第55話 -印-
「決して無茶はするな。無理だと判断したらすぐに離れること」
「はい」
「難しいと判断すれば即中止し撤退する」
「はい」
「俺の指示には必ず従うこと」
「……」
「ユズハ、返事は?」
「えーと…」
嘘でも素直に返事をしておけばいいところをバカ正直に返事をしないものだから、ディーが射殺しそうなくらいに鋭い視線で睨み付けている。
そんなに見つめられたら穴が開きそうですはい。
その視線を真正面から受け止め続けていることができず、視線を彷徨わせると同時に背後に向けていた顔を逃げるように前へ向けると、叱責するように名前を呼ばれた。
「ユズハ!」
「最善を尽くしますっ!」
一喝される鋭い声音に反応して体がびくっと震え背筋を正す。視線をディーに向けないまま即座に返事を返した。ただしその内容は決してディーの指示を必ず守るというものではない。
背後で地鳴りでも起こしそうな凶悪な雰囲気を撒き散らしながら、ディーがわたしの名を呼ぶがそれ以上の返事はせず、顔も前へ向けたままでいた。
傍にいる騎士のレガートさんと魔術士のリアンさんはその視線をディーとわたしの間をいったりきたりさせながら、ハラハラしつつ様子を見守っていた。
ディーの判断が正しいことは分かる!分かるけど従えない時もある!
だって彼は自分が犠牲になることを全く厭わないのにまわりの人の危険には敏感で、特にわたしに関しては過保護すぎるくらい身を挺してあらゆる手段を講じてくれる。
だから無茶はしないけど、可能だと思えば無理はするっ!
口に出して言えば止められるのは火を見るよりも明らかだから黙っているに限る。
今回ばかりはこの気持ちを変えるつもりはない。
それでも彼の凶悪な視線に態度に言葉を真正面から、しかも目の前の至近距離から受け止めるなどわたしでもご遠慮申し上げたいところだ。
ディーの操る馬に二人乗りしている状態なので逃げ場はないが、こうして前を向いてしまえば恐ろしい彼の表情を見ることもない。
恐い人が背後から何と言おうとも従えないものに「はい」と返事をするわけにはいかないのだ。
どんなに威圧的な感情を向けようと、わたしが折れることはないと判断したディーは、大きな溜息を零してから視線を『彼』に向け告げた。
「命を掛けてまでやる必要などない。絶対に無茶はしないこと」
「はい」
「これ以上、俺をむやみやたらに痛めつけるのはやめろ」
「え!?そんなことしたことないです!!」
「…無自覚というのが一番たちが悪い」
「え?え!?えっ!!??」
背後から聞こえてくる声は普段のものよりもとっても低い。苛立ちと不満と悔しさと色んな感情が混ざって、それを必死に耐えているのだということが、僅かに震えている言葉の端々から伝わってきた。
ぽすんとわたしの肩にディーが額を預け、大きな溜息を零している。
申し訳なさと恥ずかしさと、ディーに対する愛しさに似た感情が沸き起こってどうにも居た堪れなかった。
ちらりと両隣のレガートさんとリアンさんへ視線を向けると、二人とも何とも言いようのない困ったような笑みを浮かべていた。
*・*・*
「予定通りにいかない場合は各々の判断に任せるが、その場合は撤退を第一目標とすること」
ディーの言葉に全員が頷き、装備の最終確認を行い配置につく為各々がその場へ移動を開始した。
『彼』が纏う闇はどんどんその範囲を広げている。
深淵の闇は中心部から半径十メートルほどだが、さらに周囲二百メートルほどは薄っすらと暗い靄がかかっていた。
その更に外側に位置取りし、ディーの合図を待っていた。
わたしはディーの馬から降り別行動を取ることになっている。
疾走する馬から飛び降りるのは自殺行為に等しいからだ。
