異世界拳法 ~齢百と八を生きた拳法家、エルフ族の村を救う~
物語の序章のような感覚で読んでいただければ幸いです。
一人の老人が、巨大な仏像の前で座禅を組んで座っていた。生きているのか、死んでいるのか、一目見ただけでは分からない。ただ彫りの深いしわが幾重にも重なったその顔を見た者は、誰であろうとただ者ではないと一目で理解できるだろう。
「…………」
飛龍と呼ばれたその男は、その生涯全てを武術に捧げた。ただひたすらに男として、雄としての本能、「強くなりたい」その一心で鍛錬を続けてきた。それは幼いときから今まさに死が身近に迫る身になったとしても、その心に揺らぎはない――筈だった。
「師範」
「…………」
「……飛龍師匠!」
「ん? おお、誰かと思えば静か」
背後からかけられる弟子のハッキリとした声に、飛龍はまるで孫を前にとぼけるような、ひょうひょうとした声色で返事をする。
しかしながら飛龍は独り身、彼に家族など存在しなかった。血の繋がったものなどおらず、仮に家族と呼ぶとするならば、今や百をも超える門下生くらいだろう。そしてその中でも一番弟子である静は、飛龍にとってまさに息子とも呼べる存在であった。
「師匠、そろそろ食事の時間になります」
「おお、そうかそうか……」
その差五十の年齢を超えていながら、弟子の静は師である飛龍に敵う気がしなかった。実際は戦ってみなければ分からないにしても、静にはどうしても飛龍に勝てない、そう感じさせるまでの目に見えぬ差があると、今この瞬間も実感していた。
「……静よ」
「はっ!」
しかしこのとき飛龍は、食事よりもより身近に、あるものを感じ取っていた。
「わしは……もうじき死ぬ」
「ッ!? 何を言っているのですか師匠!!」
肉体としての終焉を意味する、死。当然ながら、飛龍自身は自ら死に向かう気など毛頭あるはずもない。しかし彼の肉体が、心臓の鼓動の遅れが確かにそれを伝えている。
「何をもなにも、道理に従うだけのこと。百と八年を共に生きたこの身体、幕引きがいつなのか分からないわけではないからのぅ」
「だっ、第一どうするのです!? 貴方がいなければ、この地で教えを説くものがいなければ――」
「わしの武術なら、とっくにお前が受け継いでおる。なぁに心配するな。お前がやってきたことを、お前なりに伝え広めていけば良い」
まるで今にも消え入りそうな声で、飛龍は淡々と別れを告げる。
「そ、そんな! 私では師匠のようには――」
「確かにお前とわしとでは違う。決して同じではない。だが、だからこそこれからは、お前が継いで更に広げていくんじゃ」
既に飛龍のまぶたは閉じられ、眠りこけるように声は小さくなっていく。
「お前の手で拳を、更に極めるのじゃ――」
――ただ強さだけしか求めなかった、わしの拳を超えてゆけ――
◆ ◆ ◆
「――おお、これが菩薩の光というものか……」
まぶたを閉じ、再び開く。すると飛龍の視界には真っ白な、純粋な光に満ちた世界が広がっていた。
「くっくっく、てっきり地獄行きかと思っていたが、違ったか?」
飛龍は一人笑っていた。一番弟子である静ですら知らない、飛龍だけが知っている己の秘密。
「かつては多くの腕自慢を相手に死合をしてきたわしだからこそ、地獄こそがふさわしいと思っていたが――」
「惜しい男だ……」
「ん?」
気配も何もなかった。顔を上げるとそこには筋骨隆々の巨大な人影。後光が差しているせいかハッキリと顔を見ることは出来ないが、飛龍にはそれが誰なのか、一発で理解できた。
誰に聞かずとも分かる、武の神、“武神”の姿がそこにあった。
「貴様の百年に至る武の極みが、あのようなもの悲しい場所で朽ちるとは。実に惜しい、惜し過ぎる……」
「はっはっは、そんなに惜しまれるような生き方をしてきたつもりはないが」
