第9話 -休息-
わたしがこの世界に召喚されてから七日が経過しようとしていた。
今日も今日とてこの世界の文字についてお勉強の日々だ。
簡単な本なら読めるようになってきたが、まだまだそうとんとん拍子にはいかなかった。
今現在に至っては、午後になってから神官様に渡された本と格闘中である。
あと数日もすれば国王様が戻られ謁見することになるから、この世界について少しでも知識をつけろということらしい。
かれこれ二時間は本と睨めっこをしているが、全く進んでいない。覚えていない文字やうろ覚えの文字の羅列が現れる度に調べるということを繰り返していたからだ。これでは一向に内容が頭に入ってこない。
文字の勉強にもなるからと言われれば頑張るしかないが、このままではほとんど読むことが出来ずに謁見の日を迎えることになりそうだ。
それってどうなの、時間無駄にしてないか?と思わずにはいられないが、あの悪の帝王の逆鱗に触れやしないかと思うと投げ出すわけにもいかない。
あのスパルタ学習期間で身に付けた『神官様の怒りを華麗にかわす』というスキルは不発のことが多い。
それはわたしがうっかりさんなところがある為でもある。ついうっかり口が滑ったり、馬鹿正直に反応したりしてしまうからだ。大事なことはしっかりと心に留めてうっかりすることはないのだが、気を抜いているときは結構やらかしてしまう。
そんな時はいつも決まって神官様の鋭利な視線がぐっさりと突き刺さって大ダメージを食らってしまうのだ。
あまりにも解読困難でどうしようもない場合は、最後の手段として『読み聞かせして下さい』とお願いする他ないとも思っている。それはもう大ダメージ覚悟の上で。
神官様の方はというと、身体も大分回復した様で、今日から執務室の方で仕事をしている。
午前中は結構来客もあった。神官棟の職員や文官、騎士までもが入れ替わり立ち代わりやってきていたのだ。
わたしはというとそんな大忙しの神官様の邪魔にならない様に、執務室の隣にある休憩室のソファに座って本を読んでいた。いつものプライベートルームのソファでは距離が離れすぎてしまうのか時折引っ張られてしまったからだ。
難解な文字にとうとう完全に手が止まってしまったわたしは、本を一旦閉じるとふぅっと息を吐き出した。
深く深呼吸をすればぐるぐるもやもやしていた頭も霞が晴れていく。
一度頭をスッキリさせようと立ち上がり給湯室へと向かった。
途中でふと立ち止まり、執務室へ続く扉へ聞き耳を立ててみた。話し声が聞こえてこないので、神官様一人なのだろう。わたしは扉をこんこんとノックして執務室へ顔を覗かせた。
「…どうした」
ノックの音が聞こえたのだろう。神官様がこちらを見ていて声を掛けてきた。
「お茶を淹れようと思いまして。神官様も如何ですか?」
「―――…もらおう」
神官様は一瞬思案すると、手元の資料に視線を戻してから顔を上げるとそう口にした。
わたしが扉を閉めようとすると、再び神官様の声が聞こえた。
「そちらの休憩室でもらう」
「わかりました」
てっきりそのまま執務机で小休止すると思っていたがどうやら休憩を入れるようだ。
手元の書類にすらすらと文字を書き込んでいるところを見ると、キリの良いところまで終えてから席を立つのだろうと思われた。
わたしは今度こそ給湯室へと入りお茶の準備をした。
茶葉とお茶請けのお菓子は毎朝スヴェンさんが準備して置いていてくれる。
いつでも好きな時に食して良いと言われていた。無くなれば補充するので呼び鈴を鳴らす様にとも。
紅茶を二つとクッキーを準備し終えると、それらをトレイにのせて休憩室へと向かった。
「あれ、ジェイドさん。いつの間にいらしたんですか」
「ついさっき。彼と一緒に」
執務室には神官様しかいなかったので紅茶は二つしか準備していない。
