「ルール出兵」から「ドーズ案」の成立まで
第一次世界大戦後、ドイツ帝国に代わって誕生したヴァイマル共和国がヒトラーのナチスによって支配されるまでの議会の変遷についてのまとめ。その④
「ロンドン会議」での巨額賠償金の決定から、フランス軍による「ルール出兵」とドイツ国内でのハイパー・インフレの発生、ヒトラーによる「ミュンヘン一揆」等を経て、「ドーズ案」による賠償金額と支払い方法の変更が決められるまで。
本文は神野正史氏の『世界史劇場』や、ネットのコトバンクやウィキペディアなどを参照してつくっています。
◆ 「ルール出兵」から「ドーズ案」まで
● 「ロンドン会議」で"1320億ゴルトマルク"の賠償金額が決定
カップ一揆の鎮圧から一年がたった1921年。
この1921年は、ヒトラーがナチスの党首に就いた年だったが、海外のほうでは前年の「パリ講和会議」で棚上げにされていたドイツの戦後賠償について決めるための「ロンドン会議」が開催されていた。
しかしそこで決定された賠償額は、"1320億ゴルトマルク"という天文学的な金額に上った。
当時の平均的賠償金額は50億ゴルトマルクほど。
当時のドイツの国家予算がだいたい70~80億ゴルトマルクで、ドイツ国家予算の18年分。
フランス革命で潰されたブルボン王朝が残した借金でも国家予算の約10年分だった。
しかもドイツではその巨額の賠償金を「毎年60億ゴルトマルクずつ支払え」といわれた。
あまりドイツを追い詰めすぎてドイツ人の恨みを買えば、それがまた第二次世界大戦の火種になりかねないとイギリスは反対したが、フランスが頑として引かず、これほど非常識な数字となった。
この金額を聞かされたドイツのコンスタンチン・フェーレンバッハ首相(中央党)は、とても払えるわけがないと総辞職し、続いて就任したヨーゼフ・ヴィルト首相(中央党)はせめて金額の猶予を求めたが、やはり却下されてしまった。
● ドイツとソ連で「ラパッロ条約」を調印
第一次世界大戦の敗北によってドイツは戦勝連合国から理不尽なイジメを受ける結果となったが、同じく連合国からイジメ抜かれていた国としてソ連があった。
ロシアでもドイツと同様、第一次大戦中に国内で帝政を打倒する革命が勃発し、その結果1918年7月に、レーニン率いるヴォルシェビキ独裁体制による「ロシア=ソヴィエト社会主義共和国連邦」が誕生。
レーニンは交戦中の連合国に対し、「無賠償」(敗戦国から賠償金を取らない)、「無併合」(敗戦国の領土・国民の併合をしない)、「民族自決の原則」、「秘密条約の破棄」といった条件を掲げて和平交渉を求めたが拒否され、
逆に、ヨーロッパの共産化を恐れる英仏米日らによって「対ソ干渉戦争」(1918年3月~)を仕掛けられてしまう。
ドイツは第一次大戦中はロシア帝国とは敵同士だったが、戦後は共通の相手から苦しめられる境遇に陥り、そこで両国は1922年4月16日、「ラパッロ条約」を取り交わすこととなった。
ドイツは世界で初めてソ連を正式な国として認めて国交の正常化を図るとともに、両国間での戦後賠償権も放棄することが定められた。
また、ヴェルサイユ条約に違反し、内緒に相互で軍事訓練地を提供し合う秘密条約も交わされた。
これによりソ連はドイツ参謀本部流の訓練によって優秀な赤軍将校を多く育成することができ、ドイツもヴェルサイユ条約で禁止された戦車、飛行機、化学ガスの訓練をソヴィエトで行うことができるようなって、後の「再軍備」に向けた抜け道を獲得することともなった。
● フランス軍による「ルール出兵」
「ロンドン会議」で1320億ゴルトマルクというドイツに対する賠償金額が決められたが、ドイツではとても支払えないと賠償金の猶予を要請。
そのドイツからの要請の受諾をめぐって1923年1月から「パリ会議」が開催される。
イギリスのアンドリュー・ボナー・ロー首相は、認めてやろうと提案するが、
フランスのレイモン・ポアンカレー首相は頑として拒絶。
「賠償問題はすべに優先する!
