第17話 -変化- ※神官視点
恐ろしく性能の良い己の耳を時に恨めしく思うことがある。
ユズハと連れ立っていつも過ごしている部屋へ戻ろうとあいつらに背を向けて歩き出すと聞こえてきた三人の会話。
その内容、特にグレンが言ったことに無性に気分を害されていた。表情も自然と強張り、眉間に皺が寄ってしまう。
これまでの己の言動を顧みれば、確かに思うところはあるものの、それ程己は変わったのだろうかと疑問に思う。
普段不機嫌だったのは仕事が忙しかったからであり、愛想を振りまく相手もその必要も皆無だったせいでもある。
まぁ、愛想を振りまく必要があってもそれをするつもりは微塵もなかったが。
それに十五年前のあの事件以降、悪夢に苛まれまともな睡眠をとることもできなくなっていたから体調も常に万全とは言い難い状態だった。
そんな極限ともいえる状態で人を気遣う余裕などありはしないし、また自分を気遣い煩く言うのもジェイドくらいのものだったので、仕事以外で他人と関わることなどほぼなかった。
ふと隣を歩くユズハを見れば、転ばない様に歩くのに必死なのか周りを見る余裕はないようだ。
思えば己が仕事続きだった為にあの部屋から外へは連れて行ってやったことがなかった。
今日は特に急ぎの仕事は入っていない。
たまにはゆっくり王宮内を見せてやろうと思い付き彼女に声を掛けた。
「ユズハ、少し王宮内を見て回るか?」
そう提案すると歩みを止めてきょとんとした表情で己を見上げてきた。
その警戒心の欠片もない顔はいっそ清々しく笑みが零れる。
「部屋の中ばかりでは息苦しいだろう」
「……でも、忙しいのでは?」
「今日は謁見の為、仕事はほとんど入れていない。問題ない」
己の言葉にユズハの表情は分かり易く変化した。
大きく見開かれた瞳は期待に満ちて揺れているし、口元は弧を描いて僅かに開かれている。
その表情を見れば問わずとも分かってはいたが、再度「行くか?」と問うと彼女は何度も頷いた。
「先に一度着替えるか?」
美しく着飾っているのですぐにドレスを脱いでしまうのは勿体ないと思ったが、歩き辛そうだし一応確認をとる。
ユズハは自分の姿と己の姿を交互に何度か見て、最後にその視線をじっとこちらへ向けてきた。
互いの視線が正面からぶつかり合う。
濁りのないその瞳が綺麗だと思わず見惚れてしまった。
「もう少しこのままでもいいですか?」
「構わないが、歩き辛いんじゃないのか?」
「勿体ないから……(ディーのこの姿をもう少し見ていたい)」
最後に小さく呟いた声は俯いていて聞き取り辛かったが、勿体ないと聞こえた。その後に続いた言葉は口元が僅かに動いただけで、声に出しておらず聞き取れなかったが。
この世界に来て初めて着飾り、彼女もドレスを脱いでしまうのが後ろ髪引かれる思いだったのかもしれない。
「腕に掴まらせてもらってもいいですか?」
「ああ、構わない」
掌を掴んでいるだけでは心許ない。腕に掴まっていれば支えやすい。
己の左手に乗せられていた彼女の手を右手で掴んで腕へと誘導した。
左腕のひじの少し上に彼女の掌が添えられ、その熱がじんわりと伝わってきた。
彼女を見れば、恥ずかしそうに瞳を瞬かせている。
そんな小さな表情の変化さえ微笑ましいとどこか安堵にも似た穏やかな感情が胸に広がっていった。
今後立ち寄りそうな場所を中心に王宮内を見せて回った。
最初に立ち寄ったのは図書棟。
謁見の間から己の執務室に向かうまでの途中にそちらへ行く通路がある。場所が一番近かったことからそこを選んだ。
国内の彼方此方からあらゆる書物が集められるそこは、国内随一の蔵書量を誇っていた。
