英雄様のお気に入り
「……くっだらないわ」
読みかけだった本を閉じて、カリーナは物憂げな溜息をついた。本の表紙には、雄々しい騎士が、美しい姫君と熱烈に見つめ合っている。
客の一人から渡されたこの本は、今巷で人気だという恋愛小説なのだそうだ。何でも実話を元にしていて、特に騎士のモデルはこの国の英雄様なんだとか。
物語の筋書きは至ってシンプル。
国の危機を救った男が、報奨としてその国の姫君を娶り愛を知る……という、王道の展開だ。
別にそれ自体はいい。よく見る話だ。
しかし……当て馬女だけがなんとも頂けない。
『うふふ。騎士様? 今度はいつ私の所へいらしてくださるの?』
そう言って、姫君の前で騎士の腕に豊満な胸をこれでもかと押し付ける妖艶な美女。過去、騎士が戦いで昂ぶった体を鎮めてきた馴染みの娼婦である彼女は、大変分かりやすい当て馬だった。
この“過去、体の関係があった娼婦”の乱入を極上のスパイスにして、姫君はついにその恋を自覚する。そして、騎士と体を繋げる決心をするのだ。
うむ、とても王道の展開だ。
……しかし、同じ娼婦として何ともやりきれない。
「都合のいい捌け口にされた上に、お話でもこんな扱いなんて」
窓の外では、件の英雄様の話がひっきりなしに飛び交っている。
ついに黒竜を倒したとか
大きな魔獣を従えたとか
やっとこの町に帰ってくるとか
正装で凱旋する姿が勇ましいとか
――――綺麗なお姫様と、婚約したとか。
「……ほんと、私達って何処でも損な役回りだわ」
かつて“英雄様のお気に入り”と呼ばれた娼婦。カリーナは、艶やかな黒髪を掻き上げると、重い重い溜息をついたのだった。
――この国には、“英雄様”がいる。
ハルト・ギデラン。
田舎出のしがない冒険者だと名乗る彼は、国家主催の剣術大会で彗星のごとく現れ、あっという間に並み居る猛者を打ち倒した。そして数多の試練を経て、国宝である竜を倒せる伝説の剣にまで主人として認められた稀代の“英雄様”である。
圧倒的強さを見せつけた“英雄様”は特別に護国騎士として任ぜられ、様々な戦場へ駆り出されることになる。彼の活躍で特に魔獣被害が激減し、国はさらに平和になり、栄えていった。
めでたし、めでたしである。
さて、騎士や傭兵など、戦いに身を置く職業の者には切っても切り離せない事がある。戦闘により身体と心が昂ぶった“英雄様”をお慰めする者も必要になったのだ。
彼に恋人や妻がいれば話も早かったのだが……いないのだから、仕方がない。
そんな訳で、英雄様は娼婦を探しに下町へやってきて、発散の場として適当な娼館を選んだ。それがたまたま、カリーナのいる花宿亭であった。
『俺が抱いても壊れない女はいるか?』
突如現れた“英雄様”に、娼館は上を下への大騒ぎになってしまった。そして指名を受けたのがベテラン娼婦、カリーナである。
カリーナが英雄様に宛てがわれたのは、その手練手管を買われたからに他ならない。英雄様の欲は凄まじく、並の娼婦では相手にならない。発散させる前に潰れてお終いなど店の損失だ。
果てても尽きぬ昂ぶりを受け止め、適度にいなせる……ベテラン娼婦として名高かったカリーナは、彼を相手取れる数少ない逸材だった。
『もう一回、な? 良いだろ、カリーナ』
そう言って、自身を見下ろす彼の瞳を思い出す。ギラギラと欲に濡れた蒼い色は美しく、耳元で囁かれた重低音に鼓膜と頭が痺れたものだ。
そうして請われるまま、何度も体を重ね、滾る熱を受け止め続けてきた。もうお互いの体に知らない所はないくらい、激しく濃ゆい夜を過ごし――
「……はぁ、私も未練がましいったら」
胸の奥がきゅっと苦しくなり、カリーナは俯いた。
英雄様との関係は『娼婦と客』。戦いから帰ってきたら、心を労り体を繋げて、お金を貰うだけの関係だ。閨の中で甘い雰囲気になることもあるにはあったが、そんなの娼婦の日常だ。客が来る度、いちいち本気にしていたらキリがない。
どんなに激しく体を合わせても、親しく耳元で愛を囁かれても、それは一時の夢。カリーナは妻でもお姫様でもない、ただ昂ぶった欲の捌け口……娼婦なのだから。
