第8話 -文字-
部屋には沈黙が続いていた。
先ほどの問いはそんなに答えにくいものなのか?と首を傾げる。
わたしが神官様に悪さするかもと言ったら『そんなこと絶対にありえませんよ』と言い切ったジェイドさん。
そのことが不思議だったので聞いてみただけなのだが。
「――……あのぉ…」
堪らず口を挟んだわたしの声を合図に、神官様はじろりとジェイドさんを睨み付け、スヴェンさんは涼しい顔で新しい紅茶を入れ直しわたし達に出してくれた。
「それはですね……」
どう説明しようかと言葉を探すかのようにジェイドさんの視線が彼方此方を彷徨う。
「―――……オレは害を成すような奴は呼ばない。そういうことだ」
眉間に皺を寄せた神官様が簡潔に説明してくれた。
要するに、害意がないと予め分かっている人物しか呼び寄せないということかと一応は納得したが、ただそれだけの理由でジェイドさんは言いよどむのだろうかとの疑問も浮かぶ。
神官様がジェイドさんを睨み付けたのは、余計なこと言いやがってということか?と勝手に解釈した。
何となく肩透かしをくらった様な回答に微妙な表情で神官様を見つめていたが、この話は終わりだとばかりにぷいと顔を逸らされてしまった。
「それでは、話も一通り終わったようですので我々は引きあげます」
そう言ってジェイドさんは置いていく必要のない書類を手にして立ち上がった。
スヴェンさんもカップを片付けてジェイドさんに続いた。
部屋を出ていく二人について立ち上がり扉付近まできて頭を下げた。
「お時間を頂いてありがとうございました」
わたしがそう言うと二人はとんでもありませんと言って微笑んだ。
そしてジェイドさんはちらりと神官様に視線を向けてからわたしに耳打ちした。
「グリフォード殿はとても人の感情の機微に聡い方でね、自分に負の感情を持つ者は絶対に傍に置かないんですよ」
――ましてや、そんな人と己との縁を結ぶなんて以ての外、ですね。
不意に近づいた距離にドキリとしたが、ジェイドさんの言葉に目を真ん丸に見開いてしまった。
そんなわたしの表情を見てにっこりと微笑むとジェイドさんはそのまま部屋を後にした。
扉がぱたんと閉まったのを合図に、神官様の方へ視線を向けると、何か不穏な動向でも感じ取ったのかこちらを睨み付けていて、小さく身体を震わせた。
「……何か余計なことでも聞いたか?」
「いいぇ、全く。これっぽっちも」
鋭く突き刺さる視線に、わたしはぶんぶんと音でも出そうな勢いで頭を振り知らぬ存ぜぬを貫き通した。
訝しむ様な表情でこちらを見る神官様と視線を合わせないようにしていると、はぁ…と深い溜息を零している声が聞こえてきた。
いや、まぁ…昨日から何度となく突撃、体当たりを繰り返していたけど、それらが決して自分の意思ではないにしろ、神官様は酷い扱いはしなかったなぁと昨夜のことを思い返していた。身体が思う様に動かず出来なかっただけなのかもしれないが。
それでも、もし自分が拒絶されていたとしたら、それはそれは突き刺さる鋭利な刃物のような地獄の底から出したかのような聞けば誰もが震え上がるであろう声で、接近を拒まれていたのだろうと思ってしまう。
そうすると、拒絶の言葉すら浴びせられていない現状は好意的な方なのだと受け取ってもいいのかなと、これまた勝手に解釈したのだった。
ちらりと視線を向けたが、神官様の眉間の皺はまだ刻まれたままだった。
*・*・*
昼食も朝と同じ様にソファで頂き、その後どうしているかというと。わたしは両手で一冊の本を持ち、穴でも開いてしまうんじゃないかと言わんばかりの勢いで、そこに並ぶ文字と睨めっこしていた。
身体が本調子でないにも拘わらず忙しそうに仕事をしている神官様に申し訳ないとは思ったが、することがなくて、かといって神官様と離れられない状態ではこの部屋から出ることもできないので、退屈で仕方がないから何かすることはないかと尋ねたのがことの始まりだった。
―――これでも読んでいろ、と神官様がわたしに渡したのは一冊の本だった。
何の本だろうと首を傾げていると、この国の歴史書だと教えてくれた。
本を受け取ってから表紙、背表紙、中表紙とそれぞれじっくり見ていく。
そこそこ厚い本で五百頁くらいはある。それを一頁ずつ丁寧に捲っていくのだが、わたしの眉間には皺が刻まれていくばかりで頭には?マークが飛び交っていた。
終いにわたしの口からは、うぅと呻き声のようなものまで漏れてしまうのだった。
神官様はそのわたしの様子をちらりと見てから視線をまた書類に戻し、手は動かしたままで問いかけてきた。
「―――どうした」
「…………うぅ……」
そんな神官様にわたしもちらりと視線を向けてから再び手元の本に戻すと小さく呻き声を上げた。
