冬来たりなば
春遠からじ。
こちらはまだ桜が咲いていません。
仕事帰り。愛用のショップバッグから転げたもの。
見切りシールの貼られた塩漬けの葉っぱ、こしあん。食紅。
以上。
「マジかー」
確かにマイナー食材ではあるが、まだ月も変わっていないこの時期に、まさか売っていないとは思わなかった。
それは道明寺粉。
先日のひなまつりで食べそこなった桜もち。
ならばいっそ作ってやれと一念発起し、今日の仕事帰りに職場近くの小さなスーパーで材料を買い集めた。ただし肝心の道明寺粉を除いて。
もう少し大きいスーパーなら、と、ダメ元で近所のスーパーにも行ってみたが、目的の物は探せなかった。
「うぇーん、今日はもう桜もちの口だったのにー」
ご飯は昨日作った炊き込みご飯がまだ残ってるし、明日は休みだからのんびり作って食後のお茶しよー、とか思っていた仕事中の私に、五体投地で土下座したい。
傷心のままありものの炊き込みご飯とインスタントの味噌汁で夕飯を済ませ、ナニかまだ食べ足りないので、保存食の戸棚を開ける。
缶詰のみかんとか白桃でも残ってないかと奥の方まで手を伸ばすと、どさり、と戸棚の奥……乾麺や片栗粉、マカロニなどを置いているロフトのような小棚から何かが落ちてきた。
「ホットケーキミックスか……」
おそらく先日深夜に小腹がすいてケークサレを作ったときの残りだろうが、存在自体を忘れていた。
開けてみるとまだもう一回分残っている。案の定、賞味期限は切れていた。
まあ粉モンだし、ちょっとくらい切れてても食べるけども。
「あ、いいこと考えた」
卵信者の私の家では、そう滅多なことでは卵は切らさない。
で、聞いて驚け。
最近のホットケーキミックスというものは、別に牛乳がなくてもホットケーキが作れるのである。
というわけで、シンク上の棚から大きめの金属ボウルを取り出し、戸棚の奥から発見された白い粉をブチ込む。
パッケージの裏の表記に従い、冷蔵庫から取り出した卵と水……いや、ここは鶏がらスープの素を溶かしただし汁でいこう。
ほら、ホットケーキ作るときに溶かしバターとみりんをいれると喫茶店の味、っていうじゃない。
酒じゃなくてみりんてことは、つまり旨味も足してるわけですよ。
ということは、だ。
普通の水ではなく旨味のある水だったらもっと美味くなるのでは?
傍で聞いたらどうしてそうなった、と言われんばかりの超理論だが、私には確信があった。
だって、こないだケークサレ作ったとき、具材として刻んだピーマンとツナ缶の他に、味付けのつもりでコンソメ顆粒入れたけど美味しかったし。
ホットケーキミックスへ絶対的な信頼を寄せている私は、まったくのためらいもなくボウルにだし汁を投入した。
そして、居間の床に転がったままの桜の葉っぱの塩漬けのパックを開封し、数枚をキッチンバサミで細かく刻む。
残りはパッケージごとジッパー袋に入れ、そのまま冷凍庫へ。
スーパーではあらかじめ取り除かれていることの多い大根やかぶ、人参などの葉っぱをあえて好んで食べる人がいる、という話はたまに聞く。
わざわざ探すことまではしないが、私もうまいことそれらが手に入れば、それなりに美味しく調理するノウハウぐらいは持ち合わせている。
とはいえ本来は食用ではない、春を愛でるための桜の葉っぱや花までも食べてしまう日本人の食に対する執念は、正直言ってよその国の人からしたら理解不能だろう。
まあ私は生まれも育ちも日本なので、美味しいと言われればなんでも口に入れてしまう単純明快な胃袋なんだけども。
刻んだ桜の葉は生地の中へ。
ざっくりと混ぜると、ふわっ、と桜もちの匂いがした。
そう考えると桜もちの味や匂いって、ほぼほぼ塩漬けの葉っぱなんだよな、とつくづく思う。桜の花の塩漬けも匂いがしないわけではないが、あれは塩だけで漬けているわけではないので、またちょっと味が違う。
「しっかし不思議だよなぁ。あんなに苦い葉っぱが、塩漬けしただけでこんなにいい香りで美味しくなっちゃうんだもん」
なお、柏餅に巻かれるかしわの葉っぱも、別に食べても死にはしない。
好奇心で生のままの葉っぱを食べたことはあるが、筋張って決して美味しいものではなかったけども。
あたためたフライパンに生地を流す。
ホットケーキとは違い、さほど大きくはしない。同じくらいの大きさになるようにふたつ、並べる。
こないだ学んだ。フライパンを布巾で冷やす必要はない。
ただちわちわと音を立てながら焼けていく生地の表面を確認しながら、じっと待つ。
ひとつ、ふたつと、刻んだ葉っぱのはんてんの合間に穴が開く。
まるで満月のようなその姿に、ほうっとため息をつく。
何年か前に、夜の神社で見た満月。
群青色に暮れていく空の下。白い衣に身を包んだ人形のような少女たちが、月明かりの下で、足音も立てずに艶やかに舞う。
その小一時間の幻想を、私は今も覚えている。
うっすらと乾いてきた生地の縁を、フライ返しで少しだけ持ち上げる。
よし、大丈夫そう。
ひょいとひっくり返し、中までしっかり火を通す。
調理の途中でつい舐めてしまう半生の生地も嫌いではないのだけれど、さすがに余計なことをして腹を壊すわけにはいかない。
二枚の焼けた生地に、買ってきたあんこを適当に挟む。
「わーい、桜のいいにおいー」
本来、どら焼きに使う生地はホットケーキではないのだが、別にうちは和菓子屋というわけではない。し、そこの違いを突き詰めてこだわるほど上等な舌をしているわけではない。
お茶を入れるためのお湯を沸かし、ついでに追加の生地を焼きながら、待ちきれずに先に出来上がったばかりの桜どら焼きをばくりと頬張った。
「うーん……アリよりのアリ!」
鼻に抜ける桜の香りに、さっきまであんなに名残惜しかった桜もちがなりをひそめる。
勢いでぶち込んだ鶏がらスープの素も、なんとなく生地に塩気を感じるとはいえそれほど気にならない。
左手にどら焼きを持ったまま雑に淹れた茶の、ほのかな苦味。
一足先に春が来た口には、ほうじ茶より緑茶の方が合う。
さすがに玉露、というわけにはいかないが、残り物の去年の緑茶でも充分に美味しい。
「そうかー、もたもたしてたらあっという間に新茶の季節か」
新茶の時期がきたら、新茶と、なにかちょっといい和菓子でも買って、外でのんびりお茶するのもいいかも知れない。
それはきっと満月の下で見る神楽と同じくらい、心が満たされるものだろうから。
次回の更新予定は4/25です。