「ロカルノ体制」の構築と「パリ不戦条約」の締結から「ヤング案」の成立まで
第一次世界大戦後、ドイツ帝国に代わって誕生したヴァイマル共和国がヒトラーのナチスによって支配されるまでの議会の変遷についてのまとめ。その⑤
「ロカルノ体制」の構築と「パリ不戦条約」の締結から「ヤング案」の成立まで。
1924年ごろから1928年ごろまでの、米英仏独各国の外交調整によりドイツの社会や経済が安定した約5年間のできごとについて。
本文は神野正史氏の『世界史劇場』や、ネットのコトバンクやウィキペディアなどを参照してつくっています。
「セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』の読書まとめ」https://ncode.syosetu.com/n4435es/の、こちらのほうの参考のためのものなので、こちらのほうもどうぞ。
「ヒトラーが政権を掌握するまで」https://ncode.syosetu.com/n3752fe/1/の、こちらのほうにはより簡単なヴァイマル共和国の歴史の流れを追うまとめを載せています。
◆ 「ロカルノ体制」の構築と「パリ不戦条約」の締結から「ヤング案」の成立まで
● ドイツの復活を恐れるフランスの求めで結ばれた『ロカルノ条約』
第一次世界大戦後、フランスはドイツに巨額の戦後賠償金を支払わせていたが、しかし余り締め上げすぎてはドイツが破綻してしまうし、かといってドイツが賠償金の支払いができるよう復興を支援すれば今度はドイツの再起を助けることにもなるしというジレンマに陥っていた。
そこにはドイツの逆襲を極度に恐れるフランスの恐怖心があった。
1924年のロンドン会議で「ドーズ案」によるドイツ経済の復興支援が進められることとなったが、しかしそんなことを許して、またドイツがフランスへと攻め寄せてくるようなことになったらどうするのか?
ドイツの首相シュトレーゼマンはこうしたフランスからの要求に対し、相手のどんな無理難題も受け入れることで相手を安心させ、自国に対する警戒心を解かせようとする「履行政策」をとっていたが、
ドーズ案に不信感を募らせるフランスに対し、彼は今一度ヨーロッパの主要国が集まって、戦後の国際秩序について話し合う場を設けてはという提案を行った。
そうして、1925年10月に開かれたのがスイスのロカルノで開催された「ロカルノ会議」。
この会議では、いつドイツがベルサイユ条約を破って、非武装地帯を突破して侵略してくるかもしれないとの怯えを募らせるフランスに対して、先ず、
・ドイツは現在の西方国境を守る
・ドイツ軍はラインラント地帯に進駐しない
という、ベルサイユ条約で定められていた内容が再確認された。
だがそれでもまだ怯えるフランスに対し、上記の内容をイギリスとイタリアが保障してあげることとなった。
それが「ライン条約(ラインラント条約)」。
が、それでもまだ不安だったフランスは、フランスと同様ドイツと国境問題を抱えていたチェコスロバキアと「仏捷相互援助条約」を結ぶとともに、それに加えてポーランドとも同じ「仏波相互援助条約」を締結することで、
フランス、チェコ、ポーランドの三国でドイツを三方から包囲する体制を作り上げた。
が、それでもまだ安心できなかったフランスはドイツに対し、フランス、ベルギー(耳)、チェコ(捷)、ポーランド(波)各国とそれぞれ「仲裁裁判条約」を締結し、もし将来ドイツとこれら4ヶ国との間に紛争が生じたときは、武力に訴えることなく、必ず国際連盟の仲裁を受け入れることを義務付けさせることとした。
いわゆる「ロカルノ条約」とは、これら条約群の総称のことを指し、
フランスのこのロカルノ条約によって、国際連盟という組織を上に戴きつつ、同時に国際紛争を軍事によらず仲裁裁判で解決をしていこうとする新たな国際安全保障体制の枠組みが生み出されることともなった。
※「ロカルノ条約」
・ラインラント条約 ラインラント非武装の再確認
独仏耳の国境現状維持の再確認
英伊による条約の保障
・仏捷相互援助条約 ドイツのロカルノ条約違反を三方包囲で監視する軍事同盟
・仏波相互援助条約 (上に同じ)
