ヴェルサイユ条約の調印からカップ一揆の発生まで
第一次世界大戦後、ドイツ帝国に代わって誕生したヴァイマル共和国がヒトラーのナチスによって支配されるまでの議会の変遷についてのまとめ。その③
ヴェルサイユ条約の調印からカップ一揆の発生まで。
本文は神野正史氏の『世界史劇場』や、ネットのコトバンクやウィキペディアなどを参照してつくっています。
「セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』の読書まとめ」https://ncode.syosetu.com/n4435es/の、こちらのほうの参考のためのものなので、こちらのほうもどうぞ。
「ヒトラーが政権を掌握するまで」https://ncode.syosetu.com/n3752fe/1/の、こちらのほうにはより簡単なヴァイマル共和国の歴史の流れを追うまとめを載せています。
◆ ヴェルサイユ条約の調印からカップ一揆の発生まで
● 「パリ講和会議」の開催と米ウィルソン大統領による「十四ヶ条の平和原則」の提示
1919年1月18日から20年の8月10日まで、第一次世界大戦後の戦後処理について話し合うための「パリ講和会議」が開催される。
32ヶ国が参加したが、重要案件の審議は戦勝国であるアメリカ(ウィルソン)、イギリス(ロイド=ジョージ)、フランス(クレマンソー)、イタリア(オルランド)、日本(西園寺公望)の5大国で構成される「十人委員会」(五大国の元首と外相それぞれ2名ずつで構成)によって握られ、敗戦国であるドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、オスマンといった国々は一ヶ国たりとも呼ばれなかった。
しかし、そこから先ず日本が情報漏えい問題を口実にして追い出され、さらにイタリアもフィウメ問題で米英仏と対立して途中退席したため、
結局、パリ講和会議は、米・英・仏の「三巨頭」で利権を貪り合う場と化していった。
パリ講和会議は、米大統領トーマス・ウッドロー・ウィルソンが示した「十四ヶ条の平和原則」によって処理されていくことが決まった。
「十四ヶ条の平和原則」とは、以下の14。
1、講和交渉の公開・秘密外交の廃止
2、海洋(公海)の自由
3、関税障壁の撤廃(平等な通商関係の樹立)
4、軍備縮小
5、植民地の公正な処置
6、ロシアからの撤兵とロシアの政体の自由選択
7、ベルギーの主権回復
8、アルザス=ロレーヌのフランスへの返還
9、イタリア国境の再調整
10、オーストリア=ハンガリー帝国内の民族自治
11、バルカン諸国の独立の保障
12、トルコ支配下の民族の自治の保障
13、ポーランドの独立
14、国際平和機構の設立
米ウィルソンは、建前上は、「二度とこんな悲惨な戦争が起こらないように、国際秩序を乱す国を監視する国際平和機関を創ろう!」と訴えたが、本音では、自らが提案した国際機関を利用して国際政治を支配し、アメリカがイギリスに代わって世界に君臨する”アメリカ世界帝国”を建設するための牙城として利用していくことを考えていた。
当時、アメリカの経済力・軍事力は他を圧倒していた。
ウィルソンは創設予定の国際連盟に、連盟の意向に逆らう敵が現れた場合、その敵を倒す「連盟軍」の必要性を主張したが、それはアメリカの軍事力で連盟を牛耳ることが狙いだった。
しかしその提案は、イギリスの強硬な反対によって退けられ、国際連盟の持つ「強制力」は、外交調停や経済制裁のみに限定される結果となった。
また、アメリカは「十四ヶ条」の第5条に「民族自決の原則」を掲げ、ウィルソンはこれによって英仏が世界各地に有していた植民地を剥奪して力を弱めることを画策したが、英仏はこの提案に対し、
「植民地人はキリスト教も知らず、民主主義も知らぬ野蛮で劣等な民族であるから、我々がちゃんと導いてやらねば秩序が保てないのだ!
我々が蛮族どもを支配するのは、やつらに秩序を与えてやるために慈善事業のようなものだ!
