『天津火』
累陰は不可解な質問を紅穂王に向けた。
要塞『日烏』。その原動力たる力を紅穂王は知っていた。
五つある『火種』の内、『炎立つ稲穂』が要塞『日烏』の機関室に据え置かれている。この『炎立つ稲穂』の放つ火力によって要塞『日烏』は動いていた。
しかし、確かに白裂侵略の最中、『日烏』は機動しなかった。その旨は紅穂軍伝令部を通じて紅穂王の耳にも届いていた。
そうして今、妖しき宦官がその理由をわざわざ聞いてきているのだ。
紅穂王は苦笑いを浮かべた。
簡単な話だ。
原動力である『炎立つ稲穂』を抜いてしまえば、機動も稼働も何もない。
燃料を抜いた戦艦のように、そもそも電源が点くことすらない。
差し詰め、この宦官が先駆けて『炎立つ稲穂』を抜いたのだろう。どこまでも手抜かりない輩だ。
「お主が『火種』『炎立つ稲穂』を奪い去ったのであろう。紅穂軍も舐められたものだ。貴様のような妖しき輩に籠絡されるとはの。」
紅穂王は累陰をきつく睨んだ。
「お見事です。殿下。流石、一国の主であるその御身分は伊達ではありませんね。」
累陰は紅穂王の射るが如き炯眼をものともせず、狡猾な笑みを見せた。
「『炎立つ稲穂』奪取、面白かったですよ。紅穂兵に至ってはまるで私の存在に気が付きませんでしたがね。」
国家要衝の砦を内部崩壊させるとは、やはり此奴は只者の宦官ではない。
宦官という身分で政治に手を染めることは愚か、国家間の紛争を誘発するなど、一般人には到底成し得ないはずだ。
…何らかの組織や機関の援助を受けない限り。
もしそうだとすれば、紅穂王一人に対処できる問題ではなかった。それどころか、紅穂一国の問題を優に越えて、各国の対応が求められる問題になる。
否、紅穂が落とされた以上、既に、そのような問題になっていたか。
考え込む紅穂王に妖しい微笑みを浮かべたまま、累陰は黒く金属光沢を輝かせる短剣を懐から取り出した。
短剣を両手で握ると徐に走り出した。
「貴方には死んでもらいます。今まで私の思うままに動いてくださってありがとうございました。後の事はお任せください。それでは紅穂王殿下、さようなら。」
咄嗟に傍に控えていた兵士が紅穂王を庇った。
鮮血を吹き垂らしながら兵士が倒れた。
「ええい、この期に及んで無駄な事を。」
宦官が叫びながら再び突進した。
それが合図であるかのように戦艦内の白裂兵が紅穂兵を取り押さえ始めた。
津雲を見捨てた忍者のように気配の薄い男も、その手に剣を握り、紅穂兵を斬り捨てた。
紅穂兵と白裂兵が睨み合う中で、迫り来る累陰の突撃を紅穂王は愛用の重剣で弾いた。
弾いた遠心力を利用して累陰を叩き斬ろうとする。
攻撃を受けた以上、反撃を禁じ得なかった。
しかし、累陰は紅穂王の斬撃を軽く躱し言い放った。
「遅いですよ。老懶の身にして良く剣を握りましたね。」
「齢など関係ない。貴様が紅穂を、世界を混乱に陥れようとしているのなら、私は、私たちは必ず貴様を灰燼に帰す。」
紅穂王が重剣を握る手に力を込めた。
「火禱『天津火』」
全身の筋肉を隆起させ、紅穂王が瞬発した。
目にも留まらぬ速さで累陰に迫ると、炎を纏った重剣が空を斬り裂きながら薙ぎ払われた。
緋い光が一閃を描いて消えた。
重剣が燃え滓を散らして『紅鴉朱』の床に落ちた。
その上へ火のように赤い純血が流れ落ちた。
妖しき宦官は眼を見開きながら紅穂王を見詰めている。
黒く輝く短剣が紅穂王の腹部から引き抜かれた。
止めどなく血を流しながら紅穂王が崩れ落ちた。
どよめく紅穂兵たち。
白裂兵すらも想定外であるかのように驚愕していた。
霊魂を揺さぶりながら紅穂王が絶叫した。
「全軍に告ぐ。この卑しき宦官を拘束せよ。紅穂を、白裂を、守れ。人々を…守れ…。」
紅穂王が自らの血でできた池へ倒れた。
累陰はその様子を見て満足そうに嗤い、両腕を大きく広げて悦んだ。
「ふひ、ふひひ、ひゃははははは。」
そこに今までの恭しい様子はなく、世を混沌に招き入れる妖しさが溢れていた。
「紅穂王、貴方の存在が非常に邪魔だった。白裂と紅穂が自ずから戦争を起こしてくれれば良かったものを、貴方が矢鱈白裂と交友関係を築くものだからわざわざ私が進軍を唆す羽目になった。貴方が私の傀儡となれば事は円滑に進んだものを、厭に手間取らせてくれた。さぁ、代償を払っていただきましょうか。」
宦官は血塗られた短剣を振り回しながら狂ったように喚くと、足音を大袈裟に鳴らしながら忍者男と共に『紅鴉朱』機関室へと入っていった。




