第10話 -龍- ※神官視点
日に日に身体の重怠さは抜けていった。目覚めもこれまで感じたことがないほどに清々しい。
彼女がこの世界にやってきて隣で眠る様になってから、毎夜の如く見ていたあの悪夢を一切見なくなったのだ。
眠るたびに精神を擦り減らしていた為、それだけでも十分に有難いことだったのだが、それに加え浅かったはずの普段の眠りも深く熟睡するようになっていた。
それこそ離れて寝ていたはずの人物が己にくっついてきても目覚めないほどにだ。
そのことは己を大いに困惑させた。
これ程に拒絶の念を抱かない相手は初めてだったからだ。幼い頃から一緒にいたあの義兄ジェイドでさえ一緒に寝たことはない。というか、これまで寝ている時に誰かが傍についていたことがない。あの事件の後においては。
悪夢を見ないこともそうだが、彼女の存在自体に安堵している己がいることも薄々自覚してきていた。
彼女の纏う雰囲気が似ているのだ。いつもあの悪夢から救い出してくれる『ゆらぎ』が持つ温かさに。
同じ部屋で寝るようになり、二日目からは簡易ベッドが運び込まれ別々に寝るようになったのだが、ふと目が覚めるといつも彼女は己にくっついていた。
いつの間にこちらのベッドに入ってきたのかそれすらも己は気づいておらず、朝目覚めて、時には夜中に目覚めて、己の腕の中で穏やかに眠る彼女の寝顔に驚かされるのだ。
己が寝ている位置はベッドに入った時と変わっていないので、彼女の方が移動しているのだろう。
彼女が目覚める前に己が先に起きる為、彼女は未だ気づいてはいない様だ。
そのことは朝目覚めた彼女の反応を見ていればわかった。
夜中に目覚めた時も、彼女が起きて吃驚しないようにと、その身体を己から引き剥がし隙間を空けてそのまま己のベッドに寝かせている。
彼女が使っているベッドまで運んでも良かったのだが、最初のうちは体力がまだ戻っておらず運ぶことができなかったこと、その後についてはこちらのベッドの方が寝心地が良いだろうと思い、そのまま寝かせている。
慣れないうちは目が覚める度に驚愕していたが、五日もすると慣れてきて、目が覚めて己の腕の中にいる存在にどこか安堵している自分がいることにも既に気づいている。
朝目覚めるのが少し楽しみにもなってきていた。
そして今日もまた己の腕の中で穏やかな表情で眠る彼女に笑みを零し、一度優しく抱きしめてからそこからするりと抜け出した。
それらは己しか知らない事実。
毎朝食事の準備をしてくれているスヴェンは己のベッドで寝ている彼女に気づいているのだが、彼も特に追及しては来ない。
――グリフォード様のベッドをよほど気に入られたのでしょう、と穏やかに笑っていた。
*・*・*
夕食を済ませ、今日中に片付けておきたい書類があった為執務室で仕事をしていると、休憩室へと続く扉をノックする音が聞こえそちらへと視線を向けた。
小さく開けた扉の隙間から彼女が顔を覗かせた。
様子を窺うようにしてこちらを見ている。
「どうした」
彼女に声を掛ければ、まだ忙しいですよねと申し訳なさそうな表情で呟いた。
構わないと告げれば彼女はお風呂をお借りしようかと思ってと口にした。
己はいつも遅くまで仕事をしていることが多かった為、彼女には先に風呂に入る様に言っていた。
大して離れられない為、姿が見えなくなるということはそうないのだが、油断していれば風呂で鉢合わせしかねないとも思い、使用するときは一声掛けるように言っていた。
そうしていつもの様に彼女は風呂に入ることを告げに来たのだった。
ゆっくり入ってこいと伝えると、彼女は礼を言って微笑み浴室へと向かった。
その直後、身体がくいっと引っ張られる様な感覚がしておやっと思っていると休憩室へ続く扉が開き、彼女が飛ぶようにしてやってきた。
咄嗟に立ち上がり、彼女が机や椅子にぶつからない様に抱き留めた。
どういう原理かは分からないが、扉などの障害物は勝手に開き、移動に邪魔になるものは綺麗に避けて怪我をすることなく彼女は己の元へ飛んでくる。
このところ気を付けていたので、この感覚は久しぶりだった。
腕の中にいる彼女は小さくうぅっと呻いている。
「風呂に入るのではなかったのか?」
