牙獣の猛攻
弱弱しい呻き声が地を這って伝わった。
「避けられなかった……!?」
地面に強く打った鼻が痛い。滲むような感覚が頭をゆっくりと揺らしてくる。
同時に、身体が容赦なく悲鳴を上げる。
全く動きについていけなかった。
走り始めから最高速度へ達するまでの速さが、玄焚がいつも見ていた獣とは少し異なっていた。
それはまるで、今までとは違う生き物であるかのような…。
「ぼーっとするな。また突っ込んでくるぞ!」
九狼が叫ぶ。いつの間にか木の上に移動していた。
あいつ…。
突進をやめた獣は、満足そうに大きな牙を振るわせたかと思うと、荒々しい吐息を振り撒きながら、再び大地を蹄で削りはじめた。
まるで、水を得た魚、否、この場合は大地を駆けた獣とでも言うかのようだ。
「この牙獣、やけに速くないか?」
「玄焚、お前、最近林道に出てないだろ、近頃はこんな感じだぜ。ちなみにこいつの名前は…おっと、おしゃべりはこれくらいにしといた方がいい。」
不覚にも九狼の言う通りだった。
強か大地を蹴り上げた大猪は、先程と同じ軌道で激突してきた。
「避けられないのなら…。」
防ぎ、反らすだけだ。
速かろうが、強かろうが、所詮は単なる直線的な突撃に過ぎない。
力の集約している核心を受け止め、こちらを重心に外側に少しずらしてやれば、避けずともやり過ごせる。
玄焚は剣を両手で盾のように構えた。
この剣が、衝撃に耐え得るに賭けるしかない。
師匠…。陽夏……。俺を守ってくれ。
願うように思い浮かんだのは、共に城下町を過ごした女の子だった。
同時に剣を持つ手に力が入る。覚悟を決めて、牙獣を見詰めた。
…来るぞ。
鉄と肉の衝突する鈍重な音が響いた。
予想通り牙獣の赤く腫れた鼻が鉄の塊に触れた。
圧力が拮抗する。
ぶつかった痛みも気にせず、双つの牙が脚を動かし続けた。
蹄が地面を抉り、掘り進め、更には空中に煙を立たせた。
このまま、ほんの少し力の向きを反らし、吹き飛ばす…!
身体を思い切り捻り、剣を横に向けた。
片方の牙が玄焚の頬を掠める。
「弾けろぉぉ!」
叫びながら、力任せに剣を引いた。
圧力は挫かれた様に玄焚から離れて行った。成功だ。
「ぐっ…はっ!」
しかし、その反動で玄焚は完全に体勢を崩した。
これでは追撃を加えられない。
勢いを反らしたのはいいが、攻撃ができなければ、堂々巡りだ。何とかして、剣を振らなければ…。
この体勢でできる攻撃は、ただ単純に剣を縦に振るうのみ。
傷は浅いかもしれないが、確実に流れを変えられるはずだ。
もう意地で構えるしかない。強引に上段に構えた。
そのまま振り下ろす…。
悪足掻きのように振り下ろされた剣は、易々と獣の牙に防がれた。
なぜだ!体勢が崩れているのはお互い様のはず。いや…。
見ると、玄焚が剣を振るう前に、牙獣は身体の平衡を回復していた。
そのままの勢いで牙を振り回していたのだ。
防がれた剣戟は、止まることなく、反対に空中を舞った。
やられた。一本取られた。
剣が飛ばされてしまった。剰え、こちらは体勢を崩しているというのに。
負けた。こんなどこにでもいる獣にさえ、遅れを取るなんて。
牙獣の牙がやけにゆっくりと近づいて来る。
師匠。ごめんなさい。『火柱』になるどころか、一人前の剣士にすらなれなかった。
陽夏、もう一度君に会いたかった。もう一度でいいから、君の笑顔を見たかった。
俺はもう…。
牙獣は太陽を背で隠し、玄焚の身体を陰に包み込んだ。
遂に、玄焚は自らの顔を両腕で覆い隠してしまった。




