逃がさない
「逃がさない……!」
その言葉が口を突いて出た瞬間、わたしの体はすでに動いていた。
あの騎手が――あれが皇帝かもしれないと知った時から、見送るなんて選択肢は存在しなかった。
「ベアトリーチェ!待て!」
ジェイドの声が背中から聞こえた。追いすがろうとする気配がしたが、彼の足音はすぐに遠ざかっていった。わたしの速度に追いつけるわけがない。
「おい、止まれ!そいつに近づくな!」
今度はハンスの怒号だ。鋭い声で叫びながら、わたしを引き止めようと手を伸ばしてくる。その腕を一瞬だけ感じたが、わたしは迷うことなく振り払った。
「邪魔しないで!」
叫びながら振り返ることなく地を蹴る。ジェイドやハンスがどんな表情をしているかなんて、今のわたしにはどうでもよかった。
――あの背中を追い続ける。それだけがわたしの全てだった。
荒れた戦場を抜け、馬を駆る皇帝たちの姿が小さくなる。普通なら追いつけるはずのない距離。しかし、わたしの足は止まらなかった。
泥を跳ね上げ、息が切れそうになっても、一歩、一歩、着実に距離を詰めていく。
「待ちなさい……逃げられると思うな……!」
わたしの全身から汗が流れる。血の気が引いていくのを感じる。それでも、不思議と足は動き続けた。
「ベアトリーチェ!無茶だ!」
ジェイドの声が後ろから追いすがってくる。けれど、それはどこか遠い世界の音のように感じられた。
目の前に見えるのはただ、馬を駆る騎手の後ろ姿だけ。漆黒の髪が揺れるたびに、体中を突き動かすものが湧き上がってくる。それが怒りなのか、それとも……考える暇さえなかった。
息が荒れる。肺が焼けつくようだ。足が重くなる。それでもわたしは前へ、前へと走り続けた。
「待て……!」
泥に足を取られそうになりながらも必死で地面を蹴る。自分の心臓が壊れるほど早鐘を打っているのがわかる。視界が霞むような感覚がしたが、振り払うように首を振り、また足を踏み出す。
地面が少しずつ傾いている。足の裏に伝わる痛みが鋭さを増していく。それでも、彼の背中を見失うわけにはいかなかった。
「絶対に……逃がさない……!」
わたしの喉から漏れ出る言葉はかすれていた。もう声を発する体力も残っていないのに、それでも自分を奮い立たせるために呟き続けた。
――あと少し。もう少しだけ。
そう思った瞬間、足が絡まり、体が大きく前のめりに崩れた。
ドサッ。
泥の上に倒れ込む。視界が地面の暗い色で満たされる。
体を起こそうとするが、腕に力が入らない。足を動かそうとするが、まるで鉛を抱え込んだように重かった。息をするたびに胸が痛む。
「まだ……走らなきゃ……」
呟いた声も自分の耳に届かないほど小さかった。力を振り絞り、何とか体を起こそうとするが、また腕が崩れる。
「逃がさ……な……い……」
泥に伏したまま、わたしは手を伸ばした。虚空を掴むように。目の前に広がるのは、遠ざかる蹄の音だけだった。
涙が滲む。何の涙かわからない。
「くそ……次は……さ……い……」
意識が遠のいていく気がする……
***
泥だらけの道を走り続けた末、ようやく見慣れた金髪が視界に入った。ジェイドが真っ先に駆け寄り、その場に膝をついて泥に倒れ伏しているベアトリーチェを抱き上げる。
「ベアトリーチェ!しっかりしろ!」
必死な声で呼びかけるが、彼女は微動だにしない。乱れた呼吸の跡が彼女の苦闘を物語っていた。
後ろから駆けつけたハンスと他の特務隊の隊員たちが、立ち止まり、目の前の光景に言葉を失った。息を整える間もなく、誰かがぽつりと呟いた。
「……こんなにも激情的なベアトリーチェ、見たことがない。」
別の隊員が、疲れた息を吐きながらうなずく。
「普段の彼女からは想像もできない……あれだけ冷静で、感情を表に出さない奴なのに。」
ハンスが険しい顔で泥だらけの道を見下ろす。足跡と彼女の倒れた跡が、どれほど無茶な追跡を繰り広げていたのかを雄弁に語っていた。
「何が彼女をここまで突き動かしたんだ……?ただの復讐心じゃ、ここまでは……いや、それだけじゃないだろうな。」
隊員の中で囁きが広がるが、ジェイドはそんな声に耳を貸す余裕もなかった。彼はベアトリーチェの額から汗と泥を拭いながら、肩を抱き寄せる。
「お前……本当に無茶をしやがって……」
静かな声で呟くジェイドの手には、わずかに震えがあった。
彼女の顔は汗と泥にまみれ、唇はひび割れ、呼吸は浅い。それでも、眉間には強い意志が刻まれたままだった。まるで倒れた今でも、何かを追い続けているかのように。
隊員たちの中で一人が恐る恐る尋ねた。
「……一体、何が彼女をここまでさせたんだ?」
誰も答えられなかった。彼女を突き動かしていたものが何なのか、分かる者は一人もいない。ただ、一つだけ確かなのは――。
「あいつ、無理をしすぎた。」
ハンスがそう呟き、厳しい表情を浮かべながらジェイドに合図を送る。
「ここで長時間とどまるのは危険だ。彼女を運ぶぞ」
ジェイドは苦悩の色を浮かべながらも、静かに頷いた。そして、ベアトリーチェをそっと抱き上げる。彼女の軽い体は、どこまでも重く感じられた。
特務隊の隊員たちはそれぞれ無言のまま周囲を見渡し、陣営に戻るための準備を始めた。その中で、誰もが彼女のこれまでにない激しさを心のどこかで恐れた。