夢の溢れたそこは、蒼い海への道
西千葉駅の左手に広がる大学。あの時、約束の場所、約束の時刻に、彼女は来てくれた。
僕は大学から来る学生たちの中に、彼女を見つけた。4年生となった最後の学年。高校時代から付き合っていた僕たちは、就活の合間を見て、オアシスを求めるように互いに会い続けた。
「あの会社、オンラインでの面接に慣れてないみたい」
この時期は彼女も就活のぼやき。この時期に就活する会社の対象はベンチャーが多い。
「スタートアップやベンチャーなんてそんなもんだよ」
「マイクを変えてほしいな。雑音ばかり拾っているんだもの。ろくな会議室もないし......」
彼女の愚痴は実際に面接で経験していることなんだろうな。
「僕の大学だと、門前払いなんだよな」
「学歴フィルタ?」
「きっとそうだよ」
「でも、あなたも関関同立の一角なんでしょ。そんなことないわ」
彼女は、まだ面接に至っていない僕に、モチベーションを保つ言葉を忘れない。
「私も、なかなかうまくいかないわ。集団面接だと周りが頭よさそうなんだもの」
彼女はそう続けて自分を卑下してぺろりと舌を出した。これも励ましなんだろうな。
「そうだな、もしそうなったら、僕も何も言えなくなるかもしれない」
就職の面接すら始まらなない不安の中でも、二人で居れば未来が見えるような気がした。
そして、彼女は情報技術の中堅へ。僕は池田の小さな劇場に。そして別れ。心が引き去れるような思いとともに、彼女への思いは箱根の向こうに置いてきた。
あれから10年がたち、僕たちは偶然に白馬八方で再会した。彼女はすでに10人ほどのチームを率いている。僕はある芸能プロダクションに転職して、大物芸能人のマネージャ。
「あ?」
「あれ?」
再会した二人にはそれぞれ数人の連れがいた。それでも夕食の約束をして、久しぶりに二人だけの時を持った。
「今何をしているの?」
「小さなプロダクションのマネージャ」
僕はそう言いつつ、自分の会社から売り出し中のアイドルの名前を出してみた。
「へえ、すごーい」
「アイドルだから、本人も周りも忙しくて大変だね。まあ僕は、そのアイドルのマネージャをすることになるらしくて、今はちょうどその休みなんだ」
「そうか、出世しているんだね」
「いや、マネージャなんて履いて捨てるほどさ」
そう言う僕を、彼女は相変わらず笑顔で盛り上げてくれる。
「君も、仲間たちと休暇会?」
「え、ええ。会社の同僚たちよ」
「そうか、会社は楽しいの?」
「そうね、競争が激しいから、いろいろな人たちから怒られるし、追及されるし、激論は交わすし、部下には厳しいことを言わなきゃいけないし......」
そう言う彼女の顔には、10年前とは違った憂いと疲れが見えた。その憂いの顔を見て僕は思わず聞いてしまった。
「それなら、慰めてもらえばいいじゃないか、旦那に」
「え、そんな人、いないわ」
「結婚は?」
彼女の目が僕を睨んでいた。
「あなたがそれを聞くの? 私と私が分かれた時のことを覚えていないの?」
「覚えているさ、僕ごときがやはり君には釣り合わないと、何回も思ったさ」
「あなた、やっぱり私の気持ちをわかっていなかったのね」
「だって、僕はろくな大学にも行けなかったし、ろくな就職もできなかった。こんな僕ごときが君に選ばれてはいけないから」
「『僕ごとき』なんて、いわないで。あなた、それを今頃私に言うの? 今頃私に伝えるの? 私が今まであなたを忘れたことが無いのに。それに、あなたは立派な仕事をしているじゃない。今でもそんなことを言っているの?」
目の前の彼女の顔は、一瞬にして10年前に帰っていた。
「確かに僕もマネージャという仕事はしている。でも、部下なんていないさ。先ほどの君たちの連れは、部下じゃないの?」
「そうね、私もマネージャだから。そうよ、マネージャなんて、東京には履いて捨てるほどいるわ」