現金徴収が不可能だというのなら、我が国は占領と征服を選ぶだけだ!」と、
遂にドイツへの出兵を決断。
フランスは第一次大戦でフランスと同様にドイツに苦しめられたベルギーを誘って「ルール出兵」を断行。
当時、ドイツのルール地方は、ドイツにおける石炭採掘量の73%、鉄鋼生産量の83%を占める地下資源の豊かな土地だった。
フランスはヴェルサイユ条約で既に、アルザス・ロレーヌ、ザール、ズデーテンという地下資源の豊富なドイツの土地を奪っていたが、フランスによるこの「ルール出兵」は、ドイツに残された最後の命綱まで奪おうとするような所業だった。
● ストを実行する労働者たちの給与保障に紙幣を増刷しまくりドイツ国内で「ハイパー・インフレーション」が発生
フランスの非情なルール占領に対し、ルール地方のドイツ労働者たちはストライキやサボタージュで対抗した。
これに対してフランス政府では、ストライキやサボタージュを行う労働者たちには給与を支払わず、さらにその首謀者たちを投獄するするという強硬手段に出る。
ドイツ政府のヴィルヘルム・クーノ首相(無所属、元ドイツ人民党)はフランスのルール占領に対してドイツ労働者たちの行動を支持し、「このたびのフランスの所業はヴェルサイユ条約違反である!」として、フランスに猛抗議を行った。
中央党・ドイツ社会民主党・ドイツ民主党の連立からなる少数与党政権を組んでいた前ヴィルト首相(中央党)は、賠償金支払い問題や左右の過激派を取り締まるために制定した「共和国防衛法」をめぐって、1922年11月に退陣。
クーノ首相は、エーベルト大統領の指名を受けて中央党・ドイツ人民党・バイエルン人民党からなる少数与党で新たな連立政権を組んだが、クーノ首相自身は当時は無所属の政治家だった。
クーノはもともと「ドイツ人民党」(DVP)に属していたが、右派のカップ一揆に対して同党が明確な拒否姿勢を示さなかったため離党していた。
しかしリベラル保守な政治姿勢だったクーノは、賠償金問題で大きな影響力を持つアメリカ合衆国との良好な関係が期待されてエーベルト大統領から指名を受け、ヴァイマール共和国で国会の承認を受けずに大統領権限で就任した最初の首相となった。
また、クーノ内閣では多数の閣僚が経済界から招聘された「経済内閣」となった。
しかしクーノ政権では、フランスのルール占領に対して罷業や怠業に出たドイツ労働者を支援し、彼らの給与を保障するために造幣局の輪転機を廻して紙幣を増発しつづけた結果、ドイツ国内ですさまじい「ハイパー・インフレーション」を巻き起こす事態を招いてしまう。
フランスが「ルール出兵」を行った1923年1月にパン一斤の値段が250パピエルマルクだったものが、一年後の1923年12月には約4000億パピエルマルクにまで跳ね上がった。
たった一年の物価上昇率が16億倍。
● シュトレーゼマン内閣の成立とインフレの沈静化
1923年いっぱいをかけてドイツ全土を襲ったハイパー・インフレーションに、ドイツ労働者たちは怨嗟の声を上げ、その怒りがクーノ内閣退陣要求運動へと向けられた結果、クーノ政権は崩壊。
代わって1923年の8月に誕生したのが、ドイツ人民党(DVP)のグスタフ・シュトレーゼマン内閣。
シュトレーゼマン自身は首相と外相を兼任し、ブルジョア保守派の「ドイツ人民党(DVP)」・中道派の「中央党 (Zentrum) 」・左派の「ドイツ社会民主党 (SPD)」からなる大連立政権を組織。
シュトレーゼマンは首相として9月に「非常事態宣言」を発し、ハンス・ルター財務大臣やヒャルマル・シャハト帝国通貨全権委員と共にレンテンマルクに切り替えるデノミネーションを実施し、インフレを沈静化させることに成功する。(「レンテンマルクの奇蹟」)
※ 「金マルク」と「紙マルク」の違い
ドイツの賠償金額の単位は「金マルク」。
1871年、プロイセン王国によってドイツが統一されて「ドイツ(第二)帝国」が誕生し、その二年後、ドイツ帝国で統一通貨として発行されたのが「金マルク」。
