第46話 -願い-
意識が闇に呑まれていく中、わたしはディーのことが気になって仕方がなかった。
ディーは大丈夫だったかな、とか。
ああまた彼に心配かけてしまうな、とか。
今度こそ昇天しそうなくらい怒られるのだろうな、とか。
彼がまた悪夢を見なければいいのだけれど、とか。
意識が途絶える直前に見えたディーの顔はひどく焦った表情をしていた。
眉間の皺はこれ以上無理なほどに寄せられていて、耳をつんざくほどに叫んでいた声はどこか遠く聞こえてはっきりと分からなかったけれど。
その手は一番にわたしに差し伸べられ、意識を失い崩れ落ちる体を支えてくれた手の温かさを背に感じた。
それだけで安堵した。
意識が闇に囚われてしまっても、ディーが傍にいてくれるのならきっとどうにかしてくれる。
その絶対の信頼と彼がもたらしてくれる安心感があるから、わたしは少しも闇を恐れることはなかった。
*・*・*
途絶えていた意識が戻った時、一番に思ったのは…。
この景色に見覚えがある、ということだった。
上も下も、右も左も、見渡す限りの何もない真っ暗な空間。
そう、焔煉の谷で空間の狭間に落ちた時と全く同じ光景が眼前に広がっていたのだから。
あれからまだそれほど期間は経っていないこともあってそこでの出来事は鮮明に思い出せる。
だからこの暗闇の後に何を見せられたのかもしっかりと覚えていた。
わたしはあの日のことを思い出しながら、今度も同じものを見せられるのかと身構えていた。
そしてそれはわたしが予期したとおりの展開だった。
ただし、見せられたその内容は少し違っていたけれど。
*・*・*
これで何回目だろう。
そう思えるほどにわたしは怨龍が巻き起こす歴史の一部を次々と見せられていた。
わたしに分かるのは、現れた怨龍はみな同じではないということ。
怨龍と呼ばれたその龍は一体一体が違う物語を紡いでいた。
穏やかな表情をした紫龍が女性と幸せそうに暮らしている場面もあれば、大切な人を理不尽に奪われ悲痛に涙しながら怒りを露わに暴れまわり、その結果討伐され命を落とす怨龍の姿もあった。
いくつもの過去を見せられている中で気づいたのは、紫龍の傍らには常に女性の姿があったことだ。
怨龍となった紫龍の傍らには命を奪われた女性の姿があったということも。
怨龍が絡む出来事には必ず悲しみが纏わりついている。
それを見ることで、悲しみに追随して生まれる痛みをも共感してしまい、どうしようもなく胸が苦しくなり涙が零れた。その痛みがあまりにも自身を苦しませるため、彼らが紡ぐ歴史を最初の内は直視していられず目を背け耳を塞いでいた。
けれどその度に耳元で声がしたのだ。
『お願い、大切なあの人を……たすけ、て…』
『泣かないで……あの人といられて…私は、幸せ…だったわ……』
『あの子は優しすぎるから……』
『……今度は…二人で……幸せに………』
……。
どの声も相手を思いやる優しく温かな感情の込められた女性のものだった。
助けを乞う声にすら籠められているのは紫龍を想う心だった。
だからわたしは耳を塞ぐのを止め、目を開けてしっかりと彼らの姿を目に焼き付けた。
本当は彼らを助けたいと体も動きそうになったのだけれど、伸ばした自身の手が空を切ったことではっと気づき、自分は見ている事しかできないのだと思い知らされた。
どうしてわたしに見せるの?
わたしにどうして欲しいの?
