夢幻の月
その日はとても幸せだった。鍛錬、勉学、礼式ーーー総てが輝いて見えた。いつもなら嫌に思えていたことが一転して楽しかった。こんな晴れやかな気分は久しぶりだ。
口角を仄かに上げた僕に母上が諭すように言った。
「津雲。今日は満月よ。あなたはお月様が好きかしら。」
宵闇を肌色に照らす円な月が優しく輝いている。
僕は月が好きだ。太陽よりも好きだ。でも、夜は少し寂しい。その寂しさを月は照らしてくれる。撫でてくれる。だから、僕の頭に生えた髪の毛は月と同じ色なのだと思う。
「はい、母上。月を好んでおります。」
「そうなのね。綺麗な色をしているわよね。」
母上は涙を流しながら月を見ている。
「でもね、津雲。月を見続けてはいけないよ。お願い。覚えておいて。津雲には、偶にはお天道様も見てほしいの。何よりも、均衡を保つことが大切なのよ。」
その震えた声を聴くと何かが頭の中を揺らした。同時に、目に見える月も震えて歪んでくる。
月も母上も声も、全部視界の中で捻れて混ざった。
ああ、そうか…。母上…。これは全て夢幻の出来事だったのか。
…そうだよな。母上は数年前に亡くなったんだ。父上は一国の主だと言うのに心此処に在らずの状態になってしまった。
それ故、白裂が彼奴に乗っ取られてからは、僕が建て直すために王子として鉄剣を振るっていたのだ。
あの如何わしい礼服姿の男に、結晶体を盗むよう言われていたんだ。
いや、そもそも白裂をここまで悪質化させたのは、あの礼服だ。彼奴が来てから、父上も目線を虚ろにして妄言を吐くようになった。全てを狂わせているのはあの男だ。
赦すな。あいつを。
黒い霧が晴れていく感覚の中で、眼に見えたのは肌色の甲殻を持つ大蟷螂だった。