このマルクは「1マルク=純金358g」という金との交換義務が定められた「兌換」通貨として流通していた。
しかし、1914年に発生した第一次世界大戦の戦費を賄う必要から、戦中のドイツ帝国では金との兌換義務のないマルクを増刷して戦費を補った。
そこから、同じマルクでも、金との兌換義務のある「金マルク」と、兌換義務のない「紙マルク」で区別されて呼ばれるようになった。
第一次世界大戦終結後、ドイツ国内で流通していたのは金との兌換義務のない「紙マルク」だったため、連合国側では賠償金の支払いを、「1マルク=純金358g」で交換(兌換)できる「金マルク」で支払うように求めた。
1320億ゴルトマルクは、金の量に換算すると約5000tにもなるが、有史以来、人類が採掘した金の総量でも17tにしかならないとう。
ドイツでは戦後、フランスのルール占領に対抗して行ったドイツ労働者たちの給与支払いの肩代わりに、再び金との兌換義務のない「紙マルク」を大量発行した結果、途方もないハイパー・インフレーションに見舞われることとなった。
このハイパー・インフレの対処のために発行されたのが「レンテン・マルク」で、このレンテンマルクと紙マルクの交換レートは「1:1兆」と決められた。
そしてこの「レンテンマルク」と「紙マルク」の交換が進められた結果、単純にいえばドイツに流通する貨幣の量が1兆分の1に減って、ハイパー・インフレは終息していった。
インフレとは市場に流通している貨幣の量が多い状態のことで、貨幣の流通量を減らせば反対のデフレになる。
レンテンマルクの信用価値は、土地との交換を担保に決められていたが、レンテンマルクのほうも金との兌換義務はなかった。
ハイパー・インフレが終息した1924年からは、金との兌換義務のある「帝国マルク」が新たな通貨として発行された。
1ライヒスマルクは=1レンテンマルクで交換され、またこの新貨幣「帝国マルク」は旧貨幣「金マルク」と同じ金兌換額(純金約358g)とされたため、
「帝国マルク」と「金マルク」は、額面上ほぼ同じ額となった。
● ヒトラーによる「ミュンヘン一揆」の発生
ハイパー・インフレーションの発生によって、ドイツ国内は大混乱に陥ったが、この混乱に乗じて一気にヴァイマール中央政府を打倒しようと、1923年11月8日、ドイツの首都ベルリンから離れたバイエルン州の首都ミュンヘンで、ナチ党のアドルフ・ヒトラーが「ミュンヘン一揆」を起こす。
ナチスはもともとはミュンヘンを本拠とする「ドイツ労働者党(DAP)」という党員40名の地方の極右泡沫政党にすぎなかったが、第一次大戦終結直後の1919年にヒトラーが加入して以降、彼の政治指導力によって急速に党勢を拡大させ、翌1920年には「国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP:ナチス) 」へと改称。
さらにその翌年の1921年にはヒトラーが第一議長(党首)に指名されて党の独裁権を確立し、このころからヒトラーは絶対的指導者を意味する「フューラー」として崇拝されるカリスマと化していった。
※ナチスの党勢拡大
1921年 1月 党員 3,000名
1922年 2月 党員 6,000名
1923年 3月 党員 15,000名
1923年11月 党員 56,000名
当時、バイエルン州政府は中央から大幅な自治を認められ、州総督のグスタフ・カール、州警察長官のザイサー、州駐在陸軍司令官のロッソウらによる「三頭政治」が布かれていたが、バイエルン州の都ミュンヘンは右翼活動が活発で、中央からの独立志向が強く、州総督のカールも右派の指導者で、ヴァイマル共和国政府から独立し、バイエルン王家を復活させることを考えていた。
「背後の一刺し」(社会主義者たちによるドイツ革命)によってまだ交戦中だったドイツを敗戦に追い込んだ末、革命によってドイツ帝国を滅ぼしたヴァイマル共和政府を憎むことの甚だしかったヒトラーは、カールらバイエルン州政府と結託して、イタリアのムッソリーニの「ローマ進軍」をマネた「ベルリン進軍」を決行し、ヴァイマル中央政府の転覆を図った。
