信じていたのだ、その瞬間まで。『運命の番』よりも『信頼関係』があると
その竜人族の老人は寝台の上で小さくなってウトウトとしていたが、新入りの召使いが扉を叩く音で目を覚ました。
「旦那様、ケレイル家のご令嬢がお見舞いに来ております」
「……」音にもならぬ嗄れた声が喉から出た。老人は枕元の水差しに手を伸ばして、どうにか喉を潤すと、「お通ししてくれ」
途絶えそうなほどに、か細い声を絞り出した。
「将軍、お加減はいかがでしょうか」
ケレイル家の次女ユリエッタは、心配そうに口にしながら、持参した甘い果物の皮を剥き始めた。側には年かさのメイドが二人控えている。
「御覧の通り、長くは持たないでしょう。ですがユリエッタ嬢に見舞っていただけて、本当に嬉しくなりましたよ」
「あの……姉はどうしているのでしょうか?」
「マリエッタはこんな私のために薬を探してくれているのです。今日も……」
「医者は、何と言っているのですか」
「『抑制剤』の副作用だろう、と」
それを聞いたユリエッタの手が止まった。彼女は悲しそうに微笑んで、将軍と呼ぶ老人を見つめる。
「……将軍は離婚した事がおありでしたわね。最初の奥方様は、駆け落ちを……」
「今の妻に、あんな惨めな思いはさせる訳には行きませんから」
「ふふ、姉も愛されていますわね」
ユリエッタは剥いた果肉を小さなフォークに刺して、将軍の口元に差し出した。礼を述べて将軍はそれを口にした――が、何の弾みか、むせ返る。赤い飛沫が舞った。
「しっかり!」
急いでユリエッタは将軍の背中をさすり、口元にハンカチを当てた。メイド達も走り寄って、やせ衰えた将軍の体を支える。
「す、すまな――ゲボッ!!!」
苦しそうに咳き込んでいた老将軍だったが、大きな血の塊を吐くと、ドサリと寝台に倒れ込んだ。
「……ああっ」
「旦那様……」
メイド二人が暗い顔で血の付いたリネンを替えている中、顔面蒼白のユリエッタは思わず老将軍の手を握りしめていた。
「……将軍、ごめんなさい……!」
その瞬間だった。
もはや意識朦朧の死に体となっていた老将軍の目がカッと見開かれた。この痩せた体の何処にあったのかと思われる凄まじい力で飛び起きた。爛々と獣の様に輝く瞳がユリエッタを捉えた。何が起きたのか理解できず、唖然としているユリエッタの手を両手で握りしめる。
「違う……違う!こんなはずはない!!!どうしてだ!?!!??」
マリエッタは貴族の若い夫人である。人間族の彼女は『運命の番』が大嫌いであった。何故なら、彼女の父親はそれと出会ったがために彼女の母親と離婚して、妖艶なだけの獣人の後添えを貰った挙げ句、すぐに妹弟まで二人も作ったのだから。
純粋な人族である彼女は『運命の番』と呼べる相手を持たないが、獣人族――とりわけ竜人族にとっては何よりも重大な存在であり、一度出会ってしまったがために人生を破滅させるような行動も平然と取ってしまう、と言うのは世間でも有名な話であった。
しかし不幸にも彼女は貴族であったので、政略結婚で年老いた竜人の将軍ハドリーの所に嫁がねばならなくなった。彼女は夫も大嫌いであった。年老いている事も無論だが、忌み嫌っている獣人族、それも竜人であったから。
竜人は長い寿命と強靱な肉体、優れた頭脳を持つ。一般に帝国では皇統とそれに近しい間柄の者のみが竜人である。貴族の中でも更に上に位置する特権種族なのだ。
もっとも、マリエッタにとっては彼らも『運命の番を言い訳に平然と不義を働く連中』だった。
彼女は考えた。一刻も早く夫と別れる方法を考えた。
幸いにも、老将軍は若い妻を心から愛していて、年老いた己と政略結婚した事を気の毒がり、離婚以外はできうる限り彼女の自由にさせていた。彼女が甘えれば幾らでも金を出して宝石も、ドレスも化粧品も買ったし、マリエッタが遊びに行きたいと言えばすぐ小遣いを渡して、「楽しんでおいで」と快く送り出す。