わたしはディーから預かった追跡用の術が付与された魔導石を両手でぎゅっと握りしめた。
姫様ほどではないにしろディーも聖属性魔法を使用する。
彼が光魔法で闇を祓い、『彼』が纏う闇が薄くなったところへレガートさんが切り込み、リアンさんが追撃して更に闇を削る。
『彼』の姿が剥き出しになったところで、ディーが光魔法で編み上げた紐でその体を拘束して動きを封じ、身動きが取れなくなった『彼』の元へわたしが駆け寄り、魔導石を体のどこでもいいから押し当てて印を刻む術式を発動させる。
それが今回の作戦。
目的が達成したら闇が復活する前に速やかに撤退すること。
そこまでがディーの指示だ。
失敗することを考えていたら成功するものもしなくなってしまいそうだから、今は何が何でもこの手の中にある魔導石を『彼』の身に押し当て、術を発動させることだけを念頭に置く。
『彼』は何を成したいのか、何が目的なのか現段階では分かっていない。
ディーも「グラヴィーを破壊した理由も分かっていないが、今後の奴の動きも全く把握できていない。だからこそ危険だ」と言っていた。
『彼』の目的が分からないのでその行動に予測がつかないのだ。
先にレガートさんとリアンさんが指定位置に陣取り、ディーがわたしを馬から降ろして自分も指定位置につく。
わたし達四人は『彼』を囲むように等間隔に位置取りすることになっている。『彼』の正面に立つのはわたし。
ディーはその場所は駄目だと言ったけれど、『彼』の注意をわたしにひき付け、攻撃をしかける三人にはできるだけ意識を向けないようにするべきだと言えばディーはぐっと押し黙った。
この作戦を成功させる為にすべきことは全部やるべきだと思ったからひかなかった。
ディーは『彼』の矛先がわたしに向かうのを一番恐れている。身を護る術がほぼないのだから心配するのも当然だろう。
彼の眉間に刻まれた皺の数が増したのを見て僅かに胸が痛んだけれど譲れない。
『彼』は随分前からなぜかわたしに注意を向けていた。
だからレガートさんとリアンさんが先に傍を離れた時も彼らへは特になんの攻撃もされなかった。
どんなに経験を積んだ熟練の戦士でも一人になれば危険度は増す。
細心の注意を払いながら位置に着いた二人は、『彼』がまるで自分を意識していないことに疑念を抱いているようだった。
ディーもそのことには気づいていた。わたしから離れる際、護りの術を一つ施すほど『彼』の動きを警戒していた。
ディーがある程度わたしから離れた時、『彼』が動き出した。
「っ!光よ!」
『彼』の動きを警戒してわたしからゆっくりと離れていったディーは馬の速度を速めると、すぐさま前方の右と左とに魔導石の埋め込まれた小さなナイフを打ち込み聖属性の光魔法を発動させた。
予定の配置場所までディーは辿り着いていなかったけれど、彼が発動させた光魔法が発した光が合図となり、反対側に待機していたリアンさんも同様に光魔法を発動させた。
『彼』の周囲を光が包み込み、周囲を覆っている闇が薄くなる。
しかしその光魔法の威力は中心部まで到達することはなく薄っすらと漂っていた闇を祓っただけにとどまってしまい、『彼』自身はまだ濃い闇に包まれていた。
纏う闇を削られたのに前回のように悲鳴を上げることもなく、『彼』はわたしへと意識を向けたまま近づいてくる。
濃い闇の中心で彼がニヤリと笑ったのが目に入り、この程度の攻撃など警戒するまでもないとでも言っているように見えた。
ディー達の放った光魔法は『彼』までは届かなかったけれど、それでも『彼』の纏う闇の範囲が狭くなっている。
わたし達は周囲に薄っすらと漂っていた闇が消えたことで、『彼』への距離を一気につめた。