しかし、カールたちの後ろ盾となっていた中央軍部のゼークト上級将軍がカールたちの決起に「時期尚早である」と自重を促したことで、カールたちも拙速な反乱を考え直すようになった。
それでもヒトラーはそんなカールらバイエルン州政府の要人たちを、彼らが集会を開いていたビアホールに突撃隊で襲撃をかけて軟禁状態にしてまで、あくまで反乱の決行を迫ったが、隙をみて脱出したカールたち州政府から逆に討伐される立場となってしまう。
ヒトラーはなおもヴァイマル政府の打倒を目指し孤立したバイエルンの地で「ミュンヘン一揆」を起こすが、州政府によって鎮圧され、ヒトラー自身もその二日後に逮捕されるという結末に終わった。
ヒトラーは逮捕後「国家反逆罪」で裁判にかけられるが、彼は法廷の場で得意の大演説を行って裁判の傍聴人や裁判長を魅了し、だけでなく彼の裁判における発言がドイツの新聞各紙に掲載された結果、
「ヒトラーこそ真の愛国者だ!」
「彼をこのまま潰してはならない!刑に温情あるべし!」との声が高まり、
そうして最終的には禁固5年に罰金200ゴルトマルクという軽い刑に加え、さらに刑執行の9ヵ月後には仮釈放まで認められるという、ほとんど無罪に近いような判決を勝ち取るという成功を収めた。
● 「ドーズ案」の決定
1923年いっぱい猛威をふるったハイパー・インフレーションは、シュトレーゼマン内閣の働きで翌1924年には沈静化したが、ミュンヘン一揆の発生など、その間ドイツ国内は混乱を極めた。
そこで、連合国は再びドイツに対する賠償金について話し合う「ロンドン会議」(1924年7月~)を開催。
ロンドン会議では、アメリカ代表のチャールズ・ゲーツ・ドーズ提案による「ドーズ案」が新たに採用されることとなった。
年間60億ゴルトマルクの返済などとても不可能だとして、これを現実的な額に下げることが決められたが、ドイツは年間10億ゴルトマルク、フランスのほうは年間25億ゴルトマルクの返済を求めて対立。
そこで両者の中間をとり、初年度は10億ゴルトマルクの返済からはじめて、5年後にはフランスの希望する25億ゴルトマルクにまで年間の返済額を徐々に引き上げていくということで合意。
5年以降の先のことはまた、5年後に話し合うということも決定。
またドーズ案では、ドイツの経済復興のために、アメリカがドイツに対して毎年8億ゴルトマルクの融資と140億ゴルトマルクの資本投下を行う「ドーズ公債」による支援が成立し、
そして英仏ではアメリカの支援を受けてもたらされたドイツからの賠償金を、そのまま、英仏が大戦中にアメリカから借りていた戦債の返済に充てるという返済のサイクルも確立された。
アメリカ→ドイツ→英仏→アメリカという資本の流れは「資本のメリーゴーランド」と呼ばれ、国際経済も安定化に向うこととなった。
● 「1924年5月ドイツ国会選挙」の実施(ドイツ革命後三回目)
ハイパー・インフレを「レンテンマルクの奇蹟」によって鎮静化させた「ドイツ人民党(DVP)」のシュトレーゼマン内閣だったが、一方で、経済が安定したことでフランスのルール占領に対する「受動的抵抗」(ドイツ労働者たちによる罷業や怠業を支援する政策のこと)を中止したことや、ヒトラーが起こしたミュンヘン一揆の鎮圧に国軍を出動させたことに右派の野党「ドイツ国家人民党(DNVP)」が不満を抱き内閣不信任案を提出。
また、右派の支配するバイエルン州で起きた問題の対処には友好的だったのに対し、左派の支配するザクセン州で起きた問題の対処には敵対的だったシュトレーゼマン首相の態度に反発して連立から離脱していた「ドイツ社会民主党 (SPD) 」もこの不信任案に同調したことで、シュトレーゼマン内閣は1923年11月23日に総辞職。
代わって11月30日に、中央党のヴィルヘルム・マルクスが首相となり、中央党とドイツ人民党(DVP)とドイツ民主党(DDP)を与党とする第一次マルクス内閣が成立。