わたしはそのまま二人が座るソファまで行き、先に神官様とジェイドさんに紅茶を出した。
「こいつの分はいらないぞ」
「うわっ酷い」
「突然くるお前が悪い。それにその紅茶は彼女の分だ」
神官様はぶつぶつ言っているジェイドさんをジロリと睨み付けた。
紅茶を差し出したわたしにジェイドさんは申し訳なさそうな顔で謝ってきたが、気にしないように言ってすぐにもう一つ紅茶を淹れて戻ってきた。
神官様と二人だと沈黙の時間の方が長いが、ジェイドさんがいると会話が弾む。
普段から明るい雰囲気を纏い笑顔でいることの多い彼は、この神官様相手でも怯むことがほとんどない。
神官様の部屋にも良く顔を出しているし、二人のやり取りを見ていると仲が良いなという印象を受けた。
この数日でわたしもジェイドさんとはかなり打ち解けて話せるようになっていた。
ちなみに、ジェイドさんはわたしを『ユズハ様』と呼んでいたが、様づけされるのがものすごく仰々しいので普通に呼んで欲しいとお願いしてどうにか『ユズハさん』と呼んで貰える様になった。スヴェンさんに至っては何度お願いしても変わらなかったけれど。
わたしの方が年下だし敬語もなしでとお願いしたところ、自分のは癖のようなものなのでと言われてしまった。
「二人って仲が良いですよね」
わたしのその言葉にピシリと固まったのは神官様だ。
ジェイドさんは「ええ、そうなんですよ」と笑顔を見せ、そんなニコニコ笑顔のジェイドさんを神官様は睨み付けている。
何だかとっても空気が冷えていくような気がするのはわたしの気のせいですか?
神官様の様子に表情を引き攣らせているわたしを見たジェイドさんは、神官様の方を向き直るとその右手の人差し指を神官様の眉間にぐりぐりと押し付けた。
「君がそんな仏頂面しているから皆怖がって近寄ってこないんだよ」
「――余計なお世話だ」
神官様はジェイドさんの手を払いのけるとカップを手に取り、残っていた紅茶を飲み干した。
「それにレディの前で見せる顔じゃないね」
その言葉に神官様はその眉間により一層深い皺を刻み、ぷいっと顔を背けた。
二人のやり取りを目をパチパチと瞬かせながら聞いていると、ジェイドさんが神官様のことについて話し出した。
「彼とは兄弟の様に育ったんですよ」
ちなみに私が兄で、彼が弟みたいなものと続けるジェイドさんに神官様はやめろと告げるが、彼はいいじゃない少しくらいと言って話し続けた。
神官様は小さく舌打ちするとそっぽを向いた。
その様子に神官様でも舌打ちするんだ、珍しいものを見たなとわたしは目を真ん丸に見開いた。
それに兄弟の様に育ったとはどういうことなのかと首を傾げているとジェイドさんは話を続けた。
「今から十五年前かな、彼は私の父上に連れられて屋敷にやってきたんです。不幸な事件で家族も家も失ってしまい、親同士が仲が良かったこともあって私の父が後見人になったんですよ。それからですね一緒に暮らす様になったのは」
予想もしていなかった神官様の壮絶な生い立ちに息を呑んだが、そこまで聞いてはたと気づいてぼそりと呟いた。
「…あれ、でも名前は?」
「――そうですね。彼は養子になったわけではないので、ファミリーネームは違います。ですが私達は兄弟の様に育ちましたから、人前では彼をグリフォード殿と呼んでいますが、気の知れた人しかいない時は名前で呼んでいるんですよ、ディクスとね」
「神官様にはよく会いに来られてるんですか?」
「んー前々から顔を出すことはよくありましたが、毎日となると召喚の儀が行われてからですね。顔色が悪いのは昔からでしたが、倒れるほどのことはこれまでありませんでしたし、予想外の事態が起こっているので私も可愛い弟のことが気になってしまいまして」
はははと優しいお兄さんの顔をして笑うジェイドさんだが、その隣には凄まじい冷気を放ち殺伐とした雰囲気を纏っている人がそれはもう形容しがたい形相で座している。