『彼』とわたし達の距離は残り三十メートルほど。更にディー達は前進しながら、追撃とばかりにもう一度光魔法を放った。
「……」
『彼』の周囲を囲む濃い闇が薄くなり、その姿が薄っすらと視認できるまでになると、今度こそ『彼』は反応を見せた。
煩わしそうに顔を歪め『彼』がゆっくりと左腕を持ち上げると、その掌の上に圧縮された小さな闇の塊が二つ出現した。
「危ないっ!」
その小さな黒い塊から禍々しい気配が発せられていることが分かり、わたしは咄嗟に叫んでいた。
『彼』が持ち上げた腕を右下へ振り下ろすと、掌の上の闇の塊は左右へ一つずつ分かれて飛んで行った。
その先に居るのは『彼』に向かって光魔法を発動していたディーとリアンさん。
強風と共に飛来した闇の塊を、二人はそれぞれ魔法で撃ち落とそうとしたけれど、双方がぶつかった瞬間に小さな闇の塊は大きく膨れ上がりその中から魔物が出現した。
「なっ!!」
「キメラだと!」
魔物の姿を目にした全員が驚愕し息を呑んだ。
先程のキメラよりもずっと小型で、尻尾の蛇も一匹だけだ。
それでも大人の男性二人分ほどの大きさはあり、しかもディーが居る方とリアンさんの居る方に一体ずつ二体もいた。
突如ゴォッという音と共に『彼』の背後で火柱が上がり『彼』の体がぐらりとよろけた。
そして僅かに遅れてディーの居る方のキメラの尻尾に、斜め後方から飛んできた火球があたり蛇は一瞬にして黒こげになっていた。
続けざまに今度はリアンさん側の方から風を切る音が聞こえてきて視線を向けると、『彼』の後方に居たレガートさんがもう一体の尻尾を剣で切り落としているのが見えた。
状況が不利だと判断したレガートさんが、予定を変更して攻撃を開始したのだった。
彼の攻撃で左右のキメラはそれぞれ尻尾の蛇を失っていた。
一人で相手をするのが難しいキメラだったが、尻尾の蛇に警戒しなくて済むようになったことで幾分か戦いやすくなっている。
わたしはディーから預かった魔導石をぎゅっと握りしめると、『彼』に向かって走り出した。
二人が放った光魔法のおかげで、『彼』が纏う闇は随分と削られている。
そこへ背後から焔魔法の攻撃をくらった為に、『彼』は態勢を崩していた。
キメラが二体もいることを考えれば、『彼』に接近できるこれ以上の好機は作れないと思った。
「待て!ユズハっ!」
ディーから静止を求める叫び声が上がるけれど、わたしは足を止めなかった。
危険だということは十分把握している。
不安がないわけじゃない。
それでも離れる際にディーが施してくれた護りの術もあるし、皆がわたしを護るために魔法を付与し分け与えてくれた魔導石が埋め込まれた右手首の腕輪もある。
皆がついているから大丈夫だという安心感と、今を逃してはいけないと警笛を鳴らす本能のままに、わたしは『彼』へ向かって一直線に走った。
「くそっ!リアン、レガート!楔を!!」
ディーの声を合図に『彼』の周囲を囲むように地面に小さなナイフのようなものが撃ち込まれた。
全ての楔が地面に突き刺さると同時に、それらを繋ぐように光の帯が地面を走り、『彼』の真下に光を発する魔法陣が浮かび上がる。
「グァアアアアア!!」
徐々に輝きを増す光に『彼』が纏う闇は一層薄くなりその姿を曝け出した。
次いでディーの居る方から、幾本もの焔の矢が『彼』に向かって飛んでいきその身を貫いた。
キメラの叫び声が聞こえるも、そちらを振り返る余裕はなくて、わたしは『彼』の懐へ跳び込むようにして地面を蹴った。
抱き抱えるようにして持っていた魔導石を右手に持ち替え、目の前に晒されている『彼』の胸元へ突き出した。
