第6話 -先行き- ※神官視点
召喚を行った己と召喚された人物とが離れられなくなるなど誰が予想できたであろうか。
これこそ想定外の緊急事態である。
召喚を行使することが決定した際、過去の文献には全て目を通した。
あらゆる事態を想定し、事前準備を綿密に行い不安要素は一つも残してはいなかった。そうして万全の態勢で召喚に臨んだはずだった。
世界に瘴気が蔓延すると魔物が活性化しその数を増すとされているが、国中に発生している瘴気は未だ急を要する程には達していない。
この国の騎士団、魔術士団が討伐の為各地へ遠征に出ているが、王宮に届く報告を聞く限り脅威は感じられなかった。
議会でも同様の判断が下され、召喚の儀は予定通り行われることになったのだ。
全てが順調に進んでいた。
まさか召喚の儀の最中に魔物の襲撃を受けるなど。
その事態を危惧していなかった訳ではない。
王族が暮らすこの王都はその全体を常時薄い結界に覆われている。それだけでも魔物の脅威からは護られていた。
結界を突破できるような魔物はこの王都に近づくまでに討伐部隊が殲滅に向かって対処していたからだ。
今回の召喚の儀においても事前に騎士団、魔術士団が討伐に出ており各地で対処に当たっていた。
だから余計に想定外の事態が起こったことに疑惑の念が拭えない。
召喚の儀の最中であったとしても、魔物の侵入があったのなら報告が入って然るべきところだがそれもなく、突然の襲撃に対処が遅れてしまった感は否めない。
儀式が失敗するなどの事態にならなかっただけましである。
――どこに不備があった。
どんなに考えてみても思い当たる節は見当たらない。
取り敢えずは魔物の侵入経路について念入りな調査が必要だと結論を出す。
他にも考えることは多々残されているが、如何せん身体の重怠さに思考もまだ不鮮明で、考えはよくよく纏まらなかった。
己の身体であるというのに思い通りにいかない今の状態が歯痒くてならない。
短く溜息を零すと隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。
僅かに頭を動かし視線をそちらへ向ければ、警戒など微塵もしていない安心しきった顔で眠る人物の姿が目に入った。
誰かが隣で眠ること。そのことに抵抗がなかった訳ではない。
普段の己であれば完全に拒否し、あらゆる手段を講じて無理やりにでも距離をとっていただろう。
それをしなかったのはひとえに彼女の持つ穏やかな気配に、その存在に忌避の感情を抱かなかったからである。
それどころか逆の心落ち着く安らぎを感じていた。実際に悪夢から解放されて目覚めた時は、己の掌に感じる温もりに安堵した。
今も隣にある気配に抱くのは、緊張とは無縁の穏やかな微睡に身を任せているかのような心地良さだ。
彼女の姿を視界に捉えたままふっと微笑みを零す。
ゆらゆらと感じる心地良い揺らぎに意識は眠りへと誘われていった。
願わくば悪夢を見ることなく、このまま安らぎの中にあれと
微かな希望を胸に抱き意識を手放した。
*・*・*・*
ふいに意識が浮上する。
閉じた瞼には未だ朝の訪れは感じられなかったが、身体に違和感を覚えた。
未だかつて決して感じた事のない違和感だ。
己を包む心地良さに意識は未だ寝ていたいと訴えているが、感じる違和感が気になりその誘惑に必死で抗い薄っすらと目を開けた。
途端に視界一杯に映り込んだ相手の寝顔に息を呑み、全身が一気に固まった。思考も同時にだ。
ものの数秒程度だったのだが、感覚的には長い時間そうしていたように感じた。
漸く動き出した思考回路が現在起きている状況を整理していく。
離れられないことから仕方なく同じベッドで寝ることになったのは理解している。
己が普段から使用しているこのベッドは大人でも三人は余裕で寝れるほど広い。
嫌だ嫌だと渋っていた彼女が漸く諦めてこのベッドに入ってきた時、その距離は己との間に更に二人は入るであろう程離れていたはずだ。
それが今は見る影もない。寧ろ全くないと言える。
己の腕の中に穏やかな顔で眠る彼女が居たからだ。
その左腕は己に絡み付くかの様に背中に回され、ぎゅっと衣を握りしめている。
己の左腕は彼女の頭の下にあり、そちらもまた彼女の右手でぎゅっと衣を握りしめられていた。
離れようと身じろぎをすれば、彼女は余計に擦り寄ってくる。
その様子に僅かに狼狽して動きを留めた。
そのまま暫くじっとしていたが、このままでは埒があかないので思案した結果やはり引き剥がすことにした。
重怠さはまだ身体に残っているが、夢心地に身を任せている人物、ましてや女性の力など取るに足らない。
背に回されている彼女の左腕を己の右腕で持ち上げれば、握っていた衣をすんなりと手放した。
己の右手でゆっくりと彼女の右手を開かせれば、そちらも同様に握っていた衣を手放した。
そうして漸く解放されると、今度は彼女の肩の下と腰の下に手を差し入れ、その身体を押しやると互いの距離は簡単に開いた。
ベッド中央より頭一つ分ほど端に寝かせると己もまた居住まいを正し目を閉じる。
聞こえる穏やかな寝息に笑みを零し、再び心地良い微睡に意識を手放した。
*・*・*・*
部屋に差し込む明るい光に意識が呼び起され心地良い目覚めを迎えた。
夜中に一度目覚めたがそれ以降は目覚めることなくこうして朝を迎えた。まだぼんやりとした視界を僅かに下にずらせば其処にはまた彼女が居た。そのことを認識して己は再びぴしりと固まった。