鈍感なわたしでも感じられるその冷ややかで鋭利な気配に、はっきり言って身の毛がよだつ思いがしているのだが、ジェイドさんは全く動じる様子がない。
「――…もう、いいだろう。貴様はさっさと仕事に戻れ」
地獄の底から響いてくるような低く物々しい声で神官様が言い放った。
空になった二人のカップにそれぞれ新しく紅茶を注ぎながら彼らの様子を見守っていたが、その声に思わず鳥肌が立ち、小さく悲鳴を上げそうになってしまった。あの恐怖のスパルタ学習期間に見せた般若のような様相など比べ物にならないレベルの威圧感だ。
「えーまだ君の小さい時の話してないんだけど」
「うるさい、だまれ」
目の前で繰り広げられる会話にどう反応していいか分からず、わたしはただ内心で冷や汗を流すばかりだった。
「顔色と言えば、ディクス最近はよく眠れてる?」
ジェイドさんは機嫌の悪い神官様の言葉そっちのけでそのまま話し続けた。ここら辺はさすが長年一緒に育っただけのことはあってすごいと心の中で拍手を送りたい気持ちで聞いていた。
神官様はジェイドさんの問いかけに短く「ああ」と答えるとわたしが淹れた紅茶を口にした。
「それは良かった。ユズハさんと一緒に寝てるからかな。すごく顔色も良くなったよね」
その言葉に神官様は紅茶をぶほっと吹き出しそうになった。
わたしは慌ててナプキンを手渡し、受け取った神官様はナプキンで口元を拭いジェイドさんをジロリと睨み付けた。
「ディクスなにやってんのさ」
「誰のせいだ!」
「一緒のベッドで寝てるんでしょ。間違ったことは言ってないけど」
「今はもう別だ」
「えっそうなの?つまんないなぁ」
あ、やばい神官様キレそう。
神官様のこめかみに青筋が浮き立っているのが見える。わたしはハラハラしながら二人の話を聞いていた。
とても口を挟めるような状況ではない。
「これ以上つまらん話をする様なら容赦はしない」
神官様の背後にゴゴゴゴと怒りで沸き立つ黒い炎のようなものが見える様な気がする。それは気のせいなのだが、不機嫌さが頂点に達していることは間違いない。冷や汗が止まらないんですけど。
「仕方ない、魔法攻撃受ける前に退散することにするか」
そう言ってジェイドさんは立ち上がった。
え、待ってください。こんな険悪な人をこのまま放置していくんですか、勘弁してください。
わたしは縋る様な目でジェイドさんを見上げたが、彼はわたしの頭をよしよしと撫でた。
「ユズハさん、御馳走様です」
「あ、いえ、お粗末様でした」
ジェイドさんの大きくて温かな掌で頭を撫でられ、その優しさに焦っていた気持ちがほんのり和らぐと彼は穏やかに微笑んで部屋を後にした。
あ、しまった。引き留めそこなった。
御馳走様と言われて普通に返事をしてしまった。
そろりと神官様の方を見ると深い溜息をつきながら紅茶を飲んでいた。
初日に倒れた神官様の顔色はすこぶる悪かった。
召喚と魔物撃退による疲労からかとも思っていたが、ジェイドさんの話を聞くところによると、顔色が悪いのは昔からという事は其れほど前からよく眠れていなかったのかなと思った。
「神官様、本当にちゃんと眠れてますか?」
わたしが恐る恐るそう問いかけると、神官様は伏せていた目を上げてわたしに視線を向けた。
「眠れている」
ふっと息を吐き出した神官様は端的に答えてくれた。けれどわたしの疑念は消えない。
実際のところ神官様がきちんと眠れているのかは気になっていた。
普段はひとりで使っているであろう寝室に他人がいるのだ。そんな状況で果たして本当に休めているのか甚だしく疑問だった。
初日こそ同じベッドで寝ることになったが、二日目からは簡易ベッドが運び込まれわたしはそちらを利用している。
初日は単に準備が間に合わなかっただけのようで、翌日からは別々のベッドで寝ているのだ。