「こんな老いぼれに嫁いでくれて本当にありがとう。せめて衣食住の不自由はさせないから」
そう微笑みながら、老将軍は眠る前に必ず粉薬を飲むのだ。とても不味そうに苦そうにして。
これだ、とマリエッタは思った。
「旦那様、それは何の薬なのですか」
「ああ、これは持病の薬だ。竜人族によくある病で……」
「治らない……のですか」
「生きている限りは、飲まねばならない。だが心配要らないよ、これを飲んでいれば酷い発作を抑えられる。大事なお前に惨めで悲しい思いをさせる訳には行かないからね」
「旦那様……」
マリエッタは妙案を思いついた。
「ねえ旦那様、オブラートと言うものをご存じですか?」
「いや、知らない。それは何だい?」
優しくマリエッタの髪を撫でながら、ハドリーは訊ねる。
「ほら、私の父が薬問屋を商っているでしょう。そこで新しく取り扱う事になった、体に毒の無い素材で作られている、飲みにくい薬を快適に飲むための『薄い膜』なのです。胃の中で溶けてしまう成分で作られていますから、粉薬を膜で包んで飲めば、飲みにくさだけが解決すると聞きました」
嘘は言っていない。どうして今になって提案したかの動機も言っていないが。
「ほう」
「私、明日にでも実家に行って分けて貰いますわ」
「良いのかい、助かる」
「勿論ですわ。そうと決まれば今夜は早く寝なくては。旦那様、お休みなさいませ」
「ああ、お休みマリエッタ。本当にありがとう……」
嬉しそうなハドリーの声に、内心で忌々しく思いながらマリエッタは目を閉じた。
マリエッタが実家に帰って執事に訳を話し、オブラートのあるという倉庫に着いた途端。
「お嬢様、いや、もう夫人か。どうだい、旦那様と上手く行っているかい?」
美貌の男がヒョイと薬倉庫の奥から顔を出した。
「アレン、その質問をしたからには、夫婦関係が上手く行っていないと薄々知っているのでしょう?」
まあね、と愛想良く軽薄に言いながら、マリエッタの心から愛する男アレンはマリエッタに堂々と接吻をした。
「で、どうなんだい?」
「ねえ、竜人に効く毒って無いかしら。白い粉薬だと助かるわ」
「ここの薬倉庫群には何だってあるさ。で、どうやって飲ませるんだい?」
「彼奴、持病の薬を飲んでいるのよ。私がオブラートで包むからって言い訳して、混ぜようと思って」
「良いねえ、マリエッタはそうで無くちゃ。その後で俺と?」
「莫大な遺産を受け継いで実家に戻った後、慰めてくれた相手と結ばれる……。どう?」
「なるほど、それなら貧乏貴族の俺にもチャンスはある」
「でも毒って管理がかなり厳しいでしょう。どうやって盗むの?」
「お嬢様、騒ぎを起こせるかい?いつものように。後は上手くやってみせるから」
「分かったわ」
マリエッタは頷くと、薬倉庫群の敷地から少し離れた建物の部屋にいた、若いメイドに話しかけた。
「貴方、何を隠しているのかしら?」
「えっ!?ま、マリエッタ様!?」
何かを隠していない人間はいない。動揺したメイドに彼女は詰め寄る。
「今薬倉庫に行ったら、アレンがいたわ。毒薬の残りが合わないと慌てていたのよ」
「違いますマリエッタ様!私は毒薬なんて盗んでいません!」
メイドは少しだけ──そう、ほんの少し美容に効くという薬草を拝借した事があるだけだった。しかもそれは三年前の事で、今では管理がより厳しくなって、盗むなどとても出来なくなってしまったのだ。
「誰か!誰か来て頂戴!盗人がいるわ!」
マリエッタが大声を出すと警備の者が押し寄せてきた。
「どうしたのですか!?」
「よりにもよって毒薬を盗んだのよ、この女は!」
