは駅から少し離れていて分かり難く、少ない駐車場も有料ということもあって比較的人気が少ない。

 目も当てられないほど人がごった返すような場所に何の魅力も感じない私にとって、落ち着いておすすめできる場所と言えばやはりこの寺院洞窟しかない。

 かと言って誰かにおすすめしたことはこれまで一度もなかった訳だが。

「うわすごっ! これに蝋燭立てるの!?」

 言い出しっぺにしっかりと二人分の拝観料を支払わせてから先に進むと、木枠で補強された洞窟入口が見えてくる。

 その手前に設置された献灯台横の棚に平たい木の棒が複数置かれている。五十センチはある棒の先には杭が出ていて、同じく棚に置かれた箱から取り出した蝋燭をそこに刺す。

 ご灯明からいただいた火を絶やさず、およそ五百七十メートルある入り組んだ洞窟をぐるりと回ることがこの洞窟の趣旨。火を絶やすことなく一巡できれば、お遍路や秩父、両国の観音巡りを一気に制覇しただけのご利益が得られるというハイパーパワースポットだ。

「はしゃぐ気持ちは分からんでもないけど、洞窟内では騒ぐなよ?」

「うん、分かった。絶対に騒がないよ」

 洞窟に関するあらかたの説明を終えると、先にも増して鼻息を荒くした滝代が小さな子供みたいに体をうずうずさせていた。吹き付ける鼻息に揺れる灯火がさっそく消えそうでどうにも危なっかしい。

 その姿が記憶にある私と重なり、どこからか「いい? わかった人?」などと声が聞こえてきそうだった。

 日の光と重なってすでに消えたかのように見えた灯火も、一度洞窟に入ると鮮明に揺れ動いているのが確認できる。

 外は炎天下だというのに洞窟内は常に肌寒く、奥の方から外に向かって吹く風が心地良い。

「あっ、消えたかも」

「よく見てみ。すぐ復活するから」

 肌身に感じている以上に抜ける風は蝋燭の火を大きく揺らし、見る角度によっては消えたかのように錯覚させる。そういう時はじっと蝋燭を真っ直ぐに立てて待っていると、大抵はすぐに元の通りに頭をもたげ始めるのだ。

「本当だ……!」――火が戻ったことで気を取り直した滝代は再び意気揚々と前進を開始した。

 洞窟内には要所要所に各地の本尊や明王、羅漢が安置されており、その近くには必ずご灯明の「おかわり」が設けられている。喜び勇む滝代には申し訳ないが、そのチートの存在は伏せておくことにしよう。

 始めの灯火を絶やさない方が絶対良いに決まっている。

 洞窟は進むにつれて目線の壁が急に低くなったり、凸凹の岩に突然段差ができたりと注意が必要になる。故に壁に穿たれた穴に置かれた蝋燭や、小さく足元を照らす誘導灯を頼りに一歩一歩爪先で探るよう丁寧に進んでいく。

 壁のどこからか染み出した水をぴちゃりと踏んだ時、ふと何気なく体が止まる。

 灯火にぼんやりと揺れる壁面には壮大な曼荼羅が彫られている。

 大日如来を中心とした胎蔵界曼荼羅と、複数の領域によって知恵の世界を表した金剛界曼荼羅を合わせた両界曼荼羅。

 無数の仏と菩薩が大日如来を取り囲み、尚且つ放射状、線対称的に整然と配される様からは無限の広がりを感じずにはいられない。それ程までに圧倒される物量なのだ。

 天井、壁面の至る所に彫られた彫刻のみならず、洞窟のすべてを僧侶たちが手掘りで掘り進めたという。鎌倉時代に掘り始め江戸後期までの数百年間、お経を唱え続けながら掘った姿が今ここにある。

 精緻な曼荼羅の一彫り、洞窟の壁を穿つ一掘りからも何重にも重なる荘厳な読経が漂ってくるかのようだ。

「――タツヤ、待って!」

 壁面から我に返ると、近くにいたはずの滝代の姿はなく、どこか離れた位置から声だけが反響してくる。

 あれだけ言ったのに、と額に手を当てるのも束の間。凹凸の激しい道をできるだけ急いで進んでいる途中、赤いコーンとトラバーで境界を設けられた『立ち入り禁止』の道に一瞬だけ人影が道を照らす灯火に映った。

 一番乗りで入場した私たちを除いて洞窟内には誰もいない。どうやら入ってはいけない道に侵入するばかりか、駆け出しているらしい不届き者の正体は滝代で間違いない。

 これ以上の粗相を見逃す訳にもいかず、境界線を跨いで後を追う。

「先輩、ストップ! 止まって!」

 正規の道から漏れる光と微かに響く足音を頼りに入り組んだ禁止区域を壁伝いに何度も曲がりくねる。

 ついには手に持つ灯火以外に一切の明かりもない区域に到達する。

 壁を伝って進む限り分かることは、今いる場所がかなり広い空間であるということだけ。

「誰ッ!? ユキちゃん!?」

 ぐるぐる回ってようやく元来た道とは反対側に別れる道を見つけたとき、再び滝代の声が上がる。

 足音に加えて次第に微かな息遣いが近付くのを感じ一先ずの安堵を覚える。

「あのさ先輩。急にどっか行ったら心配するじゃん。大声も出すしさ」

 大声については自分にも心当たりがあるため咎めずにおくが、突然理解不能な行動を取った滝代には言いたいことが山ほどある。

 いくら待っても返答がないことに痺れを切らし、闇に浮かぶ気配に触れずとも実体が感じられるほど接近してから、すぐに腰の位置へと手を伸ばす。

「ねぇ――ッ!?」

 揺れ動く腕のようなものに触れた途端、言いようのない悪寒が全身を巡り、髪の先まで一気に総毛立った。

 次に気付いたときには、触れてはいけない何かに触れた私の体は元来た方と思われる壁にべったりと背を押し付け荒く呼吸をしていた。

 正体不明の影の姿はすでに消えている。

 肌に触れた感覚は明確には思い出せない。しかし触れた瞬間反射的に感じた負の印象が未だ全身にこびりついている。

 絶望的な何か、触れてしまうことで自分の中の曖昧なもの、言うなれば魂のようなものが浸食されてしまいそうな感覚。

「あっ、いたいた……! ダメじゃん、急にいなくなったら」

 自身が遭った謎の怪奇現象について呆然と考えながら歩を進めている内に、いつの間にか正規の順路に行き当たり、ずっと巡ってきたらしい滝代と合流した。

 聞けば、突然理解不能な行動を取ったのはむしろ私の方だった。

 急に何かを思い出したように走る私を止める間もなく、一つ角を曲がった時には姿を消していたという。

「あちゃー、消えちゃってたみたい」

「……あ、私のも」

 一巡して入口から差し込む光を手で遮りながら蝋燭の火を確認してみると、二つ共に消えていることが判明した。

 もう何度もここには訪れているだけに、ご灯明を絶やしたのはこれが初めてのことだった。

 棒から取り外して余った蝋に改めて火を移した滝代は、献灯台に立てられた蝋燭の中に自身のものを加えた。

「ユキちゃん、どうかしたの?」

「――ううん。なんでもない」

 私も同様に棒から蝋燭を取り外すと、まだほんのりと先端部から熱気を感じられた。

 まさかと思い献灯台の影で蝋燭を見てみれば「消えた」のは勘違いで、未だに弱い火の粉が先端に燻り続けているのが分かった。

 若干落ち込み気味の滝代に気付かれないように慣れた手つきで蝋燭を仰ぎ、再び立ったご灯明を滝代が立てた蝋燭の隣に置く。



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