目を背けることを止め、目の前で繰り広げられる紫龍と女性たちの歴史をしっかりと記憶に刻みこんでいく。
そうしていくつもの歴史を見ていると、繰り返し見せられる出来事の中に、同じものが入り込んでいる事に気付いた。
ああ、そうか。
この国、フォストゼアで起きた紫龍の出来事だから、数に限りがあるのか…。
建国以前のものもあるのかもしれないが、別の世界からきたわたしにはそれがどれだかは分からない。
怨龍についてもこの国の歴史や文化に精通していれば、発生順に記憶することもできたのかもしれない。
けれどそのどちらもわたしには不可能で。
だからこそわたしは目の前で繰り返し見せられる紫龍、もしくは怨龍らが引き起こす過去の出来事をできるだけ正確に読み取り記憶しておかなくてはという意識に駆られていた。
怨龍の悲しみも怒りも全部受け止めるのは正直つらい。
涙で視界が滲んでも、胸が張り裂けそうに痛んでも、わたしは両手をぐっと握りしめて耐え彼らが紡ぐ歴史を記憶に刻み込んだ。
どのくらい時間が経ったのか分からない。
延々と繰り広げられる怨龍に纏わる出来事を見ていてあらかた整理ができた。
見せられる順番は様々だったけれど、全部で十二回の紫龍もしくは怨龍に関する出来事が過去に起ったということが分かった。
紫龍復活の全ての出来事を記憶した後は、それらを何度見せられてもわたしの感情は落ち着いていた。
悲しみも痛みもすでにわたしの中に蓄積されていたから。
胸は僅かに痛みを発するけれど、それよりも強い気持ちが生まれていた。
――助けなきゃ。
悲しみや怒りの感情が怨龍を生み出すのならば、その感情が限界まで募る前にその昇華させることができれば復活を阻止することができるかもしれない。
問題は怨龍が生まれる根源となるものがどこにあるかということだけれど……。
だめだ…この映像だけじゃ分からない。
繰り返し見せられる紫龍の歴史の中にそのヒントが隠されていないかと注意深く見つめていたが、どの出来事もすでに紫龍が存在しているものばかりだった。
紫龍が現れる前の予兆や発生原因となるようなものは全てカットされていて、映像がとんでしまっていた。
どうしよう……。
今後の紫龍復活阻止のための指針となるものを見い出そうと見せられる映像に集中していたけれど、知識も経験も不足しているわたしでは見つけることができなかった。
ディーがここにいてくれたら…。
ふと頭に浮かぶのはいつもわたしを助けてくれた彼のことだった。
ディーならわたしが気づけない些細なことも気づいてくれただろう。
「ディー…」
知らず彼の名を口にしていた。
『ユズ…ハ……』
聞こえるはずのない声が聞こえた気がして辺りを見回すけれど、わたしを取り囲む景色に変化は見られなかった。それでもその声の主を思えばもう会いたいという気持ちは止めどなく溢れてきた。
「ディー!」
叫んだ声は周りの景色に吸い込まれていく。
何度彼の名を呼んだか分からないけれど、わたしはいつの間にか意識を手放していた。
*・*・*
「…ユズハ」
「ん……」
不意に意識が浮上し目を開ければディーの姿が視界に入り込んだ。
「ディー……」
「ああ」
彼の名を呼べば明らかにほっとした表情を見せる様子にわたしも自然と笑みが零れた。
掌には温かな感触があって、視線を動かせばディーがわたしの手を握っていることが分かった。
ふいに影が差して視線を動かせば、ディーの顔が近づいてきた。
「え?」と思った時には彼の額が己のそれにこつんと合わせられていて、掌から離れた温もりは頬へとあてがわれていた。
両手で頬を包み込まれ、額をくっつけられている。
平時にそれをされていたら、ほぼゼロ距離というこの状況に大慌てしていたことだが、今は寝起きに等しく半覚醒の状態のためわたしはぼんやりとされるがままになっていた。
少しでも動けば唇が触れてしまいそうな距離にディーの顔がある。
ドキドキとうるさく鼓動を刻む胸とは裏腹に、意識は穏やかな安堵の感情に満たされていた。
「お前は、毎度毎度…どれだけ俺を……。――…殺す気か」
吐露された言葉は怒りも苦しみも悲しみも含んでいて。それでも静かな声音で告げられたそれにわたしはそっと微笑んで返した。
「ぜったい……に…」
「ん?」
ぼんやりとした頭のまま呟いているがディーは急かすことはなく、わたしの言葉を待ってくれていた。
「…死なせないから…ね……」
続く言葉を紡ぎながら重たい瞼が下りてきて、わたしはそのまま眠りに落ちた。
わたしの言葉を聞いたディーが驚きに目を見開いて息を呑んだことなど知らぬままに。