神官様の手元の書類にも、その書き記している文字にも視線を向けてみたが、それらもまた眉間に刻まれる皺の深さを増す要因としかなっていなかった。
ふぅと小さな溜息と共に、ことりと何かを置く様な音がしてちらりと視線を向けると、神官様が手を留め持っていたペンを置いてこちらを見ていた。
「どうした」
再度問われて、わたしは観念して言葉を紡いだ。
「……わかりません」
蚊の鳴く様なか細い声で呟くと神官様が目を瞬いた。
「何がわからないんだ」
「………………全部」
「…………」
「…………」
わたしのその言葉に部屋は沈黙に包まれた。
居た堪れなさにわたしは視線を彼方此方へと彷徨わせた。神官様は僅かに目を見開いて絶句しているようだ。
会話が普通に成り立っているから文字の方も何とかなるかと思っていたが、甘かった。
沈黙に耐えきれず、わたしは両手で抱えた本に顔を埋め、うぅ…と再び呻き声を上げた。
神官様は何か思案している様だったが、テーブルに置いていた呼び鈴を手に取ると小さく鳴らした。
聞こえた鈴の音にわたしが本から顔を上げると、直ぐにスヴェンさんがやってきた。
神官様は紙に何か文字をスラスラと書き込むとスヴェンさんに手渡している。
「そこに書いてある物を持ってきてくれ」
渡された紙に視線を落とし、その内容を確認するとスヴェンさんは返事をして部屋を出て行った。
暫くしてスヴェンさんが手に三冊ほどの本を持って戻ってきた。神官様はそれらを受け取り、本の中身に目を通していた。
スヴェンさんは本を手渡すとすぐに業務へと戻ったので、部屋は再び神官様とわたしの二人になった。
わたしはというと、読めない本といつまでも睨めっこしているわけにもいかないので、観念して本を閉じ膝の上に置いていた。
神官様の様子を窺っていると、スヴェンさんが持ってきた本の内容の確認が終わったのか、その内の一冊を広げてわたしに見せてきた。
「読み書きをはじめる者が最初に使う入門書だ。それからやってみろ」
「……はぃ…」
紡がれた言葉はとても配慮されていたが、ようするに読み書きをはじめる『幼児向けの本』ということだと受け取った。
わたしは消え入りそうな声で返事をすると、渡された本を手に取って書き記されている文字に目を滑らせた。
「……………」
「――…どうした」
本を手に再び固まっているわたしに神官様の声が降り注ぐ。
「……――…せん」
「?」
ぼそぼそと呟いた声は神官様には届いてない。
それはそうだろう。自分の耳にだって届きはしなかったのだから。
訝しむ様にして神官様がこちらを見ている。
わたしはもう一度その言葉を口にした。
「――わかりません」
「……どこだ」
「………………全部」
「…………」
ぼそりと呟いたわたしの言葉に神官様は盛大に溜息を零した。それはとても深く長い溜息だった。右手でその眉間に刻まれた皺を伸ばそうとグリグリと揉み解していた。
その様子にわたしは再び『うぅ…』と小さな呻き声を上げたのだった。
その後、三日三晩に渡り神官様はわたしにつきっきりで文字の読み書きを教えてくれた。おかげで初歩の初歩だけだったが何とかたどたどしくもマスターできた。
「――どうでした?泣く子も黙ると言われる緋の神官様の教鞭は」
身体を捻りソファの背凭れに手をかけて突っ伏しているわたしに、スヴェンさんの淹れてくれた紅茶を優雅に口にした後そう声を掛けたのはジェイドさんだった。
彼は時間が取れるとこうしてやってきてはわたし達の様子を見て、時には間に入り神官様を宥め、難解なこの国の文字について教えてくれたりと心を配ってくれていた。
それは非常に有難かったのだが、時にこうしてわたしと神官様の様子を見て楽しんでいる風もあって、少々納得がいかない。
「……それはもぅ……悪の帝王が……。…あの世を…垣間見ました」
「ははは、それはまた―――期待を裏切らない回答ですね」
笑い事じゃないとジェイドさんをジト目で軽く睨み付けるが、彼は涼しい顔をしている。その様子を見る限りすこぶる楽しそうだ。そのキラキラした笑顔のままわたしの頭をよしよしと撫でていた。
神官様はそんなわたしとジェイドさんをギロリと睨み付けてきたが、もうその程度では怯みません。
この三日三晩で身に付けたのはこの国の文字だけではない。それよりももっと重要な、明らかにわたしに今絶対に必要なスキル、それは『神官様の怒りを華麗にかわす』というこの部屋で過ごす為の処世術だった。
こうして何とか神官様とのスパルタ学習期間を乗り切ったわたしだったが、凄惨で濃密な時間を過ごしたのはわたしだけではなかったらしい。
この間の神官様の仕事は他の神官に回されており、それらを引き受けた彼らがその量に悲鳴を上げ、神官棟の彼方此方に屍となって横たわっていたということを知るのは、わたしがこの部屋を出て自由に歩き回れるようになった頃のことだった。