第56話 -闇中炎-
足を運んでくださる皆さまありがとうございます。お待たせして申し訳ございません。
『彼』の姿がどんどん遠ざかっていく。
何の追撃もないことを訝しく思いながらもどこかほっとしていた。
先程『彼』の間近まで接近して、その後吹き飛ばされたこともあって、心臓はまだバクバクと忙しなく鼓動を刻んでいた。
息苦しさすら伴う激しい鼓動がだんだんと落ち着きを取り戻していくと、余裕ができたのか背後で遠ざかっていくはずの『彼』の気配を感じ取りぞくりとして背筋を震わせた。
「ユズハ、どうした」
体の震えが伝わったらしいディーが心配して声を掛けてきた。
けれどわたしは返事を返すよりも先に、ディーの腕を掴んで落馬しないように自身の体を支えながら後方へと視線を走らせた。
『彼』がその顔を怒りに歪ませている姿が見えて息を呑んだ。
「『彼』が来る!逃げてっ」
声の限り叫ぶと、三人ともちらりと後方を振り返って状況を確認した。
「固まっていると危ない!散れっ!!」
ディーの指示にレガートさんとリアンさんは、それぞれ左右へと進行方向を変えて散らばった。
ディーは進む方向は変えずそのまま馬を走らせ、小さく呪文を唱えながら地面へと魔導石の付いた小さなナイフを打ち込んでいった。
「グォオオオオオオ!!!」
『彼』が獣のような咆哮を上げると同時に周囲に爆音が轟いた。
闇を孕んだ鋭い風圧が『彼』の周辺へ跳び、あらゆるものを切り刻んでいく。
後方ではディーが地面に打ち込んだ魔導石を起点として、次々と魔法が展開され障壁をつくり出しており、『彼』が放った攻撃がぶつかり凄まじい音と衝撃が響き渡っていた。
障壁はそれほど強度がないもののようで、一度の攻撃で粉砕されている。
ディーは馬を走らせながら魔法を展開していたけれどそれも長くは続かず、彼の「くそっ!」と苛立ちの籠った声が発せられて限界が来ていることが分かった。
もはや後方を振り返っている余裕もなくて、わたしはただ馬から振り落とされないように必死で鞍に捕まってバランスを取りながら皆の無事を祈っていた。
「ひゃっ!」
「ぐっ!」
すぐ真後ろで爆音が上がり、次いでバキンとディーが魔法を放って作り出した障壁が割れる音がして強風が吹き抜けていった。
馬はその衝撃に驚いて前足を跳ね上げてしまい、わたし達は揃って馬から身を投げ出されてしまった。
ディーが咄嗟にわたしを抱き込み、暴れる馬の背を蹴って馬上から飛び降りた。
地面に激突する瞬間に風魔法が展開され、ふわりとわたし達の体を包んで衝撃を吸収してくれた。
身を起こそうとして頭を上げかけたところをディーが上から覆い被さり、地面へと押し戻された。
驚いているとディーの背すれすれのところをカマイタチのような風が走り抜け、その先で騎手を失った馬の胴体が寸断されていた。
「っ!!」
先程の衝撃で興奮状態だった馬は、我が身が寸断されたことを認識する間もなく一瞬でその命を刈り取られた。
ドサッという重たいものが倒れ込む音がして、わたしは恐怖に思考が停止し体も硬直していた。
ディーがさっと周辺を確認して体を起こし、わたしの腕を引いて立ち上がらせてぐに走り出そうとしたけれど、その瞬間にこれまでで一番強悪な気配を感じて恐怖に体を震わせると、わたし達は共に『彼』の方を振り返っていた。
遠く離れた位置に居たはずの『彼』が、数メートル先まで間合いを詰めていた。
驚愕して目を見開くのと、底知れない深黒の闇の塊が一気に距離を詰めて迫ってくるのはほぼ同時だった。
「ユズハっ!!」
「っ!」
どんっと強い力で押され後方へ身体が傾く。ふわりと体が風に包まれると、その場から勢いよく弾かれ後方へ転がった。
「ぐっ…ぁ……」