閲覧制限のかかっているものの中には召喚の儀に関することや紫龍にまつわるものなども含まれている。
紫龍について直接具体的に記すことはできないのが現状だが、間接的にそれと分かる表記をする事は可能だった。
それでも圧倒的に紫龍に関する情報は不足しているが。
図書棟の中に入り、中央の閲覧席付近からは全方向の書物が良く見える。三階まで続く壁際にぎっしりと書物が押し込まれている。
壁際以外にも広い空間があるスペースには本棚がいくつも設置されており、その棚にも同じく本がずらりと並んでいた。
図書棟内について簡潔に説明すると、ユズハは興奮しているのか、己の腕に添えられていた彼女の手に僅かな力が加わり袖が軽く握りこまれた。
彼女に視線を移せば、瞳をキラキラと輝かせている。
「今日は時間が足りない。そのうちまた連れてきてやるから、次に行くぞ」
そう告げれば、彼女は名残惜しそうに辺りを見回してから歩き出した。
図書棟を出たところで、鐘の音が辺りに鳴り響いた。
決して不快だと思わせない控えめなそれは、正午を知らせる音だった。
仕事熱心な者が多く集うこの王宮は、寝食を忘れて仕事に研究にと没頭する者が数知れない。
常々問題視されていたそれを改善する為、定刻になると音で時間を知らせるという、近年になってから始まった習慣だった。
「昼だな。食事はとれそうか?」
彼女は今朝、入りそうにないからと食事はせず、水分のみを摂取していた。
随分とお腹が減っているのではないだろうか。
「お腹は減ってるんですが、あまりたくさんは入りそうにないです」
「そうか。なら軽く摘まめるものをもらって中庭にでも行くか」
「はいっ」
丁度近くを通りかかったスヴェンに声を掛け、中庭で食事をとりたい旨を簡単に伝えると、彼はすぐに察したようで準備ができたら持っていくと言われ、先に行って待っていることにした。
辿り着いたそこは中庭というより、庭園と呼べる程広く色とりどりの花が咲き誇りとても幻想的な空間だ。
気軽に座って楽しめるよう彼方此方にテーブルとイスが置かれた東屋のような場所が点在している。
それらの内の一つに彼女を連れてくると、イスを引いて座らせた。
中庭の様子にユズハはほぅと感嘆の息を零し見惚れている。
いつもいる部屋で見せているものとはまた違って、彼女のこういった表情を見るのは初めてだった。
頬が緩み瞳を輝かせて忙しなく視線を彼方此方へと向けている。時折、キレイと呟いていた。
こんなことならもっと早く連れてきてやれば良かったかと少々後悔していると、スヴェンがやってきた。
手には大きめのバスケットを持っている。
「お待たせしました」
彼はそう言ってからテーブルに持ってきたバスケットの中身を出していった。
スヴェンがテーブルに並べている間に、受け取ったナプキンを広げ膝の上に置く。
ユズハも同じようにして彼が食事の用意を終えるのを待った。
バスケットにかけていたクロスを広げ、テーブルの上に敷くと、厚めに切られたハムと野菜を挟んだパニッツォに、零れにくいよう蓋のできる透明な容器に入れられた紅茶、一口サイズに切り分けられた焼き菓子に果物を並べていった。
最後にバスケットの底から皿とフォーク、持ち手のないストレートな形状のティーカップを取り出しテーブルに並べると、紅茶をカップへと注ぎセッティングは完了した。
「移動された際に近くの者に言付けて頂ければ片付けに参りますので、そのまま席をお立ち下さい」
「何から何まですまないな」
「とんでもございません。それではごゆっくりとお過ごしください」
優雅に礼をしたスヴェンが立ち去り、ユズハと二人でのんびりと食事をした。