・独仏仲裁裁判条約 締約国同士の紛争発生時、武力に訴えることなく国連の仲裁を義務化
・独耳仲裁裁判条約 (上に同じ)
・独捷仲裁裁判条約 (上に同じ)
・独波仲裁裁判条約 (上に同じ)
・防衛戦争承認条約 防衛戦争の正当化の確認
● ドイツの国際連盟参加と『パリ不戦条約』
「ロカルノ条約」はグラついていたヴェルサイユ体制を補完するもので、これに基づく国際秩序を「ロカルノ体制」と呼んだ。
ロカルノ条約成立後、ドイツ外相シュトレーゼマンは、ドイツのフランスに対する脅威もなくなったとして、ドイツの国際連盟への加入と、フランスに対してライン川左岸地域からの軍の撤収とザールの返還を求めた。
フランスのブリアン首相はドイツの連盟参加は認め、ドイツは1926年に国際連盟への参加が決定するが、しかしライン左岸からの軍の撤退とザールの返還は認めなかった。
フランスは、国際連盟にもヴェルサイユ体制にもロカルノ体制にも、致命的な欠陥があり、いまだドイツの脅威は減じてなどいないと主張。
その"致命的欠陥"とは、当時、世界最大の軍事大国にして経済大国だったアメリカが国際連盟をはじめとしたいずれの国際秩序にも参加していないということだった。
アメリカの保障のない国際秩序に信用はなく、安定を得られない。
そこでフランスは、ドイツの脅威を消し去るべく、アメリカ不在の国際連盟を補うため、いっそ国際連盟とはまた別に、ドイツを仮想敵国とした「米仏軍事同盟」を成立させようと思った。
しかし「孤立主義(中立主義)」を掲げていた当時のアメリカにそのまま軍事同盟を持ちかけても、紛争に巻き込まれることを嫌がって断られてしまうにちがいないと、そこでフランスはアメリカに、軍事同盟ではなく、両国で先の大戦のような悲惨な戦争を二度と繰り返すまいという「不戦の誓い」を掲げた二国間協定を結ぼうではないかと持ちかけることにした。
アメリカはもちろんフランスの本心が「ドイツを仮想敵国とした米仏軍事同盟」であることなどわかっており、アメリカは、この協定を結ぶことで将来フランスとドイツが交戦状態になったとき、アメリカが巻き込まれることを恐れた。
そこで、フランス首相アリスティード・ブリアン首相からの申し出に対し、アメリカ国務長官のケロッグは、米仏の二国だけでなく、もっと多くの国々で共有する多国間協定にすることを提案。
1928年8月27日、こうして生まれたのが『パリ不戦条約』だった。
「パリ不戦条約」は、米仏の二国だけでなく、イギリス、ドイツ、ベルギー、イタリア、ポーランド、チェコ、アイルランド、カナダ、オーストリア、ニュージーランド、インド、日本、南アフリカの13ヶ国を加えた、計15ヶ国で結ばれることとなった。(10年後には63ヵ国まで拡大)
不戦条約にドイツも参加させたことで、ドイツを仮想敵国とすることを狙ったフランスの目論みも見事に外される結果となった。
内容はたったの三カ条で、
第一条、締約国は国際紛争解決のために戦争に訴えることを非とする
第二条、締約国は相互間に起こる一切の紛争・紛議を平和的手段によって解決することを宣言する
第三条、本条約は各締約国の憲法に基づき批准されたのちに実施される
というもの。
ただし重要な問題があり、短い条文中に登場する「戦争」「紛争」「紛議」「平和的手段」といった文言には一切の"定義"というものがなされていなかったが、
その受け取り方については「解釈公文を認める」とされることになったという点。
つまり「文言の解釈については各国がそれぞれ勝手に解釈してよい」ということ。
そのため例えばアメリカでは、
「条約で禁止されている"戦争”とは、侵略戦争を指し、防衛戦争は禁止されていないものと解釈する」
「国益を守るためであれば、自国外に軍を派兵しても防衛戦争である」
と解釈するようにしたという。
また、短い条文には、期限についての言及がなく、条約を破った場合の罰則規定もなかった。
● 1928年ドイツ国会選挙の実施(ドイツ革命後5回目)
「パリ不戦条約」が調印される約3ヶ月前の1928年5月20日、ドイツではドイツ革命成立後5回目となる国会総選挙が行われていた。
大統領は、ロカルノ条約成立前の1925年5月12日に、選挙によって選ばれたパウル・フォン・ヒンデンブルク代5代大統領。