「武の狂気に一時は飲まれることあれど、百という年月を重ね、拳を、武術を極めた者。武を知る者は多くいれど、これを惜しまぬ者など一人もおるまい」
八歳にして武を知り、武を学び、その後百年間、武と共に生き続けた男。そんな男を武神が賞賛しないわけがない。
だが飛龍は、自分が積み上げてきたものは不完全だと神に告げる。
「わしが武を極めた……? 否、本当に極める可能性があるのは静の方じゃろうて」
「何?」
「あやつにはわしには無いものを持っておる。」
「ほう……?」
神を前にして意見をする飛龍。しかし己が認めた男の言葉、武神もまた頭から否定するわけにもいかない。
「それはなんだ? 貴様になくて、あの若輩がもつものとは一体何だ?」
「答えは簡単じゃ……わしは孤独じゃが、静には守る者がいる」
「ほう……? まさか貴様の口からそのような論題が出るとは思わなかった」
それはひたすらに孤高を貫き、強きを求めてきた者の口から出てくる筈の無い言葉。
「護る、か……フッ、貴様とあろう者が、そのような浅い考えで――」
「違う違う。そんな深い考えなんてないない。ただ一人でここまで歩いてきた武の道だったが……一人よりも二人、誰かが隣にいたなら……もう少し“先”に行けるのでは、と思っただけじゃ」
「…………」
けらけらと笑う飛龍だったが、武神は黙し続けていた。
「まっ、後もう一回人生があったとするなら、そんなことを考えるまでもなく、静を超えて、今度こそわしが武を極めたと胸を張っていえるじゃろうけどな!」
「……その言葉に、嘘はないな?」
「はっはっは! ……は?」
飛龍としては冗談半分のつもりの言葉だった。冗談半分というのは、今のままであれば静の方が人の心を知り、護ることの強さ、共に歩む力強さを知っているという意味で強いという飛龍の本音も混じっていたからだ。
しかし神に冗談など通用しない。全てがまことの言葉として受け止められることになる。
「いいだろう。貴様にもうもう一度生きるチャンスをやろう」
「は? いや、わし死んでるし無理じゃろ? だいたいこういう状況の時点で、わしの身体はとうに死んでいることくらい察するじゃろうし――」
「あの身体にではない。貴様には異なる世界に転生してもらう」
「転生? はて、輪廻転生のことかのぅ?」
「そこにて我は改めて見定めさせて貰う。貴様のいう真の武というものがどのようなものなのかを」
武神の言葉にもまた、嘘偽りはなかった。そして飛龍もそれを感じ取っていた。
「なるほど、つまり?」
「貴様に我が持つ権限を持って、今一度の命を与えよう。そして我に示して見せよ! 貴様の思い描く究極の武を!!」
「……はっはっはっは! 若い頃から色々と災いをなしてきたこの軽口も叩いてみるものじゃな」
もう一度生きることができる。もう一度武に生きることができる。たとえそれがたった一夜の幻だったとしても、飛龍にとっては最高のものに変わりはない。
「して、最後に一つだけ問おう。貴様の弟子、静も口にしたことがある問いだ」
「ん? 何じゃ?」
既に武神の力によって、飛龍の身体は霧散し始め、異世界へと飛ばされようとしている。しかしその間際の問いに、飛龍は反応する。
「何故貴様は神の拳――“龍神拳”ではなく、あくまで王の拳、“竜王拳”という拳法を名乗っているのだ」
「……ははっ、そりゃ簡単な話じゃ」
――わしの拳、王様をぶん殴ったことはあるが、まだ神様をぶん殴ったことはないからな――
笑顔を見せてその場から消えた飛龍に対して、一柱残された武神は大仰な笑い声を上げる。
「……フハッ、フハッ! フハハハハハッ!! なるほどな! 面白い、面白いぞ!! 我は待っておるぞ飛龍、いや、龍の王、竜王よ!!」
――異世界でその至高の拳を磨きあげ、我の元へと届けて見せよ!!
