プロローグ
ブリキの象が回る。
壊れた車輪を軸にして、グルグルぐるぐると日の差す同じ窓の下を回る。
背の低い椅子、本棚、玩具箱、白髪の男。それらが部屋にある物すべて。
閉じられた部屋は暖かく、眠気を誘う陽光は取っ手のないガラスの向こうからやってくる。
口端から漏れ出た涎を床や伸ばし放題の髭に滴らせる男。
玩具の動きに夢中になった男はすでに部屋にいる意味を忘れている。象の牙が失われた理由さえ知らずにいる。
止まり掛けた象に手を伸ばす男はふと足音が近付くのを聞いた。
次第に近付く音に男は訳も分からず慄き、逃れようもない部屋の隅へと自身を追いやる。
「ンンーッ! アッ、アッ!」
生存本能からくる卑しくも悲痛な叫びは部屋に反響することなく虚空へと消えて行く。
ガリガリと壁に爪を立てようと、張り付いた喉でいくら唸ろうとも、足音が止むことはない。
男が赦される日は永遠に来ない。
*
約束された平穏の最中にも浮き沈みはあるものだ。
取り分け朝のセンター内は一日の中で最も浮足立つ。
何事もなく過ぎて行く日中との落差は瞭然で、それを恐れた私は逃げるように外来向けの相談室の片隅へと落ち着く。
こうして滅多なことがない限り開院時間まではのんびりと外を眺めながら過ごすことができる。
引っ切り無しにパタパタ動く音を遠くに感じながら、共用スペースで手に入れた程よい薄さのカップコーヒーを口に含みゆったりと背もたれに背を預ける至福の時間。
しかし、無縁と思えた外界の足音がふと扉の前で立ち止まる。
「手広先生、やはりこちらでしたか」
ノックも半ばに開いた扉から看護事務の女性が安堵の声と共に眉を寄せた顔をこちらに覗かせた。
「おはようございます。予定は入ってなかったはずですが?」
「ええ、存じております。こちらにも準備がありますので、改めて来院くださるようご説明はいたしました」
女性の渋い表情と言い、歯切れの悪さと言い、直感的に面倒なことになる予感がした。
「クライアントですか? それともご関係の方?」
「三階病棟の六相さんに面会希望の方です」
女性の口から出てきた予想外の名前に思わず全身が反応してしまう。
二十年以上前の措置入院から現在に至るまで入院を余儀なくされる彼を未だに訪ねる者には二種類いる。
一つは彼が引き起こした事件を聞きつけてやってくる迷惑系配信者、もう一つは記事のネタに困った凡庸なライターたちだ。
とは言え、私自身彼とは数回会った程度で、このセンターに配属されてから二年程の経過しか知らない。
当然この精神医療センターも彼らの迷惑行為を防ぐため、受付の時点で門前払いをするよう教育されている。執拗な嫌がらせには警備員による警戒措置も取られている。
それでも看護事務の彼女が喧騒を嫌う私の元まで押し掛けて来るのには相応の理由があるということだ。
当院の面会可能時間は午前十時からだ、などと悠長なことを言っている場合ではなくなった。
「あちらの方です」
総合受付の影から案内された場所に目を移すと、事態は更に難航を示した。
十分な間隔を取った解放感のあるエントランスの椅子には、およそセンターとはまったく無縁そうに見える女子高生が座している。
ダークブラウンの波がかった髪、ナチュラルメイクで一層瑞々しい端正な顔立ち。
鼻筋の通った顔を真っ直ぐスマホに向ける姿はこんな場所よりもお洒落なカフェのが似合う。
ましてや、すでに六十を過ぎた天涯孤独の元被告人を訪ねることなど有り得ない。
おまけに夏仕様で半袖濃紺のセーラーワンピース。白ラインの襟に白のタイ、黒の腰ベルト。
あれは間違いなく近隣の女学院に通う生徒だ。
面白半分に来院するにはあまりにも不向きな格好と言える。
「おはようございます。私はこのセンターでカウンセラーをしている手広といいます」
「――あ」
ゆっくりとした動作でソファに近付き、彼女が自然と視線を向けられる余裕を作った上で自己紹介をする。
女の子は「あ」と口を開いたかと思うと、勢いよく立ち上がり一気に私との距離を詰め、まじまじとこちらの観察を始めた。
「先生、ちょーイケメンじゃん! やったぁ!」