ヒンデンブルクはかつて第一次世界大戦時、ロシア軍との戦いである東部戦線において東部第8軍司令官として、参謀長だったルーデンドルフと共に「タンネンベルクの戦い」で大勝利を収め、戦後、ルーデンドルフと共に「タンネンベルクの英雄」として国民の崇拝の的となっていた人物。
首相は前回1924年に行われた2回の選挙のときと同じく、中央党のヴィルヘルム・マルクス首相が、第四次となる内閣を組んでいた。
※1928年ドイツ国会選挙(1928年5月20日実施)
党名 得票 得票率 (前回比) 議席数 (前回比)
ドイツ社会民主党 (SPD) 9,152,979票 29.76% +3.74% 153議席 +22
ドイツ国家人民党 (DNVP) 4,381,563票 14.25% -6.24% 73議席 -30
中央党 (Zentrum) 3,712,152票 12.07% -1.53% 61議席 -8
ドイツ共産党 (KPD) 3,264,793票 10.62% +1.68% 54議席 +9
ドイツ人民党 (DVP) 2,679,703票 8.71% -1.36% 45議席 -6
ドイツ民主党 (DDP) 1,479,374票 4.81% -1.53% 25議席 -7
ドイツ中産階級帝国党 ("WP") 1,387,602票 4.51% +2.22% 23議席 +11
バイエルン人民党 (BVP) 945,644票 3.07% -0.67% 17議席 -2
国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) 810,127票 2.63% -0.37% 12議席 -2
キリスト教国家農民及び農村住民党 (CNBL) 571,891票 1.86% New 9議席 New
公民権及びデフレのための帝国党(ドイツ語版) 483,181票 1.57% New 2議席 New
ドイツ農民党(ドイツ語版) (DBP) 481,254票 1.56% New 8議席 New
農村同盟(ドイツ語版) 199,548票 0.65% -1.00% 3議席 -5
ドイツ=ハノーファー党 (DHP) 195,555票 0.64% -0.23% 4議席 +/-0
ザクセン農民(ドイツ語版) (SLV) 127,700票 0.42% New 2議席 New
その他諸派 880,181票 2.86% 0議席
有効投票総数 30,753,247票 100.00% 491議席 -2
選挙の結果、ヴィルヘルム・マルクス内閣を支持するブルジョワ諸政党が敗北して野党のドイツ社会民主党(SPD)が勝利し、
社民党首班政権のハインリヒ・ミュラー内閣が成立することとなった。
当時ドイツは好景気であったため、ヴァイマル共和政が肯定的な評価を受け、ヴァイマル共和政を作った社民党(SPD)が再評価を受ける結果になったのだという。
この選挙結果を受け、久しぶりの社民党首班政権である第2次ヘルマン・ミュラー内閣が成立。
ミュラー内閣は、ヴァイマル連合の社民党(SPD)・中央党 (Zentrum) ・ドイツ民主党 (DDP)の三党に加え、
これにさらにドイツ人民党 (DVP) ・バイエルン人民党 (BVP)を加えて与党で議席の過半数を超える大連立政権を組み、ヴァイマル共和政下では最長を記録する安定した内閣となった。
一方、保守・右翼陣営は惨敗。ドイツ国家人民党 (DNVP) は三分の一近くの議席を失って73議席にまで落ち込んだ。
ナチ党も国家社会主義自由運動 (NSFB)時代より議席を減らして12議席にとどまった。
ナチ党は、ミュンヘン一揆の失敗で党首のヒトラーが逮捕されて裁判の結果、1924年4月1日、要塞禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容されることが決まり、
ナチ党も非合法化されてしまう。
しかしナチ党ではミュンヘン一揆の失敗を経て武力による政府の打倒から、選挙を通した合法活動による政権獲得を目指すように方針を転換。