◆ ◆ ◆
「……はてさて、ここはどこだ?」
気がつくと静かな湖畔の草原に、飛龍は転がされていた。周りを見回したところで湖のど真ん中に大きな岩があるくらいで、辺りの木々が視界を遮り、人の気配はまずしない。
夢にしては随分と生々しい。しかし手に伝わる感触、そして頭の冴えがこれは夢ではないと飛龍に告げてくる。
「これが異世界転生というやつか。ははっ、面白い……それはそうと」
先程確認した岩影から、水の波紋。つまり岩の裏で何かが動いたということ。飛龍は息を潜めてじっと様子をうかがう。
「あれは……うっ!?」
飛龍は即座にその場に背を向け、両手で目を覆った。なぜなら岩陰から、布一枚纏っていない少女の姿が、一瞬とはいえ目に映ってしまったからだ。
「水浴びってやつか……? それにしても……」
一瞬とはとはいえ目に焼き付いてしまった光景。若いが故に色白で艶めかしい柔肌――でもなく、髪を短く切っているとはいえ、ボディラインからしてあれは女の子――といった下卑た感想ではない。
「……耳が、尖っていた」
飛龍は改めて自分の、人間の耳に触れてみる。
違う。やはり違う。人間の耳はあんなに尖ってなんていない。
「……それにしてもええ女子じゃったわい」
わしが若い頃なら確実に口説きに――と思っていたところで、飛龍は自分の身体に違和感を覚え始める。
「……ありゃ? これ、わしの手か?」
しわなど一つもなく、みずみずしく若々しい両手。その両手で顔を触って見るも、やはり同じくしわが見つからない。服装も修行を重ねていた初々しい十代の時の胴着姿である。
「……まさか、オマケに若返りまで――」
「てぇやぁ!」
「うおっ!?」
明らかな殺意のこもった声。とっさに振りかえると先程目にした少女が衣を身に纏った状態で、明らかな憎しみを込めた目で向かってナイフのようなものを振り回してくる。
「殺す!!」
「はぁ!? 何じゃいきなり!?」
確かに結果的に裸を見たことは間違いない。だがしかしその程度でナイフを振り回すものなのだろうかと、飛龍は戸惑いながらも謝り続ける。
「悪かった悪かった! 確かに裸を見てしまったかもしれないが、それでも――」
「関係ない! 人間は殺す! 絶対に!!」
身体は若返っていたものの、飛龍は己が耳を疑った。
人間は殺す――この意味が現時点ではどういうことなのか、今の飛龍が知ることはできない。
「うあぁっ!!」
「待たれよ嬢ちゃん! ああもう面倒くさい!」
ナイフで突き刺すために伸びた手を、とっさに絡め取って関節を軽くひねる。後はそのまま押さえつけ、少女が関節を決められた痛みで手を離した隙に、今度はナイフを蹴り飛ばす。飛龍の技量をもってすれば、この程度はたやすいものだった。
「なあまず落ち着こうや。いきなりナイフ振り回されちゃどうしようもないじゃない」
相手は殺意、対するこっちは焦りと、理由はどうであれ互いに息が荒れていたものの、それも徐々に落ち着いていく。
しかしどうして、元々百と八を超える年齢だったはずだが肉体さえ戻ればここまでよく動けるものなのか。飛龍は改めて転生の実感を覚えていた。
「ふぅっ……ふぅっ……!」
顔を紅潮させてこちらを睨み付けている辺りがまだまだやる気満々って感じであろうか。それにしても飛龍がたった一瞬で判断したとおり、よく見るまでもなく美人といえる顔立ちをしている。そして今この状況においては強気な部分も、その睨み付ける目から伺える。
「お前らなんか……お前らなんか……!」
「まあまあ落ち着なされって。わしは確かに人間じゃ、耳も尖っておらん。しかし人間は人間でも、わしはたった今この場所に来たばかりの人間じゃ。ここの事情なんて知らん。信じては貰えんかもしれんが――」
「信じるも何も、お前達は既にあたし達を、エルフ族の誇りを、全てを踏みにじった!!」