しかし国会における基盤の弱さを、時限立法で可決させた授権法(全権委任法)による命令で克服しようとしたマルクス首相の強引さが野党の反発を招き、
1924年3月13日、国会の解散が決定され、1924年5月4日に総選挙が実施されることとなった。
<1924年5月ドイツ国会選挙>(1924年5月4日)
党名 得票 得票率 (前回比) 議席数 (前回比)
ドイツ社会民主党 (SPD) 6,008,905票 20.52% -1.40% 100議席 -3
ドイツ国家人民党 (DNVP) 5,696,475票 19.45% +4.38% 95議席 +24
中央党 (Zentrum) 3,914,379票 13.37% -0.27% 65議席 +1
ドイツ共産党 (KPD) 3,693,280票 12.61% +10.52% 62議席 +58
ドイツ人民党 (DVP) 2,694,381票 9.20% -4.70% 45議席 -20
国家社会主義自由党 (NSFP)
(ドイツ民族自由党と旧ナチ党勢力) 1,918,329票 6.55% New 32議席 New
ドイツ民主党 (DDP) 1,655,129票 5.65% -2.63% 28議席 -11
バイエルン人民党 (BVP) 946,648票 3.23% -0.92% 16議席 -4
農村リスト 574,939票 1.96% 10議席
ドイツ中産階級経済党 (WP) 500,820票 1.71% New 7議席 New
ドイツ社会党(ドイツ語版) 333,427票 1.14% 4議席
ドイツ=ハノーファー党 (DHP) 319,792票 1.09% -0.14% 5議席 ±0
ドイツ独立社会民主党 (USPD) 235,145票 0.80% -18.01% 0議席 -84
バイエルン農民同盟(ドイツ語版) 192,786票 0.66% 3議席
その他諸派 597,363票 2.04% 0議席
有効投票総数 29,281,798票 100.00% 472議席 +21
選挙戦中の4月11日に「ドーズ案」が国連賠償委員会によって承認されたことで、これにより選挙戦の争点は一気にドーズ案への賛否をめぐるものとなった。
右翼野党のドイツ国家人民党 (DNVP)はドーズ案を「第二のヴェルサイユ条約」として激しく批判したが、左翼野党の社民党はドーズ案を容認。
5月4日の総選挙の結果は、ドーズ案に反対した極右と極左の大勝となった。
右翼野党の「ドイツ国家人民党 (DNVP)」は65議席から96議席へ躍進し、10議席獲得した農村リスト(Landliste)と合流して国会の第一党となった。
同じくドーズ案に反対していた共産党も17議席から62議席へ躍進。
反対に、ドーズ案に賛成した与党と社民党は得票率を落とす。
特に「ドイツ社会民主党 (SPD)」 は改選直前の議席171議席を100議席に落とす大敗を喫し、ブルジョワ政党である「ドイツ人民党 (DVP) 」や「ドイツ民主党 (DDP) 」も共に大きな打撃を受け、人民党は議席の三分の一を失って45議席、民主党は28議席しか取れなかった。
また、今回のこの「1924年5月ドイツ国会選挙」にはナチスも初めて参加し、選挙初挑戦にして32議席を獲得した。
ただし党首のヒトラーはまだ服役中で不在のまま。「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)」も党を禁止されていたため、彼らはドイツ民族自由党とともに「国家社会主義自由党(NSFP)」という偽装政党を創設して選挙戦に加わった。
● 「1924年12月ドイツ国会選挙」の実施(ドイツ革命後四回目)
1924年5月4日の国会選挙は強硬保守野党である「ドイツ国家人民党 (DNVP)」や、極右(当時非合法化されていたナチ党偽装政党)や極左(共産党)が躍進し、
ヴィルヘルム・マルクス内閣(中央党、人民党、民主党、バイエルン人民党の連立政権)を不安定化させる結果に終わってしまった。