なにが「やった」のかは不明だが、彼女のお気に召したようで何よりだ。
しかしこの子は外見もさることながら、お嬢様学校で知られている女学院の生徒にあるまじき態度を取っている。
私の手を取りはしゃぐ様子は素直に微笑ましいが、初対面の大人に対する礼儀がまるでなっていない。SNSを行動原理とする今の若者特有の言動なのかは知らないが、距離の詰め方が異常だ。
「瑞那和女学院って髪色とか厳しいですよね?」
「厳しいですよぉ? でも外出るときくらいオシャレしたいです」
「今日学校ですよね。その髪で大丈夫ですか?」
聞けば諸事情により「学校はしばらく休む」ことにしているらしい。
だから大丈夫。
少し短絡的すぎるのではなかろうか。
遠目で確認したときは何でもなかったが、この時になって少々彼女に違和感を覚え始める。
「先生って彼女とかいるんですかぁ?」
「いません。でも好きな人ならいます」
「えー、気になるぅ! 私にもワンチャンありますかぁ?」
無いに決まっているだろう。
それより妙に馴れ馴れしくボディタッチを試みる頻度が増えている気がする。その仕草も、親しみを込めた好意の表れならいくらか許せるが、彼女のそれには何かが欠けている。
「ところで、あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
「あ、莫和マホでーす。今から先生の彼女になりまーっす!」
一瞬だけ、莫和と名乗った彼女の体が硬直した。こちらに触れようとする手がぴくりと止まり、違和感の正体が判明した。
何もかもが付け焼刃なのだ。
「先ずはあちらで受付を済ませてください。その後、相談室でいくつか質問をさせてもらいます」
これ以上彼女がヒートアップすることを避け、一旦別の場所へ意識を向けさせるとする。
仮に彼女の言っていることがすべて嘘であったとしても、彼女が何らかの課題を抱えていることは明らかだ。
ここで突き放してしまえば今後長く続くであろう彼女の人生を狂わせてしまう可能性すらある。医者としてそんな不名誉なことはない。
受付に着いた看護事務の女性に目配せし、相談室まで案内するようお願いする。
「失礼しまーす」
部屋の物を整えていると、エントランスで別れてから五分もしない内に再び女子高生の声を聞く。看護事務の女性は一つ頷くと記載済みの書類を一枚残して去って行った。
「どうぞお好きなところに座ってください」
「はーい」
相談室内の外来用の椅子は三脚用意されている。
デスクを境界線にして部屋の中央寄りに二脚、更に庭が眺められる側面の窓際に一脚置かれている。今はブラインドとパーテンションによって窓外とは遮断されており、普段は私の休憩用となる残りの一脚は予備として機能している。
本来ならば初対面のクライアントの緊張を緩和するためデスクの横に出て応対するのが普通だろうが、素性の知れない訪問者を相手にするのに万一に備える場面も間々ある。
微笑を浮かべ、幅の広いデスク越しに正面から彼女を迎える。今回は直感的にもそうするべき場面だと思えた。
彼女は窓際の重い椅子の脚を転がし、迷いなくデスクの前に座った。
「もう一度、本名を教えていただいてもいいですか?」
「えー、先生私のことちょー好きじゃん。莫和って」
「冗談とかではなく、本当の名前が知りたいんです。莫和マホさんって、あなたの名前じゃないですよね?」
丸椅子から浮いた足がパタパタするのをやめた。
ぎこちない笑みがなくなり、真顔になった彼女は視線を天井に流し、徐にこちらに向き直り口を開いた。
「嶽裡レイム」
事も無げに言い放つ彼女を前に思わず背筋に冷たいものが走った。
表情から先の無邪気さは消え、気怠さを全開にした仕草で体を傾ける。
顔や体、服などのパーツはすべて同じなのに、まるで別人であるかのような印象を受ける。
投げやりな口調は先よりもどこか危なげな雰囲気を感じさせる。
「それも、あなたの名前ではありません」
「はぁ?」
彼女を目にする以前に感じた予感は図らずも的中した。
何故なら、彼女が口にした二名はすでにこの世を去っているからだ。それも十年も前に。