「っ!」
少女の言葉に、飛龍は思わず口を閉じた。
「お前達は突然現れて、国王の大義の元にとあたし達の村を破壊した! 獣共め! お前らなんか獣だ!」
「……なるほどのう」
百年も人間として生きてきた飛龍にとって、この少女が人間のどの部分を見てきたのかなど想像にたやすかった。誰かの大義の元で、あるいは自分の理の元で暴走する人間の姿など、何人も見てきたからだ。
「…………」
「何とか言ったらどうなの!? 結局お前も同じ――」
「ああ、同じかもしれんのぅ。わしも昔、自分の勝手で人を殺したことがあるからな」
「……っ!」
「そんな残酷な人間たるわしじゃが、その矛先を向ける方向が今はちょっと違う」
「えっ……?」
「わしは少なくとも、お前に向けるつもりはない」
そういって飛龍は少女をあえて解放し、その場に座って目線を合わせる。自分はお前の知っているような“人間”じゃないということを示すために。
「教えてくれんか。ここがどこなのか。お前達に一体、何が起こったのか。お前達の知る人間が、一体何をしたのかを――」
◆ ◆ ◆
「――なーるほど、ある日突然武装した人間がやってきた、と」
「『この村はこれから人間が支配する。俺達が全て仕切る』っていって、大勢を引き連れてきたそうよ」
「そうよって、お前はその場にいなかったのか?」
「ええ。幸か不幸か、あたしはちょうどその時に野イチゴを取りに森に出ていたから」
当然ながらそんなことなど了承する訳ないと、その場にいたエルフ族は徹底抗戦すら辞さない様子だった。
だが相手が悪すぎた。いくら木で立派な槍を作ったところで、鉄の剣にかなうはずもなく、鋭い石の矢を撃ったところで、鉄の鎧を貫けることなどなかった。
「あたしが来たときには、もう全てが終わっていたわ」
それは戦いというより、蹂躙に近いものだった。戦いに長けた者は皆全てが斬り殺されるか矢を射られ、女は人質だといって誘拐され、残ったのは死に体の老人と泣き叫ぶ子どもだけなのだという。
「エルフ族が積み上げてきた誇りを、奴らはいとも簡単に踏みにじった。残ったあたし達に課せられたのは、全く要領も何も分からない農業ってやつ。しかもそこからかろうじて収穫した分のほとんどを、奴らは奪っていく……!」
元々は自然の恵みを頂くだけを是とするエルフ族の風習、それには自ら能動的に作物を作るなどといった行為はあり得ないことで、彼女らの誇りにも反する行為。その悪逆非道を前に少女は怒りに両腕を震わせているが、飛龍はというと言い分を聞くだけ聞いて首を傾げている。
そして次の瞬間、とんでもない発言をしてしまう。
「なるほどのう……じゃが、それってお前らが弱かったのが悪いんじゃね?」
「っ!? なんですって!?」
「鉄の鎧に鉄の剣ねぇ……ハッ、いかにも弱者が頼る代物。そんなものに頼る輩なぞ、わしならその場で皆殺しにできるわい」
飛龍は決して大言を吐いたつもりはなかった。百年積み上げてきた武術に、成長を遂げるには全盛期ともいえる若き肉体。仮に肉体を差し引いたとしても、わざわざ勝つ算段など見積もるまでもなかった。
「っ、だったらやってみなさいよ! どうせ今頃、税だ何だとか言って村から食料を徴収している頃だろうから!」
「あいわかった。ではついてくるがよい」
二つ返事で受けられるとは思っていなかったのか、あるいは別の思惑があるのか、飛龍の足取りとは対照的に少女はその場から動こうとはしない。
「……ついていくなんて無理よ」
「何故じゃ?」
ついてきて、実際に見て貰わなくては証明できない。飛龍の疑問はもっともだったが、エルフの少女は、女であるからこそ、人間のいる場に姿を現すことができない。
「言ったでしょ! 女はみんな連れさらわれていったって!」