マルクス内閣が出したドーズ案関連法案は、ドーズ案に反対していた右派の「ドイツ国家人民党 (DNVP)」から閣僚を政府に迎え入れるという条件で可決されたが、与党の「ドイツ人民党 (DVP) 」が難色を示して連立の維持が困難になり、
内閣の要請を受けたエーベルト大統領によって再び国会が解散させられ、前回の選挙から7ヶ月でまた総選挙が行われることとなった。
<1924年12月ドイツ国会選挙>(1924年12月7日)
党名 得票 得票率 (前回比) 議席数 (前回比)
ドイツ社会民主党 (SPD) 7,881,041票 26.02% +5.50% 131議席 +31
ドイツ国家人民党 (DNVP) 6,205,802票 20.49% +1.04% 103議席 +8
中央党 (Zentrum) 4,118,849票 13.60% +0.23% 69議席 +4
ドイツ人民党 (DVP) 3,049,064票 10.07% +0.87% 51議席 +6
ドイツ共産党 (KPD) 2,709,086票 8.94% -3.67% 45議席 -17
ドイツ民主党 (DDP) 1,919,829票 6.3% +0.69% 32議席 +4
バイエルン人民党 (BVP) 1,134,035票 3.74% +0.51% 19議席 +3
国家社会主義自由運動 (NSFB)
(ドイツ民族自由党と旧ナチ党勢力) 907,242票 3.00% -3.55% 14議席 -18
ドイツ中産階級経済党 (WP) 692,963票 2.29% +0.58% 12議席 +5
農村同盟(ドイツ語版) 499,383票 1.65% -0.31% 8議席 -2
バイエルン小作農・ドイツ中産階級(ドイツ語版) 312,442票 1.03% New 5議席 New
ドイツ=ハノーファー党 (DHP) 262,691票 0.87% -0.22% 4議席 -1
その他諸派 597,665票 1.97% 0議席
有効投票総数 30,290,092票 100.00% 493議席 +21
選挙の結果、「ドイツ社会民主党 (SPD)」がやや党勢を回復させて131議席を獲得し、野党でありつつも国会第一党の座を獲得。
右派の「ドイツ国家人民党 (DNVP) 」も議席を若干増やして野党でありながら国会第ニ党となる103議席を獲得。
他の中道3党(中央党、人民党、民主党)も若干得票や議席を増加させたが、
一方で今回の選挙では、極右と極左の得票が大きく減少する結果となった。
「ドイツ共産党 (KPD)」と旧ナチ党勢力がドイツ民族自由党と合同して結成していた「国家社会主義自由運動 (NSFB)」は揃って議席を前回から20%近くも減少させた。
しかし中道の3党だけでは政権が作れず、マルクス内閣では左派の「ドイツ社会民主党 (SPD)」と右派の「ドイツ国家人民党 (DNVP) 」のどちらかと連立を組むことに迫られたが、まとまらずにマルクス内閣は12月15日に総辞職。
代わってエーベルト大統領から組閣を命じられた財相のハンス・ルター(無所属)は右に政権を広げることを選択し、1925年1月15日、国家人民党・人民党・中央党・バイエルン人民党を与党とするルター内閣が創設されることとなった。
ヒトラー個人についての細かい考察や、ヴァイマル共和制時代のドイツの歴史についてのまとめについては、以下のまとめもご参照ください。
「セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』の読書まとめ」 https://ncode.syosetu.com/n4435es/
『ヒトラーが政権を掌握するまでの略歴(神野正史『世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した』等からのまとめ)』 https://ncode.syosetu.com/n3752fe/