慌ただしい王宮内とは違い、ここは静かで時の流れもゆっくりとしているように感じた。
食事を終え、ゆったりとした雰囲気に身を任せていると、ユズハが声を掛けてきた。
「ディーは距離が離れすぎて引っ張られるとき、何ともないんですか?」
「一瞬だけ身体が引っ張られる感覚があるが、それだけだな」
「そうなの!?」
本気で驚いたのか、ユズハは身を乗り出して言った。声にも若干力が籠っておりいつもより大きくなっていた。
「こう、身体が引っ張られてよろけたりとか、足が数歩動いたりとか」
「ないな」
あっけらかんとして告げると、彼女はがっくりと項垂れた。
「何でわたしだけ……」
そう言って不満そうにぶつぶつと呟いているユズハを見て、呆れた様に視線を投げかけ溜息を零すと続く言葉を告げた。
「阿呆だな。疑問に思う以前の問題だ。そもそも体格差もあるし魔力量も比べものにならない。貧弱なお前に俺が引っ張られるわけがないだろう」
「ぐっ……。ぐぬぬぬぬ」
己の言葉を聞いても未だ納得できない彼女は地団太を踏みつつイスから立ち上がると、花々の咲き誇る花壇へと歩いて行く。
離れていくユズハの背中を見つめながら、悔しそうにしているその姿もまた可愛らしいものだと笑みが浮かんだ。
(大体、俺が引っ張られてお前がケガでもしたら大変なことになるだろうが。お前が飛んでくる分には痛くも痒くもない。むしろ……っ!)
花壇の前に座り込み、目の前に咲き誇る花々を相手にまだぶつぶつと不満を口にしている彼女の姿を見ていると、これまでの己にはありえない感情が浮かんできて、危うく声に出してしまうところだった。
慌てて口元を手で覆い、その姿から目を逸らす。
辺りは静まり返っていて、胸の奥がドクドクと煩く脈打っているのがよく分かる。
忙しく仕事をしていると、彼女のその声に、姿に、張りつめていた神経が緩みほっと安堵する。
彼女が己の名を呼べば、胸の奥がとくんと脈打つ。
お互いが離れすぎて、身体を一瞬引っ張られる様な感覚が襲うと、彼女がやってくるのだと待ちわびてしまうようになったのも薄々気づいていた。
飛ぶようにやってくる彼女を難なく受け止めれば、触れた温もりと柔らかさに心が満たされるような気さえしていた。
これまで抱いたことのない感情に戸惑いが生じる。
頭を振って雑念を払うと、立ち上がりユズハへと近づいて行った。
時刻はそろそろ二時半を過ぎようとしている。
あと数か所王宮内を回ればすぐに夕刻になるだろう。
名残惜しいが、彼女も俺もこの窮屈な正装から着替えるべきだ。
やってきた俺に気づいたユズハが立ち上がってこちらを向いた。
不満は吐き出しきったのだろうか。その顔には笑顔が浮かんでいる。
彼女に近づきながらその姿を目に焼き付けた。
夜会にでも参加しなければ、正装する機会などそうそうありはしない。
王宮に勤める者は貴族の中でも仕事熱心な者が多く、社交界などそっちのけの者が多い。
夜会など参加している暇がない程に忙しいのが現状だ。
人員不足という訳ではないのだろうが、仕事熱心な者の元には仕事が集中するのが世の常だ。
ユズハの目の前まで行き立ち止まる。
「そろそろ戻ろうか」
そう言って手を差し出せば、彼女はふわりと笑って手を乗せてくる。
風に吹かれた花びらが辺りに舞いその香りを運んでくる。
掴んだ掌は温かく、彼女は全身に花の香りを纏っていて己の鼻腔をくすぐった。
穏やかに微笑んでいる彼女を見ていると、己にもまた笑みが浮かぶ。
こんな日常がこれから先も続いていくと、それが壊れることを疑うはずもなく日々が穏やかに過ぎて行った。