――――そう、分かっていたのに。
ままならない胸の痛みに眉を顰め、ギュッと目を閉じる。
熱を鎮めた翌朝、微睡む彼の髪を梳くのが好きだった。生傷の絶えない肌に薬を塗るのも、大きな古傷に口付けるのも、彼と夜を過ごした娼婦の特権だった。……これからは、それも全て正式な妻の特権になるのだろう。
そして娼婦とは違う、心も体も英雄様しか知らない無垢なお姫様と幸せな家族を作ってゆくに違いない。粗野に見えるが、カリーナのような娼婦にも気遣いを忘れずまめなところもある男だ。子どもが出来れば良い父親になってくれるに違いない。
一方、カリーナの生活はこれからも変わらない。生きるために他の男に肌を許し、お金を稼ぐ日々が続くのだ。順調にいけば、娼館の次の主にだってなれるかもしれない。それはそれで、充実した人生。
ただ、ずっと。
心の奥で、身勝手な男に恋をしたまま。
「いい加減、吹っ切らないと駄目ね。私も」
階下で彼女を呼ぶ声がする。今日のお客が入ったのだ。
カリーナはベテラン娼婦らしく妖艶な笑みを浮かべると、先程の憂鬱など嘘のように優雅に階段を降りていく。
「カリーナ! い、いつものご指名だよ!」
「はいはい。いつもの…………え?」
……そして、我が目を疑った。
短く整えられた金髪、真夏の空のような蒼い瞳。大柄な体格のせいで、騎士の正装が窮屈そうに見える。
やけに綺羅びやかな格好以外は、本当にいつも通りに。
彼は整った顔面に似合わず、柄が悪そうにニヤリと笑う。
「…………よぉ、カリーナ」
大通りで凱旋の先頭に立っているはずの“英雄様”が、何故か、下町の娼館に現れたのである。
◆◇◆
「ねぇハルト、こんな所に居ていいの? 貴方、今町を凱旋してるんでしょ?」
窓の外では、歓声がひっきりなしに上がっている。時折「きゃあー!英雄様ー!!」なんて黄色い声も聞こえてくる。
だというのに、当の英雄様がしがない娼館にいらっしゃるとはどういうことか。
カリーナの問いかけに、英雄になった男は軽く笑って肩を竦めた。
「似た髪色の奴に替え玉を頼んできた。遠目からだし、誰も気づかねぇよ」
「でも、そんな事してバレたら……あっ!」
そして剣だこのある、ゴツゴツして大きな手が、流れるような動作でカリーナの細腰を抱く。体を引き寄せられ、こめかみや頬に軽いキスを落とされれば、本命に現金な体はあっという間に蕩けてしまった。
いつもなら、この辺りでもうベッドへ雪崩れこむ所だが……今日のカリーナはいつもと違う。
「お、王女様と、婚約するって聞いたのだけど」
「あ? あぁ、まぁそんな話もあったが」
こともなげにそう言われ、豊かな胸の奥がズキリと痛む。恋心に正直な自分自身に苦笑しながら、カリーナは精一杯余裕そうに微笑んで見せる。
その微笑みに何を感じ取ったのか、英雄様は気まずそうに頬をかいた。
「あ゛ーー……カリーナ。それでだな、俺も……そろそろ所帯を持って落ち着きてぇと思ってる」
「――――ッ」
ひゅっ、と喉奥が狭まる。
つまり、彼は、カリーナとの関係を清算しに来たのだ。結婚相手である王女様と、清廉潔白な誓いをする為に。
「その……これまで散々お前に世話になっといて、こんな事まで頼むのも、なんなんだがよ」
そうだ。ずっと寄り添ってきた。ずっとずっと、戦いに出る彼の事を支えてきたのは娼婦のカリーナだ。弱くて可愛らしいポッと出のお姫様なんかじゃない。
内心は泣き叫んで、胸を叩いてやりたい所だったが、それを言うのはベテラン娼婦の矜持が許さない。
「俺もいい加減、お前に対してケジメをつけなきゃなんねぇと思ったんだ」
「…………そう」
「ああ。……だから、ここに来るのも今日でお終いだ」
彼の蒼い瞳には、決意の炎が燃えていた。お姫様との結婚は彼の心を変えるほど魅力的だったのだろう。そりゃあ他人の手垢に塗れた娼婦より、無垢な姫君のほうが良いに決まっている。
でも頭では納得できても……何よりカリーナの心が納得出来なかった。
「――なら最後に、ココで私を抱いていってよ」
肩を押し、英雄様をベッドに軽く押し倒す。鍛え上げられた体の割に、存外あっけなく仰向けに倒れてくれた。