かといってまだそれ程離れられるわけではないから、神官様とのベッドの距離は二メートルほどしか離れていない。
運び込まれたベッドは一人用のもので、神官様が使っているベッドの半分ほどしかない。
最初は神官様がそちらで寝るから、わたしに広い方で寝ろと言ったがわたしは譲らなかった。
本調子でない神官様の方がゆっくりと身体を休めるべきで、使い慣れたベッドの方が良いのは分かりきっていることだからだ。
頑なに譲らないわたしに折れたのは神官様の方で、広いベッドは神官様が使ってくれている。
そのはずなのだが、わたしは何故かいつも神官様のベッドの方で目が覚める。
そして神官様はわたしが目覚める時間には、すでに起きてソファに座り書物を読んでいるか紅茶を飲んでいた。
だからわたしは目が覚めるといつも何故ここで寝ているのだろうかと一瞬青ざめるのだが、神官様は何も言わないし、その顔色は日に日に良くなっていっていたので深く考えないことにしていた。
生まれてこの方、寝相が悪かったり起きたら違う場所に寝てたなんてことはなかったんだけどなぁといつもぼんやりと考えながら起きていたのだ。
ずっとそんな風に起きていて神官様はきちんと眠れているのかと疑問に思っていたので、わたしはその後も質問し続けた。
「悪夢は?」
「見てない」
「夜中に目が覚めたり」
「――たまにはあるが、支障はない」
「……ほんとに?」
「ああ」
話しているとジェイドさんがいた時の不機嫌さがどんどん和らいでいった。
言葉の端々から刺々しさが抜けていったからだ。
神官様の表情も落ち着いたものになっていた。
そんな神官様に訝しむ視線を送り続けていると、彼はふっと笑った。
「お前も心配性だな」
神官様の笑った顔なんて初めて見た。
いつも無表情か仏頂面しか見ていなかったので、そのあまりに綺麗な微笑みにドキリとしてしまった。
普段恐ろしい表情しか見せない美形の微笑みがここまで破壊力があるとは知らなかった。
ドキドキと激しく脈打つ胸を必死で落ち着かせながら、気になっていることをもう一つ口にした。
「…朝、神官様のベッドで目が覚めるんですけど」
「……気にするな」
ちらりと神官様に視線を向けると、彼はふいっと顔を逸らしている。
「ほんとに眠れてるんですか?」
「眠れている」
じと目で若干睨み付ける様にして見れば、一度こちらに視線を向けてからまた逸らした。
そのままじぃっと見つめていたが、眠れているのは間違いないらしい。
わたしが毎朝神官様のベッドで目が覚めることをちらと聞いてみてもはぐらかされてしまった。
眠れているのならいいかとほっと息を吐き出してソファの背もたれに深く背を預けて紅茶の入ったカップを手に取った。
「眠れているのなら良かったです。わたしと離れられないせいで休息もきちんととれていないかもと思ってて」
「ああ、大丈夫だ。むしろ前より眠れ……っ」
神官様は何かを言いかけて口を噤んだ。
手元の紅茶に向けていた視線を上げて神官様を見ると、彼は片手で口元を塞ぎそっぽを向いていた。手の隙間から除く頬が少し赤い気がするのは光の加減か?と首を傾げたが、神官様はコホンと小さく咳払いをすると残っていた紅茶を飲み干し立ち上がった。
「仕事に戻る。御馳走になった」
「…いえ、お粗末様でした」
空になったカップに手を伸ばした神官様にわたしはすかさず声を掛ける。
「片付けはわたしがしますから、気になさらずに」
「…そうか、では頼む」
「はい」
返事をして笑顔を向けると神官様の手がわたしに伸びてきた。
ぽんと軽く頭に乗せられた手が一度だけ撫でる様に動いてから離れていく。
執務室に続く扉がぱたんと閉まるとわたしはソファに深く凭れて息を吐き出した。
「……二人って、やっぱり似てる」
頭に乗せられた手はどちらも大きくて温かく、そして優しい。
わたしはクスリと笑いを零し残っている紅茶に口をつけた。