視界の隅で『彼』が両腕を振り上げたのが見えたけれど、足元で強く光り輝く魔法陣からシュッと伸びた光の帯がその腕を拘束して動きを封じた。
キメラと対峙していて自分達も危険なのに、皆わたしの援護をしてくれる。
左右からはキメラの獰猛な叫び声が絶えず上がっていた。
「お願いっ…届いて!!」
わたしの必死の思いに、右手首の腕輪に嵌められていたルビーの魔導石が力強い紅い光を発しわたしを包み込む。地面を蹴り上げていた為に勢いを失いつつあったわたしの体は、羽を得たかのように前へと跳んだ。
姫様が魔導石に付与していてくれた身体強化の魔法が発動したのだと分かった。
わたしの右手が彼の胸に触れようとした瞬間に、わたしは握りしめていた指を開き魔導石を直接『彼』の胸に押し当てた。
『彼』の魔力に反応して魔導石が付与されていた魔法を展開する。
魔導石から溢れ出た魔法の勢いで体が後方へ弾き飛ばされてしまい、わたしは五メートルほど離れた位置まで吹き飛び地面に転がった。
「ユズハっ!!」
「「神子様!」」
地面に激突した衝撃に吃驚したけれど、痛みは感じていなかった。
恐る恐る目を開けると右手首の腕輪に嵌め込まれているエメラルドの魔導石とサンストーンの魔導石がキラキラと輝いていた。
ルーク様が付与してくれていた風魔法の護りの魔法が発動して、激突する衝撃から護ってくれたのだ。
ほっとして顔を上げた先で『彼』の姿を焔が包んでいた。
サンストーンの魔導石が光っていることからグレン様の焔魔法のカウンターが発動したことが分かった。
「グォオオオオオ!!」
焔に身を包まれている『彼』が怒りの咆哮を上げ、上半身を前後左右に振り回しその勢いで焔までもが辺りに飛び散っていた。
ディー達と対峙していたキメラにもその焔が降り注ぎ、魔物らも叫び声を上げていた。
その隙をついてディー達が後退する様子が見えた。
彼らはキメラへ攻撃魔法を放ちながら、わたしが居る方へと馬を走らせてくる。
その間、わたしは『彼』から視線を外さなかった。
その視線の先には『彼』の胸に刻まれた印が見えた。
心臓の真上にしっかりと刻まれた印が、追跡用の魔法が発動して『彼』に刻み込まれたことを示していた。
目的を達成したことにわたしはほっと安堵の息を零した。
『彼』はまだ目の前にいるけれど、万全の態勢を整えてから再度『彼』の捕獲に出ればいい。
ディーの乗る馬が近づいてきたのを見て立ち上がると、すぐ目の前で馬を立ち止まらせたディーは馬上から手を伸ばしわたしを引き上げるとぎゅっと強く抱きしめてきた。
「無事で、良かった」
苦しげな声で吐露された呟きにきゅっと胸が締め付けられた。
何と言葉を返せば良いのか分からなくて、わたしは腕の中からディーを見上げて彼を安心させるように笑ってみせた。
「グリフォード殿!」
「神子様!」
レガートさんとリアンさんも近くまで後退してきてから、背後の『彼』らの方へと振り返った。
わたしを抱きしめていた腕を解いて手綱を握り直したディーも『彼』らへと視線を向けた。
同様にしてわたしもそちらへと視線を向けると、キメラ二体は『彼』が発し始めた闇に囚われて身動きができなくなっていた。
それどころかその顔を苦痛に歪めていて、その姿は徐々に形を無くし闇の一部へと変わっていった。
「奴への警戒は続けろ、このまま撤退する!」
「「はっ!」」
一層濃い闇が『彼』の周りに纏わりつくようにして広がっていく。
ディー達が後方の『彼』に注意を向けつつそれぞれ馬を反転させると、その場から一斉に駆け出した。
足を運んでくださる皆さまありがとうございます。
月日が過ぎ去るのは早いです。もう今年もあと一か月なんて…。
頑張って終わらせます、はい。たとえあと一年かかったとしても…。