夜中に目覚めた時に引き剥がしたはずのそれは再び己に絡み付いていた。この状態でよくも寝られたものだと我ながら感心してしまった。
人を寄せ付けず、己もまた人に寄らず一定の距離を常に保ってきた。
忌まわしき過去を持つ己に周りの人間が向ける感情は恐ろしく素直だ。
恐れ、または羨望、そして忌避。
それらはとても分かり易くそして大層不快だった。
それが今はどうだ。
そのテリトリーに易々と侵入を許している己がいる。無意識下の状況であれ有り得ないことだ。僅かでも不快だと感じれば己は即目覚めただろう。
それなのにだ。この状況はなんだ。
軽く頭を抱えたくなる様な気もするが、決して不快だと感じていない己がいるのもまた確かだった。
訳の分からない感情に召喚の儀を行った代償故のものかとも思ったが、頭のどこかでそれを否定している自分がいるのもまた明白で。
困った状況ではあるが、厭わしいと感じないのは何だか可笑しなものだと苦笑を零した。
こんなにも心揺さぶられ感情を露わにする己は珍しいと自分でも思う。というかここ十年以上なかったことだ。
心を閉ざしていたからだ。自分を護る為に。壊れてしまわない様に。
おかげで周囲の感情の機微には随分と聡くなった。無関心でいることにも慣れてしまえば、感情を見せない己を人は冷酷無情な奴だと罵倒した。
「……それで構わないと思っていたはずだったのに、な」
ぽつりと零した言葉はゆったりとした静けさに吸い込まれていった。
暫くそのまま彼女の寝顔を見つめていたが、そろそろ目を覚ますだろう。
この状態のまま彼女が目を覚ませば昨夜よりももっと派手に騒ぎそうだと容易に想像できた。
そして夢現で嫌々と離れることを嫌がり擦り寄ってくる彼女を再び引き剥がした。
昨夜目覚めた時よりは幾分かましになった様に感じるが、己の身体は未だ重怠さが抜けきっていない。召喚の儀は其れほどに己の身体に負担を掛けた様だった。
何日も眠り続けることにならなかっただけまだましかと思い直し身体をずらして上体を起こした。
背中にクッションを挟み込み楽な体勢を取ると、ヘッドボードに置いてあった書物に手を伸ばし目を通していった。
暫くすると彼女も目を覚ました。
虚ろな表情でその視界に己を映すと、おはようございますと頭を下げてきた。
目覚めが悪いのは体質なのだろうか、昨夜ベッド脇で目覚めた時も似たような状態だったなと思った。
寝惚け眼の彼女に短く返事を返し、再び手元の書物に視線を戻した。
部屋には己が書物の頁を捲る音だけが静かに響いた。
そのことを不思議に思い、ベッド上へ視線を向け思考が停止した。再び寝入っている彼女の姿を視界に入れると、片手で顔を覆い思わず溜息を零したのだった。
それから半刻ほどそのままにしておいたが、彼女は一向に起きる気配を見せなかった。
このまま寝かせておいても良いのだが、そのうち状況報告や今後の指示受けなどでこの部屋に人がやってくるだろう。
そうなると少々都合が悪い。己は上体を起こしているとはいえ、一つのベッドに男女がいるのは世間体的にもよろしくない。
自然と眉間には皺が寄ってしまい、それを解すように片方の手でぐりぐりと揉み解した。
昨夜彼女が鳴らした鈴はヘッドボードに置いてあった。
手を伸ばせば届く距離だったので、手に取り軽く振ってスヴェンを呼んだ。
ほどなくしてやってきた王宮執事のスヴェンに要件を伝えると、彼はすぐに実行に移した。
己が指示した内容は―――
ソファのある場所の向かい側、ローテーブルを挟んだ反対側に己の作業用にソファを一つ用意して欲しいこと、己の身支度の補佐と朝食の準備、それから彼女が起きた後の身の回りの補佐と朝食の準備、だった。
それらは速やかに準備され、衝立も持ち込まれた。
着替えの際必要かと思いましてとスヴェンが言う。確かにその通りだと思い、細かいことに気を回してくれる優秀な執事に礼を述べて着替えを済ませ、軽く朝食をとった。
「――…スヴェン、王はいつ戻られる予定だ?」
「十日後と、連絡が入っております」
「そうか…」
このフォストゼア国の国王は隣国の式典に参加する為、王妃、第一王子を伴い出向していた。
式典の日程は今日、明日の二日間と聞いている。その後の滞在日程を考えてもその帰国予定は妥当なものだった。
召喚の儀についての細かい報告は戻られてから行うとして、簡潔な経過報告は早急に行うべきと思い、スヴェンに指示を出した。
彼が退出しようとした時、ベッド上の彼女がのそりと起き上がった。
スヴェンはその様子を確認し、侍女を呼びますと言って部屋を後にした。
入れ替わる様にして侍女長がやってきた。
他にも二名ほどの侍女を従えている。その手には各々が様々なものを持っていた。
侍女二名はすぐに彼女の方へ向かったが、侍女長は己の目の前で指示を待っている。
「――オレが此処にいれば浴室は使えるはずだ。彼女の身支度を頼む」
「かしこまりました」
スヴェンからこちらの事情は聞いているだろう。
簡潔にそう伝えると、侍女長はまだ覚醒しきってない彼女を連れて浴室へと入っていった。
この部屋に設えられているのは、簡易なものではあるが今のところ不便は感じていなかった。
湯船に浸かりたいなら屋敷へ戻ればいいし、この王宮にも使用できる浴場は存在する。
だが、現在はどちらも使用できない。
己がまだ移動困難であることもさながら、浴室はどちらもそれなりに広い。
王宮内の浴場など特にそうで、十メートル程度しか離れられない現状では利用不可能だった。
「……いろいろ不都合はある、な」
溜息を零し、テーブルに置かれていた紅茶を口に運んだ。