「そうか、やっている仕事の名前は同じだね」
「そうよ、それに......私がここまで頑張ってこられたのは、結婚する気が無かったからよ」
「どうして?」
僕はこの質問をしたことに後悔した。
「さっきも言ったことだけど、あなた、やっぱり私の気持ちをわかっていなかったし、今も分かっていないのね」
「あ、いや、そんなことは」
そう言い返したのだが、彼女は別の方向に僕を引っ張り始めていた。
「ついてきて」
僕たちはおごるおごらないという大騒ぎをした末、彼女が来いという言葉に従ったままに雪道をゆき、瀟洒な宿舎に入って行った。
「ここは、私だけのうち。会社の人たちはべつのところよ」
「やっぱり、お偉いさんじゃないの?」
「違うって言ったわよね」
彼女はそう言うと、顔見知りらしいフロントの老紳士に声を掛けつつ、僕を強引に部屋へ引き込んでしまった。
次の日の朝、僕は、昨日フロントにいた老紳士が部屋に来て、彼に起された。すでに彼女はベッドからいなくなっていたかった。
「お目ざめですか。お食事を用意しております」
「あの、彼女は?」
「言伝を賜っております。急遽、東京に戻らなければならない、ということでした」
「そうなんだ………」
昨夜、僕は彼女と一緒にいることで、年齢にはふさわしくないほどの恥ずかしさと戸惑いを感じていた。
昨夜のどちらからともなく触れ合った、初めての互いの唇。僕を取り巻く長い乱れ髪。初めて知った女性の生暖かさと柔らかさと滑らかさに、僕は心の全体を揺さぶられ、もぎ取られていた。
そこから、相手の隠されたところへ、互いに手を恐る恐る伸ばして触れ合った。まさかとは思ったのだが、互いに相手が不慣れであることを悟れるほどに、おのれと相手のぎこちなさを理解した。二人にとって2回目の逢瀬であった。それゆえ、ほとんど初めての快感の中で、やはり互いが互いの初めての相手であったことの喜びも知った。それゆえに、その幸せがこれからは約束されていると錯覚していた。だが、彼女は僕を起こさなかった。確かめもしてくれなかった。
がっかりした僕は、そのまま仲間の待つ民宿へ帰ることにした。老紳士がその僕に言った言葉は、上の空にしか聞いていなかった。
「また、ここにおいでください。連絡先は、ここに。そして、この場所をお忘れなきよう」
だが、僕は再びの激務の毎日に、そんな言葉は忘れてしまった。
10年後の冬、僕は大御所女優のマネージャをするようになっていた。京都を本拠地にしながら、東京へもちょくちょく通う生活に慣れて、しばらくたっていた。大御所女優さんから見て、41歳になって落ち着いて見える男は信頼してもらえる存在なのだろうか。
そんな時、新橋演舞場の楽屋を、訪ねてきた老人と子供がいた。おそらく、老父と孫の娘ということなのかもしれない。そう思った。
「あの、ここに......」
女優の名前を出したから、ファンなのかもしれないと思い、僕が応対をした。すると、9歳ほどの娘が差し出したのは、僕宛の封書だった。まさか、この娘があの一回きりの逢瀬の結晶だなんて......。
「どうかしたの?」
準備中の女優が声をかけてきた。そのオーラに、老人と孫娘は顔を引きつらせた。
「怖がらなくていいわ。女優なんてこんなものよ」
彼女はそう言いつつ、顔面蒼白となっている僕に声をかけて来た。
「マネージャ、どうしたの?」
「目の前のこの娘は、僕の娘だということです。そして、その母親が白血病だと......」
その言葉を聞いてか、彼女はすでに電話をしていた。
「代わりのマネージャをよこして。彼はご家族が大変らしいの......」
電話の先では、僕の仲間が応対していた。今の僕にも頼りになる仲間や友人がいた。それに感謝しつつ、僕は老人たちとともに白馬八方へ向かう特急サンダーバードに飛び乗った。
