卵とカイワレの親和性
めんつゆは正義
「たーだいま、っと……」
今日も疲れた。
とはいえひとりぐらし歴も二桁を越え、親の老後も間近に控えた身としては、日々の生活費確保のためにも、嫌でも馬車馬にならざるを得ない。
働けど働けど。
思わず口をついて出てくるのは、石川啄木の有名な一句。
おうおう、私まだ余裕あるな。
出勤に使っているボディバッグをそこら辺に投げ捨てる。
色気もへったくれもないが、職場と家の往復で日々を消化するだけなら持ち回りのものなど実用性重視。
それでも恋人のひとつもいれば小振りのハンドバッグのひとつも持ち歩くのだろうが、残念ながら彼氏いない歴イコール年齢の平成ジャンパーな私に、そのような乙女心などありようはずもない。
だいたいあんなちっこいもん、ちり紙ハンカチ以外にナニを入れられるというのか。
財布やスマフォなんかはいったいどこに入れろと。
他にも日常的に持ち歩くべきものはいろいろあると言うのに。
さて、と後頭部で結わえたポニーテールをほどいて一息つけば、部屋の中にはほのかに甘い匂いがただよっている。
朝のうちに予約炊飯しておいた白飯だ。
しゃもじを片手にいそいそと釜を開けてみれば、真っ白なお米の粒がぎっしりと並んでいる。
「炊きすぎたかな……いいか、残ったら冷凍すれば」
まるで花嫁衣裳みたいな真っ白ごはんに、少しだけためらいながらしゃもじを突き立てる。全体をざっくりほぐせば、帰ってきたときよりももっと強く、甘い香りが鼻の奥にまで届く。
着替えをする間も惜しんで、仕事着のまま愛用のどんぶりにごはんをふんわりと盛り付ける。
しゃもじに残ったごはんを茶碗のふちでこそげとるなんてもっての外。
つい出てしまった手は、実家だったら絶対に怒られる奴。
「あふい……でもちょうどよく炊けてる」
私の好みのかたさは、ちょっと固め。
柔らかめに炊いたねっちりとしたご飯も嫌いではないのだけど、個人的にはしっかりと歯ごたえのあるぱらっとしたご飯が私は好きだ。
とはいえ、タイ米はちょっと違う。
やや水分を少なめにして炊いたジャポニカ米が至高。
……なーんて、おコメどころの人が聞いたらニワカって言われちゃうんだろうな。
ちなみにお米の種類まではこだわってない。
そのときそのときで「なんか美味しそう」って思った米を適当に買う、ニワカお米ファンだ。
さて、ご飯はあるけどおかずはどうしよう。
とりあえず冷蔵庫を見てみたが、酒と調味料と卵ぐらいしかない。
たまごかけごはんじゃさすがに味気ないし。
「まあ、これでいいか」
窓辺で上半分ほどがカットされ、無残な姿のカイワレ大根の根っこ。
白地に茶色の水玉模様みたいなそれは、無造作にタッパーに満たした水に漬けられている。
そして一度は美味しく食べ尽くされたそれも、一週間ほど経った今ではちらほらと新しい緑の葉が伸び始めていた。
洗ったまま片付けていないキッチンバサミで、ちょんちょんと緑の葉を摘んでいく。
ぱっと見では大した量には見えなかったが、実際に収穫してみれば一食分には十分すぎる量がその手に集まった。
ざっと水を通してから、百均で買った小型のフライパンにぱらりとそれを散らす。
もう十年以上前になるが、ひとり暮らしを始めるにあたって両親が最低限のキッチン用品を揃えてくれたときに、私は「玉子丼の鍋が欲しい」と切実に思った。
玉子丼、親子丼、他人丼、カツ丼。
半熟の卵に甘い玉ねぎ、ところによりスライスしたしいたけ。
要するに、とろとろの卵がつるんと銀色のアルミ鍋から滑り落ち、ただの白飯がごちそうになるあの瞬間が好きだった。
結局のところ、アルミ鍋自体はそれほど高いものではなかったが、そもそもちゃんと自炊をする自信がなかった私は、それを親には言い出せなかった。
それでもひとり暮らしや自炊にいくらか慣れてきたころ、たまたまホームセンターで見つけて親子鍋(正式にはこう呼ぶらしい)を大喜びで購入した。安物だったせいか、すぐにダメにしてしまうことにも気づかずに。
で、今に至る。
なんやかんやで使い勝手のいい、手のひらサイズのフッ素コートのフライパンに散らしたカイワレ大根に、適当な量のめんつゆと水を入れて加熱。
冷凍庫に残っていたスライスしいたけもついでに入れる。
おっと、大事なものを作り忘れてた。
めんつゆがぶくぶくと沸騰してきたところで、お椀でざっくりと溶いておいた卵をくるりと流しいれる。
具材と共に鍋の中でひらひらたゆたう黄身の色は、まるで少女のスカートのように可憐で可愛らしい。
まだ透明感のある白身は、オーガンジーのレースのヴェール。
ぐつぐつと彼女をリードするのは、誰でも簡単美味しく味付け、ひとり暮らしの味方の市販のめんつゆ。
調理の合間にささっと作ったアルミホイルの蓋を、コンロの火で燃やさないように気を付けながらフライパンにかぶせ、火を少し弱める。
そのまま待つこと、数分。
「そろそろかな」
アルミホイルの蓋をそっと開ける。
うん、いい半熟具合。
ふちのちょっと固くなった部分を箸でぐるりとはがし、そのままつるん、と丼のご飯に滑らせる。
これでフィニッシュ。
初めのころは、なかなか上手く出来なかった。
玉ねぎがほぼ生だったり、具の主張が激しすぎて卵がばらばらになってしまったり、卵がちょうど半熟になるタイミングが掴めず、完全に固まってしまったり。
手を滑らせてまな板の上にほかほか卵をダイブしたこともあったっけ。
それから、こうして「要するに卵でとじてあればいいんだろう」と、家にあるもので適当に作る、ということが出来るようになるまでは、夜に玉ねぎを買うためだけにコンビニを巡ったりもした。
「うん、カイワレあんま得意じゃないけどアリだな」
レンゲですくった出来立ての玉子丼を、ふうふうしながら頬張る。
とろっととろける甘い半熟卵に、ぴりっと辛いカイワレ大根のしゃきしゃき感がなかなかいい。
卵の黄色にカイワレの緑が映えて、彩りも充分。
そして台所四天王・めんつゆの、縁の下の風格。
「あっ、やばい。お代わりするところだった」
しゃもじを握ったところで正気に戻る。
夜の丼ご飯二杯は、不惑のお年頃が近づく身ではちょっぴりリスキー。
代わりに、さっき卵を溶いたお椀に少しだけ顆粒のコンソメと塩を足し、お湯を注ぐ。
「……明日は残ったご飯でおにぎりでも作っていくか」
具に出来るものは何かあったかな、と思案しているうちに、即席スープの熱で満たされた私の胃袋は、私を強制的に眠りの世界へと誘った。
次回の更新予定は10/25です。