そう問いかければ、彼女は「届きませんでした……」と言って小さく縮こまった。
これまでは休憩室かプライベートルームで仕事をしていたので、気にならなかったのだが、今日は執務室で仕事をしていた。
届かなかったという彼女の言葉に漸くそのことに気付いてふぅっと小さく溜息を零した。
彼女が服を脱いだりした後でなくて良かったと零した安堵からの溜息だったのだが、彼女は呆れられたとでも勘違いしたのだろうか。更に小さく縮こまってすみませんと呟いていた。
「少し待っていろ」
そう言って彼女から手を離し処理していた書類を手に取り、その他のものを簡単に片づけると休憩室へと移動した。
己の後を大人しくついてきた彼女は首を傾げている。
移動した理由に気づいていないらしい。
「風呂に入るのだろうが、さっさとしろ」
立ったままの彼女にそう言い、己はソファに座りテーブルに書類を広げた。
暫くぽかんとしていた彼女だったが、己が移動した意味に気づいて曇らせていた表情がぱあっと明るくなり笑顔を見せた。
「ありがとうございます」
元気よく礼を言って浴室へと向かう彼女のその姿からしばし視線を動かすことができなかった。
プライベートルームへと続く扉が閉まるとふっと息を吐きだし苦笑を零した。
「ほんとによく表情の変わることだ」
そうぽつりと零して手元の書類に目を滑らせた。
暫く書類整理を続けて、あと数枚で終わるところで、扉がこんこんとノックされた。
プライベートスペースへと続く扉の方だ。
顔を上げてそちらを見ると風呂から上がった彼女がやってきた。
「お風呂、ありがとうございました」
礼はいいと言っているのに、彼女はいつも小さなことでそれを口にする。
そんな彼女と接していると、そういった小さなことが己にもうつってくるから不思議だ。
ジェイドからも最近言われるようになったが、ここ数日で随分と穏やかになったらしい。
自分では微塵もそんなつもりはないのだが、今日執務室にやってきた部下なども時折ほっとした表情を見せていたなとも思う。
スヴェンも――良いことでございますと笑みを見せるので、どう接したらいいのか分からず時折困ってしまうようになった。
「お茶淹れましょうか?」
「――ああ、頼む」
彼女がお茶を淹れている間に、手元の書類は処理を終え一段落した。
それらを纏め、片付ける為に執務室へと向かい、引出しの中に仕舞ってから戻ってきた。
彼女はすでにソファの傍におり、いなくなった己を探してきょろきょろとあたりを見回していた。
戻ってきた己に気づいた彼女の表情がまたぱあっと明るくなる。
突然いなくなって驚いていたのかもしれない。
「すまない、書類を仕舞ってきたんだ」
「大切なものですから、当然です」
テーブルを挟んで向かい合ってソファに座り、彼女が淹れてくれた紅茶を口にした。
流れる穏やかな雰囲気に、疲れた身体が癒される様な感覚が己を包む。
互いに何も話すことなく穏やかな微睡に身を任せていると、暫くして彼女がおずおずと声を掛けてきた。
見ればその手には一冊の本が握られている。
今日の午後になって彼女に読んでおくようにと渡した物だった。
「どうした」
彼女にこの言葉を投げかけるのは何度目だろうか。口癖のようになっているなと内心で苦笑を零していると、彼女は窺うようにして話し出した。
「…あの、忙しいのにすみません」
「いや、仕事はもう終わったから大丈夫だ」
話し難そうにしている彼女にもう一度『どうした』と問えば、彼女は手に持っていた本を広げて見せてきた。
「どうしても分からないところがあって」
そう言って差し出した頁に目を向けた。
分からない場所が何箇所かあるようで、向かい合っていても分かり辛いので、彼女の隣へと移動した。
距離が近づき、彼女が少し動く度にふわりと石鹸の優しい香りが漂ってきた。
その度にざわりと騒ぐ胸の鼓動を深く息を吸って落ち着かせ、彼女が分からないと言った本の内容について説明していった。
それは『龍』に関する記述のある部分だった。
「この文字は『龍』と読む。お前の国には龍はいないのか?」
「……龍…。…いません。伝説上の生き物としか伝わってなくて」
「そうか」