『突然のお手紙で驚かれていると思います。こうして、手紙をしたためたのは、あなたの助けが必要なためです。
目の前の少女はあなたの娘です。9歳になります。そして、老人は私の父です。今、私は健康を害して白山の別荘で療養をしています。病名は再生不良性貧血、いわゆる白血病です。
私は先が無いと覚悟をしています。しかし、私にはまだ幼いこの娘がいます。父も老いてしまい、娘の面倒など無理な状態になりました。もちろん、この二人には少しばかりの収入があるので、この別荘に住んでもらえれば暮らしていけます。ただ、私には親類縁者が居らず、彼等には私のほか身寄りがない状態です。
お願いがあります。無理を承知でのお願いなのです。今までの会社生活のせいで、私に頼れる親しい人はあなたしかいないのです......私は療養で東京に滞在せねばなりません。その間、この二人と生活を共にしてくれないでしょうか。もちろん、お仕事でお忙しいでしょう。それでも、もし可能であれば、ここを本拠地として彼らと共に居てくれないでしょうか』
認めてあった手紙には、そう書かれていた。確かに目の前の少女に僕は責任がある。しかし、本拠地を白馬に移せと言われても、僕の職業柄無理なことだ。『可能であれば』と言うが、不可能ならどうするのか。この娘を京都に引き取るか?。老人までは引き取ることができない。家族がバラバラにもなる。
僕の今の思考と同様に乱れた筆跡。おそらくペン先に力が入らないのだろう。先が無いと思っている彼女にとって、不安な中で僕に手紙をよこしたに違いなかった。僕は大御所に報告しつつ、休職扱いとしてもらって白馬へと向かったのだった。
別荘で、突然の家族たちとの生活は、初めてのことばかりだった。一人娘はまだ甘え盛りであり、老義父は寡黙であまり動けない年齢だった。それでも、独身生活のスキルは大いに活用できた。食事の用意から買い物、農家や土産物店、ガソリンスタンド、旅館の若女将など、様々な近所の付き合いなどは苦にならず、話し相手のいない寂しさを紛らわす時間になった。
結局僕は仕事を辞め、特に信じられないほど手のかかる娘の食事から風呂、寝かしつけに至るまでの衣食の面倒が、一日の暇な時間を占領していた。
娘は無邪気にベッドやバスタブ、そして僕の心の中にさえすっと入ってくる。それでも、僕の心にはためらいがあった。いまは、ただやるべきことがあるから、ここに居るだけ。そんな気持ちはいつまでたっても消えていなかった。
こうして、1年経った次の早春の二月、朗報があった。彼女の治療が効果を上げ、退院となるという。しばらくたてば、白山の地でリハビリに励めるということだった。
「かえってこられるのか?」
「ええ」
久しぶりに聞く彼女の声、それが一年間の忍耐の向こうにあったよろこび、しあわせだった。
帰ってきた彼女は、しばらく車いすだった。それでも彼女は僕との時間を大切に思い、僕とともにリハビリに励んだ。
「今日は、車で」
「今日はあっち」
「今日は、ここへ買い物にいきましょ」
今まで娘には振り回されていたが、それに加えて彼女に振り回されるようになった。その時の気持ちは、二十年ぶりの経験だった。振り回す彼女、そして、モチベーションをくれる彼女。やはり、僕にはもったいない彼女、もったいない家族たちだった。
こうして1年間のリハビリは彼女を再び力強く歩めるように変えた。彼女は再びITの仕事に打ち込み始め、賑やかで活発な生活を取り戻した。
「ありがとうね。あなたがそれをやってくれるのは、とてもありがたいことよ」
「ありがとう。あなたと出かけられることが私の幸せよ」
白馬の町に来てから5年がたった。甲斐性なしゆえに彼女に触れることを避け続けた僕に、それでももっぱら励ましの言葉をくれるようになった彼女。そしてぼくは、いつの間にか彼女なしに生きていけない、存在価値のない人間になり下がっていた。