腹に乗り上げて見下ろせば、英雄様が目を見開いたまま固まっている。良い手応えだ。これなら、最後のひと押しで落ちてくれるだろう。
するりと細い腕を首にまわし、鮮やかな紅を引いた唇を寄せる。髪紐を解けば、艶やかな黒髪が肩から背中へ滑りおち……芳醇な薔薇の香りが広がった。
「最後なんでしょう?……なら、せめて私に思い出を下さいな」
「…………いいのかよ、お前。それで」
そう言われ、カリーナは内心で己を嘲笑う。本当に、これではお話の中にいたあの当て馬娼婦と同じではないか。
手垢のついた商売女では、無垢なヒロインには敵わない。そう分かっているのに、手を出さずにはいられない。何て、諦めの悪い役どころ。
――――それでも。
「いいの。これで、いいの」
娼婦として生きてきたカリーナは、こういうやり方しか知らない。だから精一杯、ベテラン娼婦らしく、妖艶に微笑んでやった。
……せめて、『過去出会った中で一番の女』と覚えてもらえるように。
「そうかよ」
“英雄様”の唇が、カリーナのそれと重なる。柔らかな口づけは、やがて貪るように獰猛なものへ変わっていく。
「ずっと愛してる……俺の、カリーナ」
何度も耳元で囁かれる最後の睦言が、胸を締め付けて涙が溢れる。その涙は気持ちいいからだと言い張って、カリーナは彼の逞しい背中に縋りつく。
それから藍色の空が白むまで、カリーナは己の魂に刻みつけるように、英雄様と激しい一夜を過ごしたのだった。
◆◇◆
「長い付き合いだったが、この娼館ともお別れだな」
「…………う、ん」
朝日を浴びる英雄様は、清々しい笑顔でそう言い放った。全く、未来の明るい英雄様はお気楽なものだ。こちらは失恋して傷心だというのに。
……しかし、次の瞬間。シャツを羽織る背中を見守っていたカリーナに、予想もしてなかった言葉が放り投げられた。
「おい、ぼーっとしてんな。昨晩此処に来るのは最後だっつったろうが。テメェも荷物纏めろよ」
「え?」
「あ゛ーー……つっても動けねぇか。昨晩かなり手加減せずにやっちまったからな……すまねぇ。責任取って手伝う」
「……え?」
首を傾げている間に、何故か彼に上等な服を着せられた。そして、なぜだか荷物を纏めさせられて、気付けば娼館の外にいた。
状況を飲み込む暇もなく、娼館総出で見送られ……カリーナは馬車に揺られて運ばれていく。
そうして気づけば、大きなお屋敷の大きな部屋で、何だか豪華な部屋のベッドに腰掛けていた。
「ええと。これ、どういうこと……?」
『娼館の外へ出された』という事は、『カリーナは身請けされた』という事だ。
しかし、近々お姫様と結婚するらしい英雄様が、しがない娼婦を買い上げる理由が皆目見当もつかない。
――あ、もしや、体の相性がいいからお妾にするってこと!?
娼婦を身請けする理由としては、それくらいしか考えられない。しかし、結婚したばかりでそんな事、新妻が許すとは思えないのだが……。
うーん、ともう一度首を捻るカリーナは、今度は脇に控えた侍女の言葉に耳を疑った。
「御用の際には何時でも鈴を鳴らしてお呼びくださいまし――――『奥様』」
「へ?」
聞き間違いだろうか。
「ええと、貴女。私の事、何て呼んだの?」
「? はい、『奥様』」
聞き間違いじゃなかった。
「お……奥様ぁあぁああ!!!!?」
カリーナの叫びは屋敷中に響き渡ることとなり。今度は大きなお屋敷が、上を下への大騒ぎになったのであった。
――後世でも名高き“黒竜殺しの英雄”、ハルト・ギデラン。
その物語は心躍る数多の冒険、雄壮に満ちたものだが、私生活では愛妻家としても知られている。
黒竜を倒した報奨金を注ぎ込んで彼が娶ったのは、昔から懇意にしていた娼婦であったという。
満を持して迎えた愛しい女に、何だか凄い誤解をされていたとか
散々言葉が分かりにくすぎると叱られた挙句、プロポーズのやり直しを要求されてしょんぼり項垂れたとか
その後も専ら、元娼婦の妻に頭が上がらなかったとか……
『百戦錬磨の英雄様も、奥方には滅法弱かった』
英雄譚とは打って変わり、彼ら夫婦の平凡なお話は、生温い微笑みと共に今も語り継がれている。