彼女は自分の世界にも共通することに関しては飲み込みが早い。だがこういった未知の物に遭遇すると途端に理解が及ばなくなる。
それは彼女だけに限らないので、致し方ないことだと思った。
その本にある記述について、己の知識も織り交ぜながら分かり易いように説明していった。
「この世界は四つの国に分かれているというのは、以前説明したな」
「はい」
頷く彼女に、そのまま説明を続行する。
この世界は、今我々が暮らしているこのフォストゼア、そして他にテラエーデ、アクヴェスト、ウィントスという四つの国に分かれている。そしてそのそれぞれの国が龍によって守護されていた。
このフォストゼアは緋の国とも呼ばれており、その名が示す通り焔を司る緋龍によって護られている。
他の国についても同じく。
――テラエーデは湟の国、地を司る湟龍の守護
――アクヴェストは蒼の国、水を司る蒼龍の守護
――ウィントスは翠の国、風を司る翠龍の守護
といった具合に。
そしてそれぞれの国で特別とされる役職に就くものは龍の加護を受けており、その国の象徴である色をその身に宿していた。
そこまで話すと、彼女は己へと視線を移し、じっと見つめていた。
「…その髪と瞳の色は……」
ぽつりと彼女が言った言葉は先ほど己が言ったことを正しく言い当てていた。
「そうだ。俺は緋の龍の加護を受けている――緋の神官、だ」
羨望、恐れ、そして忌避。それらの感情を向けられる対象となるこの緋の色は生まれ持ったものではない。
大抵のものは生まれた時からこの色を身に受けているのだが、己に至っては違う。この瞳も髪もあの忌まわしき十五年前の事件の時に発現したものだ。もとは黒に近い群青の髪に紫の瞳だった。それがたった一日、いや数時間でこの鮮やかな緋色に変わってしまったのだ。
――焔にまかれ、己も死んだと思っていたのに…。
色が変化したあの日のことは未だに鮮明に脳裏に浮かびあがる。
その不快な感情に眉を顰め目を伏せていると、己の右の掌に温かな熱が重なった。
目を開けると隣に座る彼女の手が己の掌を包む様にして触れていた。
視線を彼女へと向ければ、その顔は心配そうな表情で己を見上げていた。
自分は緋の神官だと告げたきり黙ってしまい、辛そうに眉根を寄せていた己の様子が予想以上に彼女に心配を掛けてしまったようだ。
大丈夫だと笑みを見せれば、彼女はほっと息を吐き出した。
安堵して離そうとしたその手を己はそっと握りしめた。びくりと一瞬震えたのが伝わってきたが、彼女は己を見上げその表情を和らげると繋いだ手を軽く握り返してきた。
そのことに己はまた気持ちが落ち着いていき、中断してしまった話の続きを口にした。
「瘴気が国中の至る所で発生するのは国の存亡に関わる重大な危機だと話したのは覚えているか?」
「はい、その現象を鎮静化することのできる力を持つ者を召喚したと。でも、この世界は龍によって守護されているのに、危機が訪れるんですか?」
数日前、まだこの世界について何も知らない彼女に話した内容について確認すると、彼女はすらすらと答えた。そして誰もが疑問に思うであろうことについても口にした。
その問いに答えるように一つ一つ丁寧に説明していった。
「…この世界には国を守護する龍が四種類いると話したが、正確には龍はもう一種、存在する。――『紫龍』という。またの名を『怨龍』」
「怨龍…」
「そうだ。国中に発生している瘴気は、その紫龍が復活する兆しの現れと言われている。紫龍はその名が示す通り、怨恨の思念の塊だ。その感情が昇華されるまで破壊の限りを尽くすとされている。実際にこの国で紫龍が復活したのは三百年ほど前になるようだが、他国での最後の目撃情報は七十年前だ」
「…その時も誰か召喚されたんですか?」
「ああ、ただし異世界からでなく、この世界の人物だったらしいがな」
「……そう、なんですね」
そう言ったきり彼女は視線を落とし口を噤んだ。
ぽつりと零した声はどこか暗く、握っていた手に僅かに力が入ったのが伝わってきた。
「…どうした」
不安なのだろうとは思った。
数日前、彼女がこの世界に召喚された理由について話した時は、ここまで話してはいなかった。