「あんたは、ただ飯ぐらいなんでしょ」
「あんた、お母さんのヒモなんでしょ」
「ジゴロなのかしら」
娘は厳しい言葉をかけてくるようになった。当然なのだろう。確かに僕はそんな存在だった。反抗期の娘の言葉は真実を突いており、僕はここに居る価値がなくなったことを悟っていた。
そんな時、僕はもう自分の役目が終わったように感じた。僕ごときがこんなまぶしい彼女の傍に居てはいけない。そう思う時が増えた。
僕は、春の雪が解けるころ、5年を過ごした白山の地を去った。ただ一つ、この五年間、一切彼女に触れずに禁欲し忍耐し続けたこと、それだけは誇れる、と思った。
かつてのプロダクションの仕事を得て、僕は六本木で日系アメリカ人タレントのマネージャとなった。仕事がはけた時、彼は必ず霞町交差点のラーメン屋による。もう朝三時を回ったところなのに、そこから自宅に入ることを見送ることが、僕の仕事になった。50歳の男には少々つらい仕事なのだが、それでも僕を信頼してくれるプロダクションや彼の言葉によって、癒される瞬間があった。それだけがこの時の僕の生きがいだった。彼の言葉しか、僕には残っていなかった。
そんな彼が進めてくれたのが、サンタモニカだった。
僕は、彼の地元ロサンゼルスのサンタモニカで、事務所を任された。55歳にしての新天地。そこは、夢を追う人たちが集う街だった。僕は、その一角に仮住まいを持った。こじんまりとした事務所の仕事は、全て僕のペースで済ますことができ、仕事が終わると夕方の心地よい風を探しに、街の中を、海岸を、家々の前を歩いた。
孤独な僕を、その地は確かに受け止めてくれていた。街中にある集いの場には、確かに自由と祝福の時があふれていた。
「そうか、これが彼の言っていた新天地なんだ」
ある日、いつものようにサンタモニカへ向かって街を抜け、蒼い海の海岸へ。そこには、今日も様々な人種が青い祝福の風を受けながら、思い思いの過ごし方をしていた。僕も飲み物を片手に夕日を見つめていた。この場所は、誰にも知らせていないから、知人の誰にも負担をかけることが無い。ここで、僕のように孤独とみじめさを引きずる人間は一人もいないはずだった。
その僕に、事務所の少年がメモを持ちつつ、ある日本人女性を連れてきた。それは、僕ごときが遭ってはならないと心に誓った女性だった。だから、僕は声を出した。
「なぜ?」
だが、相手も僕に対して問いかけてきた。
「なぜなの?」
夕日を浴びた僕の横に、彼女は座り込んだ。
「喉が渇いたわ。その飲み物をくれないかしら?」
「......硬水だよ」
僕がそれを渡すと、彼女は少し顔をしかめながらそれを飲み干した。
互いに、それ以上語ろうとはしなかった。互いにその問いかけを始めると、感情が高ぶることを知っていたから。
「もう僕たちは議論をすべきではないと思うよ。今は夕日の燃え上がる時だから」
悪い癖で、僕は再びぎこちなくなっていた。そんな僕に彼女は少しずつ触れてゆき、僕の顔を捕らえると、静かに唇を寄せた。そして、彼女もまたぎこちなかった。
「ごめんね、こんなおばあちゃんで。それも、私、この種のことにほとんど慣れてないのよね」
その言葉に、僕もまた謝っていた。
「なぜ、僕ごときに、こんな価値のない爺に.......」
「あ、『僕ごとき』ってまた言った! でも、今、おばあちゃんの私でも、自分の心が燃えているのが分かるわ」
「そう、僕は、あの太陽のように燃え続けて来たんだ。なぜなら、価値が無い人間は、長い間、いや、生きている間は、せめて自分をさらけ出して燃え続けることしか知らなかったんだ」
「長い間? 生きている間? 其れってどういう意味なの?」
僕は黙ってしまった。これ以上説明を求められていることに、すでに顔は真っ赤になっていた。
「いいわ、わかっているわ。そう、私たち、今は互いに分かり合っているんだもの」