「私の名前じゃないってどういう意味ですかぁ? 喧嘩売ってるんですかぁ?」
「いいえ。そのままの意味です。あなたは十年前の事件から何らかの影響を受けて、彼女たちの名前を騙っている。違いますか?」
もしも彼女が名乗った名前に共通点が無かったとしたら、どちらかが本名であっても何ら不思議ではない。十年前の事件を表層に浮かべる余地もなかったのだ。
六相、女学院、莫和マホ、嶽裡レイム。
それらに関連する場所こそ、目の前の少女が身にまとう制服の出所『瑞那和女学院』なのだ。
「――お前さぁ、女だろ?」
「え?」
誰だ、この低い声を発する女は。
唐突に発せられた少女の声に一瞬だけ思考が停止し、思わず間抜けな声が漏れ出てしまった。
「なんで男の振りなんてしてんだよ? なぁ?」
「確かに、私は女です。ですが意図して『男らしく』しているわけでは――」
少女が勢いよく立ち上がり、重い椅子がガタリと倒れかかった。
無表情のままじっと私を見据える少女は不意にデスクから乗り出し、私に向けて腕を伸ばしてくる。
届くはずもない距離感なのに、恐怖のあまり一歩引いた私の手は無意識に胸を庇っていた。
「俺の名前が知りたいんだろ? だったらお前が先に名乗るのが筋だろぉが」
「そうですね。私の名前は手広渚です。あなたの本当の名前を教えてください」
時世ということもあり、今はどの接客業でもカスハラ対策のため名札にフルネームの記載はされていない。当センターも例に漏れず家名をひらがな表記のみにとどめられている。
そのため風変わりな訪問者からフルネームを尋ねられることは時折ある。
尋ねられれば当然答えてきたが、今ほど警戒心と恐怖を綯交ぜにした感覚を覚えたことはない。
――へけへけへけへけへけへけ……
どこからともなく漏れ出た音が部屋中を満たす。
音は少女から発せられ、激しく振り乱された髪は私の前で踊り、爛々と見開かれた目がまっすぐにこちらを見据えている。
「手広と交尾したのかぁ?」
開かれた口角からは涎が流れ出し、エントランスで見た女子高生の姿は見る影もない。
「髪も短くなっちゃってさぁあ? 名前も変わっちゃってるからぁあ? ただのイケメンかと思っちゃってぇー?」
口調は明らかに始めのものに戻っている。しかし脱力した両腕を前に垂らし、前屈みになった体を小刻みに揺らす姿は最早人ではなかった。
人の言葉を発する未曽有のバケモノ――
「おぉい、鵠召ぁ!! なんとか言ったらどーなんだよぉ!!」
「ひっ!」
少女だったナニかは腰から取り出した何かを振り回し、その勢いのままデスクをよじ登ってくる。
咄嗟に両腕で頭を庇いながらデスク後方の扉に飛び付き、部屋外に出たそばから無我夢中で扉の鍵を閉めた。
騒ぎを聞き駆け付けた誰かがすぐに反対側の入口を施錠し、どうにか事なきを得た。
「開けろやぁっ、くそぉ! ぶっ殺してやる!」
力任せに扉や壁を殴る蹴るしているのか、防音された部屋の外にまでガタガタと音が漏れ出ている。
扉を前にして向かいの壁を背にしたまま崩れ落ちた私は、激しい動悸と未だに震える全身を両腕で抱え込む。
がちがちと鳴る歯を噛み締め、流れ落ちる涙を拭う余裕もなく、じっと揺れ動く扉を見詰めることしかできなかった。
「六相享貭を出せぇっ!! おぉい、鵠召ぁ!!」
部屋の窓や壁、扉の強度は保証されている。窓に開閉機能はなく、扉も外側から鍵を使用しない限り開くことはない。
しかし止め処なく押し寄せる恐怖が止むことはなく、むしろ少女との接触によって呼び覚まされた過去の記憶は次第に鮮明となり、体の奥底に眠った一連の恐怖が「今この時」に遭ったかのように感じられる。
「先生、ご無事ですか?」
「――ッ! え、ええ、何ともありません」
駆け付けてくれた看護事務の女性がそばに来たことにも気付かずに、思わず肩に添えられた手を振り払いそうになった。
がくがくと笑う膝を立て直し得意な笑顔を張り付け、心配そうに覗き込む女性の助けを断る。
――すぐに彼の安否を確認せねば。
何やら言葉を掛けてくる女性を背に、衝き動かされるように私の足は三階に続く階段へと向かっていた。