耳に届いたディーの呻き声にハッとしてすぐに体を起こすと、わたしの周囲を薄い光の膜が覆っていて、視界の先では『彼』が放ったと思われる深黒の闇が渦を巻きディーを包み込んでいた。
「ディー!!」
蹲るディーに向かって手を伸ばすと、周囲を覆う闇の気配が指先に触れた。
「っ!!」
怒り、憎悪、嫌悪、恨み、といったあらゆる負の感情が詰め込まれた怨恨の感情が流れ込んできて、ぐらりと視界が歪みふらついて膝をついてしまっていた。
一段と闇が濃い部分はまだ五メートルほど離れた位置にあったが、その中心部分には『彼』がいる。
膨れ上がっている闇は『彼』の感情の渦の影響を受けて更に肥大していっていた。
流れ込んできた『彼』の感情が、わたし自身の思考と反発し合っていて、気分が悪く立ち上がることができない。
吐き気まで襲ってきて思わず小さくえずいていた。
浅い呼吸を繰り返し、体中を駆け巡る不快感を紛らわせどうにか俯いていた頭を上げると、深黒の闇に沈み込んでいくディーの姿が視界に映り込み息を呑んだ。
「ディー!!」
体が少し揺らぐだけで喉の奥から吐き気がせり上がってきた。それでもわたしは必死で体を動かし、闇に取り込まれようとしていたディーに手を伸ばした。
ぐったりとして血の気が失せ顔面蒼白となっているディーはすでに意識がない。
やっとのことで彼の腕を掴むと、ディーに纏わりついている闇がわたしの方へも伸びてきた。
「ククッ。闇ニ、沈メ…」
『彼』の声と思われる不気味な声がすぐ耳元でして驚いてそちらを振り仰いだ。
けれど『彼』は先程居た位置から動いてはおらず、ただわたし達を嘲笑うかのようにその口元が弧を描いていた。目には憎悪を滲ませていて、その眼球は血のように真っ赤に染まっていた。
ぞわりとした悪寒が全身を駆け抜け、わたしは堪らず体を震わせていた。
その場を動こうとしない『彼』を睨み付けながら、わたしは闇に沈むディーの体を両腕でギュッと抱きしめていた。
わたし達に纏わりつく闇が、ディーと共にわたしの頭まですっぽりと覆った時には、もう意識を保っていることができず、ディーを抱きしめている腕に力を込めて、離れてしまわないようしっかりとその体を抱きしめた。
*・*・*
目が覚めた時、わたし達は王宮にある医療棟の一室のベッドに寝かされていた。
ぼんやりとした状態で、まだ夢現で意識がはっきりと覚醒しないまま呟いた「ここは、どこ?」という言葉に、近くにいた医術士がすぐに気づいて教えてくれたのだった。
体がずっしりと重く、すぐに瞼が下りてきて再び眠りそうになるも、わたしは必死で抗い視線だけを動かして彼を探した。
離れてしまわないようしっかりと腕に抱きしめたディーの姿を。
「……ディー…、良かっ…た」
隣のベッドのふくらみに気づいて、どうにか頭を傾けてそちらへ視線を向けると、心配していたその人の姿があってほっと安堵の息を零した。それと同時に意識は途切れ、深い闇の中へと沈み込んでいった。
*・*・*
突然意識がはっきりとして、この光景が現実のものではないことにすぐ気がついた。
先程目を覚ました時は白い天井が見えていて、近くにいた医術士が王宮にある医療棟の一室のベッドに寝ていることを教えてくれたばかりだったからだ。
それなのに今、目の前に映し出されている光景はそれとは真逆と言わんばかりのものだった。
室内にいた筈なのにいつの間にか外に立っていて、辺りは真っ暗な闇に包まれている。
遠くに見える大きな邸からは、火柱が勢いよく夜空へと立ち上っていて、意思を持って渦巻いているかのごとく周囲を明るく照らしていた。
その場所までかなりの距離があるはずなのに、燃え上がる火柱の熱気が肌にジリジリと伝わってきて、なぜか無性に不安に駆られてしまい胸がざわつき出した。
気付けばわたしは、そろりと足を踏み出し、一歩、また一歩と火柱の上がる屋敷の方へ向かって歩き出していた。