「でもお前は連れさらわれておらんではないか」
「それはさっきも言った通り、あたしはたまたまその場にいなかったから……あたしまでいなくなったら、村は滅ぶしかなくなるじゃないの!」
「はて、話が見えてこぬが……」
前の生涯で伴侶を持つことがなかった飛龍にとって、力しか求めてこなかった飛龍にとって、その問題はすぐに浮かび上がってくるものではなかった。
「……ああ、そういうことか!」
飛龍はぽん、と拳で手を叩くと、いわゆるどや顔といわれるような表情で問題点を指摘する。
「お前までもがいなくなってしまえば、村の次の世代が生まれぬと……というか、お前一人で次の世代を作るつもりか?」
「っ、全滅するよりマシでしょ。あたし一人が頑張れば……」
「いやいや、流石に無理じゃろうて。それよりも他の女の居場所が分かっているのならば、それを連れ戻した方が早いんじゃないかのう?」
「さっきから聞いていれば、できもしないことを――」
「じゃから、わしが手伝ってやるからついてこいと言っておるじゃろ……」
とはいってもこのままで信用を得られるはずもないと、飛龍は己が力を示すために、湖の方へザブザブと入っていく。
「仕方ない。ならこうしようか」
「……?」
湖の中へと入っていったのは、巨大な岩へと近づくため。飛龍は岩肌に手を置くと、少女の方に振り返ってこう言った。
「今からわしが証明してやろう。この岩を破壊することで」
「……何を言っているの? 魔法でも使おうっていうの?」
「魔法……? そんな妖術染みたことはしなくとも――」
岩肌に当てていた手を拳へと形を変えて構えると、飛龍はニヤリと笑い、そして息をゆっくりと吸い始める。
そして息を吐いたその瞬間、飛龍の腕にさらなる力が加えられる――
「――破ァッ!!」
普通の人間ならば、石を拳で殴りつけたところで、どちらが破壊されるかは自明の理であるだろう。
しかし飛龍は一撃のもと湖で目立っていた大岩に拳をめり込ませ、少女の目の前で見事、完膚なきまでに割って破壊してみせた。
「えっ……えぇっ!?」
「かっかっか! この程度、造作もないわい!」
全盛期、そしてこれからも成長できる身体に、百年間積み上げてきた功夫。それらが合わさった今、彼の中に不可能は存在しない。
そしてその瞬間、エルフの少女の中にあった疑念も打ち砕かれ、一つの思いが残っていた。
この男なら、あるいは――と。
「おお、そういえばお前の名前を聞いてなかったな」
「あ……あたしは、ミリディア。ミリディア=レイニー」
「わしは……そうじゃな」
悠々と空を舞う龍――飛龍と名乗るにはまだ早い。今は天に昇ることを夢見るだけの、只地を這うだけの幼くて小さな龍。そう自負する飛龍は、敢えてこう名乗った。
「わしの名前は、小龍という」
「そう……じゃあ、信じて良いのよね、シャオロン?」
「ああ。まずはお前の村にいるという人間共に、会わせてもらうとするか――」
◆ ◆ ◆
「おいおいおい、今回は随分と少ないみてえじゃねぇか。一回目二回目じゃねえんだろ?」
「も、申し訳ありません……」
地べたに這いつくばり、人間でいうところの土下座の姿勢のままうずくまるエルフ族の老人。そして地にへばりつけた頭を踏みにじっているのは、若い男。耳は尖っておらず、こちらの方は人間だと伺える。
「な、なにぶん今年は雨が降らず、森の恵みも少なくて――」
「雨が降らない!? は? 村長さんよぉ、そこはお前らお得意の自然に寄り添うってやつで降らせれば良いじゃねぇか!」
「ち、違います。私達の文化に、そのようなものはありません! 私達は、自然のままに身を任せることで――」
「自然のままに身を委ねていたらてめぇら纏めて滅ぶってことぐらい理解しろ愚図が!!」
「ぐぅっ!」