「違います!」
「何だと!?」
すぐさまメイドは連行された。入れ替わりにアレンがやって来て、
「上手くやったな、もう一つ上手くやれよ」
そう囁いて、彼女の手に白い粉薬の詰まった小瓶を握らせたのだ。
「どのくらい?」
「耳かき一匙、毎日だ。半年は持たないぜ」
マリエッタはアレンと微笑み交わす。
「上手くやるわ」
「信じているぜ」
ハドリーは愛していた。妻のマリエッタを心から愛していた。しかしマリエッタは若い人間族の女であるから、年老いた己を真心から愛する事は出来ないだろうと悟っていた。ならばせめて信頼関係を築こう、と彼は努めた。
そうして、相手を尊重して信頼し合う関係を築き、維持して、守り続ける事には成功したと思っていた。
だって、昼間こそ遊び歩いている妻だが、必ず彼が寝る前には帰ってきて、「早く良くなって下さいね」と目に涙を浮かべて言いながら薬を飲ませてくれるのだから。
むしろ昼間くらい、彼はマリエッタを自由にさせてやりたかった。
『抑制剤』が体に合わないらしく、彼の体は時を追うごとに衰弱していく。若い身空で老人の看病なんて苦痛でしか無いだろう。運命の番であるならばともかく……。
ハドリーの運命の番はマリエッタでは無い。
マリエッタの腹違いの妹ユリエッタである。
マリエッタの実家で見合いをしたその瞬間に、ハドリーはそれを察知してしまった。ユリエッタも恐らく気付いたのだろう。明らかに彼を見る目の色が違っていた。
だが彼は、最初に結婚した妻が運命の番と駆け落ちした事があってから、運命の番を言い訳に相手を蔑ろにする事を何よりも恐れていた。
だから、彼はためらわずに『抑制剤』をあおった。それから毎日、規定の量を飲み続けた。
もし少しでも飲まずに、ユリエッタの手に触れてしまえば、彼の竜人の本能が燃え上がり、歯止めが効かなくなってしまう。『抑制剤』を毎日摂取しない事は、マリエッタとの信頼関係の否定であり、拒絶であるのだ。
ユリエッタやその両親にもハドリーは説明した。竜人のみに処方される強力な『抑制剤』を飲んでいる事。生きている限り苦く不味いこの薬を飲み続けねばならない事。マリエッタを愛しているから。たとえ愛されていなくとも、信頼があるから。この薬さえ飲んでいればユリエッタに触れようとも何も感じないでいられる。ただの可愛い義理の妹として扱える。それは竜人の本能の拒絶ではあるが、人の信頼と愛の勝利なのだ。
──実際、この瞬間にユリエッタの手に触れるまで、ハドリーはそう信じていた。
マリエッタが夜になって帰ってきた時、館はいつになく物々しい雰囲気で憲兵隊が詰め寄せていた。
「何があったの!?」
もしかすればやっとハドリーが死んだのかしら、と湧き上がる内心を抑えてマリエッタは彼らに訊ねた。
「将軍夫人ですね、お入り下さい」
客間に通されると、そこには──。
マリエッタは咄嗟に逃げようとしたが、背後にいた女憲兵達に拘束されてそのまま連れ込まれる。
「アレン・ゴーフとマリエッタ・ケレイルだな」
美貌も何ももうあったものでは無い。顔を腫らしたアレンが手枷足枷をされて床に転がっていた。更にケレイル家一同、ハドリーが揃っていた。更にハドリーとは険悪な仲で有名な憲兵総長のダグラスまでいる。
「貴様らにはハドリーを共に毒殺しようとした容疑が掛かっている。反論はあるか?」
「ち、ちがっ」
咄嗟に言ったアレンの体が蹴られて転がった。あれほど衰弱していたハドリーは別人のようだった。三〇年は若返ったのではと思われるほど精悍な顔をして、アレンの体を踏みつける。
「まだ言うのか」
「本当に、俺じゃ」
「おい、手を解放しろ」
憲兵隊が手かせを外すと、ハドリーはアレンの手を一つずつ踏みつぶした。