非合法期間中のナチ党では、第一次世界大戦で活躍したルーデンドルフ将軍を担ぐ「ドイツ民族自由党」(DVFP)と組んで「国家社会主義自由運動」(NSFB)という偽装政党を設立して選挙に参加。
ヒトラーがまだ収監中で、ナチ党も非合法状態のまま参加した1924年5月の選挙では32議席を獲得したものの、次の12月の選挙では14議席に下落。
1924年12月20日にヒトラーが釈放され、また1925年2月27日に非合法化が解除されナチ党も正式に再結成されるが、
しかし1928年5月12月に実施された選挙では、党内の内部分裂抗争も影響して大敗する結果となってしまった。
好景気のもとでは極右には需要はなかった。
しかし、その直後に巻き起こった「世界大恐慌」の発生によって、ナチ党は次の1930年5月の総選挙以降、うなぎのぼりの大躍進を遂げていくこととなる。
※ 経済安定期間中のナチスの選挙
1924年5月 32議席・・・国家社会主義自由運動 (NSFB)として参加
1924年12月 14議席・・・国家社会主義自由運動 (NSFB)として参加
1928年5月 12議席・・・再結成された国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP、ナチ党) として参加
※ 世界恐慌後のナチスの選挙
1930年9月 107議席・・・第二党に躍進。
1932年7月 230議席・・・第一党に躍進。
1932年11月 196議席・・・議席を大きく落とすも第一党を保持。選挙後、ヒトラーが首相に就任。(ヴァイマル共和体制最後の選挙)
※ ヒトラー内閣成立後のナチスの選挙
1933年3月 288議席・・・選挙後の3月23日に全権委任法が成立。その後、7月までにナチ党以外の全政党が解散に追い込まれ、7月14日には政党新設禁止令が制定される。
1933年11月 661議席・・・ナチ党のみによる選挙。
1936年 741議席・・・ナチ党のみによる選挙。
1938年 813議席・・・ナチ党のみによる選挙。
● ヤング案の成立
パリ不戦条約が締結された翌年の1929年、当面5年間だけのドイツの賠償金返済計画がまとめられた「ドーズ案」の期限が切れたため、
この1929年になって、もう一度ドイツの戦後賠償金返済方法について話し合う「ハーグ会議」(1929年8月8日~30日)が開催されることとなった。
この会議の中心人物となったのは、モルガン系企業のアメリカ人財政家オーウェン・D・ヤング。
かつて1921年のロンドン会議で決められた総額1320億ゴルトマルクの賠償金は、この時点で既に1100億ゴルトマルクにまで減っていた。
1929年のハーグ会議ではヤングとフランス首相ブリアンとの折衝の結果、年間の返済額は16~24億ゴルトマルクで、それを59ヵ年ローンで返済させていくということが決められた。
またこの決定によって、ドイツの賠償金総額は、残り1100億ゴルトマルクからさらに358億ライヒスマルクにまで減額されることとなった。
(ドイツのハイパー・インフレ後にドイツで発行された新貨幣「帝国マルク」は、旧貨幣「金マルク」と同じ金兌換額(純金約358g)とされたため、
「帝国マルク」と「金マルク」は、額面上ほぼ同じ額)
ところが、ヤング案の実施が決定したその年1929年の10月24日から、「世界大恐慌」が発生。
この結果、ヤング案は一年ともたずドイツは再び返済不能に陥り、そしてその後、ドイツのヒトラーによって賠償金の支払い自体が破棄される結果となった。
ヒトラー個人についての細かい考察や、ヴァイマル共和制時代のドイツの歴史についてのまとめについては、以下のまとめもご参照ください。
「セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』の読書まとめ」 https://ncode.syosetu.com/n4435es/
『ヒトラーが政権を掌握するまでの略歴(神野正史『世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した』等からのまとめ)』 https://ncode.syosetu.com/n3752fe/