老人の頭を踏みにじるだけにとどまらず、二度、三度と踏みつける男。しかしエルフ族の誰もが、男に向かって歯向かうことなどできなかった。
「あんまりふざけたこと言ってるとまた“間引く”ぞ? てめぇ等なんざ使い潰したところでこっちは何も痛まないんだからなぁ」
腰元には鉄製の剣。そして背中に背負っているのは同じく鉄の盾。鎧はつけていないにしても、そんなものなど必要ない程の武力を持っている。
そしてそれが一人だけではない。先頭に立つ男の背後にはその他にも六人、同様の武装をした男が立っている。
七人もいればこの村を壊滅できる。実際手練れとまではいかなくとも、元々争い事をしてこなかったエルフ族を押さえつけるには十分だった。
――そこに一人の少年が姿を現すまでは。
「ふむ、お前達か。件の人間というやつは」
「そうよ。あいつらが、あたし達の村を滅茶苦茶にした奴らよ!」
「っ! その声はミリディアか!? どうして隠れていなかったんだ!?」
村長は驚愕の声をあげるも、男に足蹴にされているせいで、姿までを見ることは出来ない。
「なんだてめぇ? ……つか、まだ女いたのかよ! しかもこれもまた美人じゃねぇの!」
「はっ、隊長ってあんなガキが趣味なんですかい?」
「んな訳ねぇだろ! 城館にいるお偉方にそういう変態趣味してるやつがいるから、連れてけば高い評価を得られるだろう?」
「なるほど、そいつはいい!」
「わしのことは無視か、まあええじゃろ」
シャオロンはため息をつきながらも、その場の緊張感などいざ知らずといった様子で老人を足蹴にしている男の目の前に立つ。
「なんだこのガキ! ……エルフじゃねぇな? 人間がどうしてここに――」
「そんなことはどうでもええじゃろ。ほれ、足をどけんか」
「何だと……?」
「お前等、良くて三十いかないくらいの若造じゃろ? こんな人生の大先輩を足蹴にしおって、恥ずかしくないのか?」
「なんだと、この――っ!?」
「ほれっ」
シャオロンの足払いによって、男の足は村長の頭上からどけられる。それどころか宙を一回転、その場に尻餅をついてこけてしまう。
何が起きたのか、男には理解が出来なかった。気がつけば足はどけられ、自分は地面に腰を下ろしている。
それを見たシャオロンは更にため息を重ねながら、指をクイクイッと曲げて男を挑発する。
「はよ立たんか。腰を抜かしたまま呆けていても相手は倒れんぞ?」
「っ……! このガキィッ!!」
腰元の柄に手をあて、男は立ち上がると同時に剣を引き抜こうとした。しかしそんなことなどしようという初動を見せた瞬間に、男の顔の目の前にシャオロンの足裏が迫り来る。
「阿呆がッ!!」
「ぶふぅっ!?」
そのまま全体重を頭に乗せられ、顔を蹴り抜かれる。周りが気がつく頃には、ロンは片足立ちの状態で、男の顔面の上に立っている状況となっていた。
「あーあ、動きが鈍いのろい。あくびが出るわ」
「っ、てめぇよくも隊長を!!」
「ん? おっ! ほっ!」
続けざまに次の男が剣を抜いてロンへと襲いかかるが、全て最小限の動きでかわされ、そして大振りしてしまった隙に懐へと潜り込まれてしまう。
ロンは素早く構えを取り、拳を握りしめる。そして次の剣が振り下ろされる前に、拳を前へと真っ直ぐ撃ち抜く――
基本となる拳、崩拳。またの名を中段突きとも呼ばれるそれが、男の腹部深くに突き刺さる。
「――破ァッ!!」
「がはぁぁああっ!?」
拳の先で爆発でも起きたかのように、男の身体は軽々と吹き飛ばされていく。そうして倒された男は、二度と起き上がることができなかった。
「さて、残り五人。纏めてかかってきてもよいが――」
「うぉぉおおお!!!」
一人を残して四人同時。しかし言葉の通り、何人がかりであろうと、シャオロンにとっては何も変わらない。