聞くに堪えない絶叫に、マリエッタは耐えきれず失禁した。
「だっ、だ、旦那様」
「ああ、マリエッタ」 ハドリーは穏やかに微笑みながら近づいて、マリエッタの顔をしげしげと眺めた。「お前が私の事を愛していないのは知っていたよ。だが信頼関係はあると思っていた。でも毒を盛る位に私が憎かったとは知らなかった……」
「違う、違う、違う」
そこでダグラスが言った。
「新入りの召使いが証言した。賄賂を渡されて『病に良く効く薬』を混ぜたとな」
「違う、違う、だって、もうすぐ、」
はははは、と悲しそうにハドリーは笑った。
「もしかしてマリエッタ……お前は知らないのか?あの薬は『抑制剤』だ。私の竜人としての『運命の番』を求める本能を抑制する効果がある。私にとってこの本能は宿痾と同じだ。お前のために長らく『抑制剤』を飲んでいたのに、どうしてユリエッタを『運命の番』として認識してしまったんだ?」
「それは、それはユリエッタが略奪しようとしたから……そうよ、此奴らは獣人族だもの!ユリエッタの仕業よ!私は何も悪くない!」
ケレイル家当主のマリエッタ達の父親が頽れた。
「どうして……お前まで、『運命の番』と不義を働いたお前の母親と同じ事を言うのだ!」
「貴方……!」
慌てて後妻が支えるが、おいおいと男泣きに父親は泣いている。
「何が『運命の番』だ!不倫不義を働くための言い訳じゃないか!だから私は苦労して『抑制剤』を作り上げたのに!どうして私の娘が、また不倫不義を……!!母親の血なのか……?」
ダグラスが冷静に告げる。
「ともかく。私はこのまま二人を連行して秘密裏に処刑する。両陛下及び皇太子殿下が大変ご立腹されていらっしゃる故、助命嘆願は受け付けられない。宜しいか?」
「何で!?嫌よ、冗談じゃないわ!」
暴れるマリエッタはすぐさま拘束されて声も出せなくなる。
「……はい」と父親は首を垂れて、いっそう激しく泣いた。
「馬鹿だ」 ハドリーは小さな声で、悲しそうに言った。「私を殺すつもりで毒を盛ったから、逆にこんな事になってしまったのだ……」
「ハドリー、それでどうなったんだ」
皇太子の武術指南として復帰した時、早々に皇太子ノランはハドリーに訊ねた。
「ダグラスから聞いておいででは無いのですか」
「彼奴から聞いても面白くない。あんな澄まし面して……家では嫁と娘の下僕の癖に!」
「ダグラスも殿下も奇跡なのです」 何処か悲しそうにハドリー将軍は言った。「『運命の番』と何の障害も無く結ばれるという事は、真実、奇跡でしか無いのです」
「……断られたのか」
思わず皇太子は目を伏せた。
「いいえ。『私なんかで良ければ』と。だから、『貴方で無ければ』と頼みました」
「上手く行っているじゃあないか、なんだ!」
ハドリーは悲しそうに首を振った。
「『運命の番』は命を分かち合う。同じ寿命を生きて、魂で求め合う。竜人族の本能が選び抜いた伴侶。
でもね殿下、私はそういう燃え上がる本能ではなくて、少しずつ信用を積み重ねて互いを尊重する事や、愛情を注ぐ事で育てていた信頼という小さな芽が何より愛おしかったのですよ……」
抑制剤に毒を混ぜさえしなければ、永遠に妹は運命の番として認知されなかった。
殺意が気付かれる事もおろか、己の母親が不倫して逃げていた事も知らずに済んだ。
父親の愛情だけで隠されていたその事実も知らずにいられたし、夫の財産で贅沢に暮らせた。
もし不倫した事が夫に露呈しても『私は年老いているから仕方の無い事だ』と。
気に入らない妹弟や後妻に辛く当たっても『きっと本当は寂しいのだろうから』と。
周りの善意と優しさの中で温々と生きていた事に死ぬまで気付かなかったのは、彼女達の最大のやらかしなんだろうなーと思いました。