どうしてなのか分からない。
けれど行かなくてはと、何かがわたしを追い立てていた。
終には全速力で駆け出していて、邸を包み込む炎が気になるというよりも、何かを失ってしまうという恐怖に駆られていた。
炎に包まれている邸のすぐ近くまでやってくると、不思議なことに肌がちりつくほどに伝わってきていた熱気は今は感じられなくなっていた。
息をするのも苦しく感じる程に鼓動が激しく脈打ち、わたしを急かしている。
激しく燃え上がる炎に意を決して手を伸ばせば、驚いたことに触れても熱くなかった。
それどころかわたしの髪も衣服も炎の影響を受けることはなく、行く手を遮ることもなかった。
「あの時空の狭間の中で見た光景と似たようなもの…?」
以前時空の狭間に落ちた時、紫龍や王女、木や花にも触れないのに、岩や瓦礫には触れるという不思議な空間に居た時のことを思い出した。
「…これも、過去の出来事なのかな」
とても現実のものとは思えない目の前の光景。
勢いよく立ち上る炎は邸全体を包んでいて、数時間もしない内に原形を留めないくらいに焼け落ちてしまうだろう。
もし中に人が居たとしたら絶対に助からないレベルだ。
「行かなくちゃ」
なぜそう思うのか分からない。
けれど、絶対に中へ入って成さなければいけないことがある。
そうした確信があって、一旦目を閉じて深く息を吸ってから、騒ぐ胸を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出した。
気持ちが固まると、キッと前を見据えて走り出した。
バチバチと爆ぜる炎の音や、崩れ落ちてくる壁や天井。
それらがわたしに何らかの影響を及ぼすことはないと分かっていても、恐怖心というものは拭えない。
視界を、鼓膜を揺さぶる衝撃に、小さく体を震わせながらわたしは邸内へと踏み込んだ。
扉と言う扉は押し開かれていて、行く手を遮る物はなく、すんなりと室内に入ることができた。
しかしわたしは、玄関ホールに入ってすぐに息を呑んで立ち止まることになってしまった。
「まさか…。そんな……」
目の前に現れた凄惨な光景に血の気が引いていく。
白い大理石が敷かれていたと思われるホールの床は、真っ赤に染め上げられていた。
邸を包み込む炎が反射しているだけではない。赤黒い液体がべっとりと一面を埋め尽くしている。
床だけでなく壁や飾り棚、階段に手すり。ありとあらゆる場所を赤く染め上げていた。
何故そんなことになっているのか、それすらも一目瞭然で、わたしは口元を両手で覆い悲鳴を呑み込んだ。
産まれたての小鹿のように膝がガクガクと震え、立っているのもやっとの状態だった。
「どうして…こんな、こと……」
至る所が赤く染まっている理由。それは至る所に倒れ伏し、あるいは凭れ掛かる人々のを見れば分かること。
中には手に武器を持っている使用人すらもいた。
彼らが誰一人違わず等しいことと言えば、全員が既に、息をひきとっているということのみだった。
重苦しい何かが喉をせり上がってくる。瞳の奥は熱を持ち、視界を歪ませる。
胸元をぎゅっと握り込むと、わたしは震える足を叱咤して必死に動かし、二階へ続く階段を駆け上がった。
目指す先が何処なのか。恐怖と混乱の渦中にある頭は全く機能を果たさない。
けれどわたしの足は迷いなく先へと進む。
何かに導かれるように向かった先でわたしを待っていたのは……。
折り重なるようにして、赤黒い海に倒れ伏す一組の男女に、縋りついて泣いている一人の男の子だった。
なかなか執筆が進まない中、考えてみる。
「あれ?恋愛カテのはずなのに、恋愛より戦闘場面多くね?」
↑これが進まない理由な気がしてきました。戦闘書くの苦手です。
閑話を挟もうかと考え中…。