「ハッ! ハッ! ハッ! ハァッ!!」
たった四回の打突によってそれぞれが打ち倒され、残るは怯えて盾を構えるだけの一人となる。
「ひっ、ひぃい! 来るな! 来るなぁっ!」
「盾を構えておるようじゃが、わしの前ではそんなもの無意味」
ゆっくりと、一歩一歩近づいていく。殴る構えを作ることもなく、シャオロンは悠々と最後の一人の目の前に立つ。
「この盾が、お前の最後の命綱。そうなるな?」
「や、止めろ! 止めろ!」
盾を握る手が震えている。剣を振るおうにも、その隙にいくらでも拳が飛んでくると本能で理解できる。男はただただ盾を構え、目の前に迫り来る人間を越えた脅威が過ぎ去るのを祈ることしかできない。
「それにしても、鉄の盾か……」
盾の表面をなでるように、上から下へとロンは手を這わせる。
「……ミリディアよ」
「えっ?」
「面白いものをみせてやろう」
面白いもの――そんなもの、とうに目の当たりにしていた。ミリディアが今目にしているのは、まさに望んでいた光景。これまで踏みにじってきた人間達に、復讐を遂げる光景。
しかしロンはそれらとは違うものを、ミリディアに見せようとしていた。
「…………」
ロンは黙ったままニヤリと笑うと、盾に触れていた手で距離を測るかのように、手を開いたまま指先だけを触れさせる。手を引いて構えるわけではなく、その場で手刀を構えるかのように、盾に触れている。
そして――
「――腑ッ!!」
「っ!?」
ミリディアが目にしたのは、到底理解が追いつかない光景だった。
それはこれまで木の槍を、石の矢を防いできた鉄製の盾が、ロンの拳一つに貫かれているという、信じられないものだった。
「がはぁっ……!」
いつの間にか作られていた拳の衝撃は盾を貫通するだけでなく、そのまま男の身体に深々と突き刺さっている。そうして男は真っ二つに裂けた盾を持ったまま吹き飛ばされ、そのまま地面へと叩きつけられた。
「……ま、こんなもんかのぅ」
寸勁――別名ワンインチパンチとも呼ばれる、究極の打拳。拳を引くことなく打ち込むという矛盾、それをシャオロンは難なくやってのけたというのだ。
「す、凄い……」
「……あっ! しまった!」
「えっ?」
「全員打ち倒してしまったら女の居場所が分からんではないか」
やれやれといった様子のシャオロンとは対照的に、ミリディアひいてはエルフ族にとって、この状況を飲み込むには多くの時間を要した。
「……や、やったのか!? あいつらを!? 俺達は助かるのか!?」
「分かんねぇよ! でも、もしかしたら……!」
エルフ族の多くは、この状況に歓喜の声を徐々に漏らし始めた。その中にはシャオロンをけしかけた張本人であるミリディアの声も混ざっていた。
「本当に……倒しちゃった……彼がやったんだわ!」
しかしこの状況を素直に喜んでいない者がただ一人。
「しかし……これでわしらにはもう、退路はない」
「退路?」
「ふひゃはははは! 流石、年の功ですぐに理解したか」
長老、そしてシャオロンはこうすればどうなるかを知っていた。これまで搾取だけで済ませていた人間に歯向かうことの意味を、知っていた。
「そうだ、わしが退路を断ってやった。ただただ緩やかに滅び行くだけの退路を断ってやった」
残る道はたった一つ。
「勝って全てを取り戻すか、負けて全てがご破算となるか」
「それってまさか……」
「ああ。わしの身勝手な行動で、宣戦布告成立じゃ」
「っ!?」
ミリディアの表情が、一瞬にして喜びから緊張へと塗り替えられていった。
そしてここからが、小さな龍と自称する男が龍の王へと突き進む旅への、最初の第一歩となるのであった――
ここまで読んでいただきありがとうございました。もし続きが見てみたいとか、面白いな、と思っていただけましたら評価などつけて頂けると幸いです。