予想していたよりも大きな役目を負わされていることに恐怖と不安が押し寄せてきたのだろう。
俯く彼女の頭を、繋いでいない方の手で優しく撫でると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……紫龍は必ず復活するんですか?」
「いや、そうとは限らない。復活前に事態を鎮静化できれば、あるいは」
「――紫龍について、記述は残っていないんですか?」
「紫龍に関することは国家機密だ。故に他国での紫龍復活については知る術がない。しかも紫龍については記述として記すことができないとされている」
「記述することができないって、どうして…」
「…わからない。が、実際に記してみればわかる」
そう言ってテーブルにあった紙に『紫龍』と書き記してみせると…。
「――字が…消えた…」
「そうだ。こうして消えてしまうんだ」
試しに他の文字も記してみると、そちらは消えることなく書いた時のままそこにある。がしかし、『紫龍』または『怨龍』と書き記すとそちらは瞬く間に消えてしまう。
「どうして…」
ぽつりと零した彼女の言葉に、己は頭を振って答えを返す。
「わからないんだ。これまで多くの者がこのことについて調査、研究してきたが未だに解明されていない」
不可解な事実に、彼女の表情が曇っていく。
「すまない、巻き込んで…」
己がそう言うと、彼女は俯いていた顔を上げて言葉を紡いだ。
「わたしにできることがあるのならやります。だから…」
――そんな顔しないで。
その言葉と共に彼女の柔らかく温かな掌が己の頬にそっと触れた。
彼女に言われて気づく。己が彼女に見せた表情がどうであったか。
同調したのだろうか、彼女の方が辛そうな顔をしている。
己の頬に触れている彼女の手を自身の手で包み込みその瞳を覗き込んだ。
「ユズハ、お前を一人にはしない。必ず護ると誓う」
「…っ……はい、お願いします、神官様」
己の言った言葉に驚いて目を丸く見開いていた彼女が、息を呑みそして次に柔らかく微笑んだ。
彼女の笑みに己もまた強張っていた身体から力が抜けていった。
その名を口にすれば、胸に渦巻く負の感情も霧散していくような晴れやかな気持ちになった。
「ひとつ気になっていることがある」
「?なんでしょう」
居住まいを正し、己の言葉に首を傾げている彼女に続く言葉を紡いだ。
「その『神官様』という呼び方、どうにかできないか?」
「え?…えっと……」
「……ディクスでいい」
彼女は己のことをずっと神官様と呼んでいた。
何となく気になっていたのだが、訂正する機会がなくこれまでそのままだった。
良い機会なので、ここで訂正しておくことにしたのだ。
名前で呼ぶようにと言えば、彼女は思案するように視線を彷徨わせた。
「…ディクス様…?」
「敬称はいらない」
「でも…」
「なら、ディーと呼べばいい」
「…ディー…?」
「ああ、そうだ。敬語も必要ない」
そう言えば彼女は小さく呟くようにして己の名前を繰り返している。
その様子が心地よくて、知らず笑みを零していた。
「ディー」
「なんだ」
確かめるように彼女が呼んだ己の名に返事を返した。
互いの視線がぶつかり合い、返事が返ってくると思っていなかったのかきょとんとしていたその表情が次の瞬間には綻んだ。
その彼女の表情にとくんと胸の奥が疼いたがそっと素知らぬ振りをした。
「今日はもう遅い。続きはまた明日にでも話そう」
そう言って話を切り上げた。
握っていた手を離せば、彼女はわかりましたと言って立ち上がりカップとティーポットを片付けに行った。
己もテーブルに残っている書類と、彼女が持っていた本を手に取るとプライベートルームへと移動する。
暫くしてやってきた彼女に、お互いにおやすみと声を掛け合いベッドに入った。
宵闇深い真夜中の微睡みの中、いつもの様に彼女が己のベッドに潜り込んできたのをどこか待ち望んでいた自分がいた。
彼女が朝まで一度も目覚めることがないのは、これまで過ごしてわかっていた。
だから、今日だけは彼女を引き剥がすことなくそのまま腕の中に抱いて微睡みに身を任せた。
朝に引き剥がせば良いと、その柔らかく温かな存在を感じて心地良い眠りに落ちていった。