これを妨げることは正義に反する!」と反論。
英仏は、戦前、植民地だったところを「今すぐ解放」すれば、自立すらできない彼らのためにならないとし主張し、
そこで、英仏が戦前に所有していた植民地は、いつか彼らが自立できる日まで、先ずはいったん連盟に預けるという形を取り、そこからまた改めて、連盟は預けられた旧植民地を、野蛮人たちが自立できるように導いていくため、適当な国(旧宗主国)に統治を委任するというシステムが取られることとなった。
そうして、第一次世界大戦後、戦前までは「植民地」と呼ばれていたものが、戦後は「委任統治領」と呼び名が変えられることとなったが、実態は植民地のままだった。
さらにウィルソンは、「勝利なき講和」を掲げ、ドイツから領土の割譲を求めず、賠償金も取らず、ドイツの戦後復興も認めることを提案したが、これもアメリカが戦後、左傾化していたドイツを右に引き戻し、復興後のドイツをアメリカの”市場”として利用することを狙いとしていたが、英仏の反対によって成し遂げられることはなかった。
イギリスはドイツに対し、領土の割譲は要求せず、戦後の経済復興も認めたが、ただし賠償金は放棄せず、ドイツに海軍を再建させることも認めなかった。
フランスも、フランスは大戦でドイツに苦しめられた恨みと恐怖から、アメリカからの要求はすべて拒絶し、ドイツに対しては立ち直れないほどの巨額の賠償金請求および領土の割譲を求め、戦後の経済復興も認めない態度を示した。
● 「国際連盟」の発足
ウィルソンが示した「十四ヶ条の平和原則」の第14条に基づいて「国際連盟」が設置される。
国際連盟は1920年1月10日、連盟規約全26ヶ条を掲げ、世界42ヶ国を原加盟国として発足。
連盟組織は
・事務局 → 行政府(内閣)・・・政府
・総会 → 立法府(衆議院)・・・下院
・理事会 → 立法府(参議院)・・・上院
という三つの主要機関と、
・常設国際司法裁判所 → 司法府(裁判所)
などをはじめとするいくつかの専門機関で構成された。
しかし総会における議決方式は「全会一致」が原則とされたため、複雑な利害が絡む国際外交問題の処理では、かえって機能不全を引き起こす結果となった。
また理事会においても、初め英・仏・伊・日の「常任理事国」とベルギー・ギリシア・スペイン・ブラジルの「非常任理事国」の合わせて8ヶ国で発足したが、肝心のアメリカが不参加となったために、発言力の弱いものとなった。
アメリカでは、国際連盟に参加することで国際政治を牛耳ろうとしたウィルソン大統領とは反対に、アメリカ議会はむしろ国際連盟に参加することで将来、ヨーロッパの紛争にアメリカが巻き込まれることを恐れて条約の批准を否決し、アメリカの国連参加が見送られることとなった。
それと、国際問題を裁く司法機関として創設された常設国際司法裁判所でも、連盟加盟国の中から、国際司法裁判所の決定に従いますという国がまったく現れず、何の強制性も持たない機関となってしまった。
● ヴェルサイユ条約の調印とドイツの領土喪失
ヴェルサイユ条約(1919年6月28日調印)は敗戦国の一国であるドイツと他の戦勝国との間で結ばれたドイツの戦後処理についての取り決めで、とりわけフランスはドイツに対し重い制裁と戦後賠償を求めた。
その結果フランスはドイツから、
・普仏戦争で奪われていたアルザス・ロレーヌ地方の奪還。
・ラインラント左岸を期間限定の「保障占領」(15年)とする。
・ラインラント右岸の50kmを武装禁止(非武装地帯)とする。
・ザールを連盟管理の委任統治領としてフランスに預け(35年)、期限が切れる35年後に住民投票を実施しフランスとドイツのどちらの領土にするかの決定をさせる。
といった領土についての権益をもぎ取る。
「ラインラント」とは、ドイツ領のライン川両岸地帯をいい、アルザス・ロレーヌ、ザール、ズデーテン、ルールといった大戦前のドイツにおいて、特に鉄鋼や石炭などの地下資源豊富な工業地帯だった。
他にも、ドイツは保有していた海外植民地をひとつ残らずすべて没収されて戦勝国に分け与えられ、
また、軍隊も、
・徴兵制の禁止
・陸軍は10万人以下に制限し、毒ガスや戦車などの近代兵器の製造を禁止。
・海軍は10万t以下に制限し、潜水艦や空母などの近代兵器の製造を禁止。
・兵器の輸入も一切禁止。
という、事実上の武装解除をされることとなった。
なお、戦後の賠償金については、戦争責任はドイツにあるとし、ドイツに賠償金を支払わせることは決められたが、具体的な金額については折り合いがつかず、棚上げにされることとなった。→(1921年の「ロンドン会議」で、1320億ゴルドマルクに決定される)
● 「カップ一揆」の発生
第一次世界大戦の講和会議としてパリで開催された「パリ講和会議」は、1919年1月18日から1920年の8月10日まで続けられたが、ドイツとの講和についての「ヴェルサイユ条約」は1919年6月28日に、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿鏡の間で調印された。
一方、社会主義者たちによる「ドイツ革命」の結果「ドイツ共和国」となったドイツでは、急進過激派の共産主義者たちによる革命運動を鎮圧したあと、1919年1月19日に、第一回となる「1919年ドイツ国民議会選挙」を実施。
そして1919年2月6日から開かれた「国民会議」でそれまでの皇帝制に代わる大統領制が規定された民主的な「ヴァイマル憲法」が起草されると、
1919年2月11日に、ヴァイマル共和政による初の第一回大統領選挙が実施され、その結果、それまで臨時政府の首相を務めてきたドイツ社会民主党(SPD)のフリードリヒ・エーベルトが、ドイツ国の初代大統領に選ばれることとなった。
大統領となったエーベルトに代わって、新首相には同じドイツ社会民主党 (SPD) からフィリップ・シャイデマンが就任したが、シャイデマンは、パリ講和会議において連合国側が提示した内容があまりに制裁的であったことに、
「講和条件はドイツへの死刑宣告である!」
と激怒し、さらに政府内のヴェルサイユ条約受諾を支持する勢力との対立も深め、彼はヴェルサイユ条約の調印を待つことなく、1919年6月20日に首相とSPD党首を辞任してしまう。
また、ヴァイマル共和制連合として連立を組んでいた「ドイツ社会民主党 (SPD) 」「中央党 (Zentrum) 」「ドイツ民主党 (DDP) 」の内、左派のブルジョワ政党である「ドイツ民主党 (DDP) 」が、やはりヴェルサイユ条約の調印に反対して連立を離脱していった。
ヴェルサイユ条約は、辞任したシャイデマンに代わって首相の座に就いた同党のグスタフ・バウアーによって調印される。
しかし、ドイツがヴェルサイユ条約の調印をすると、戦勝国である連合軍はさらに畳みかけて、
「フライコールを解散せよ!」
と要求してきた。
「フライコール(義勇軍)」とは、このころドイツにはびこるようになっていた非合法軍事組織のことで、フライコールはヴェルサイユ条約で決められた大幅な軍事制限によって生み出された大量の行き場のない退役軍人たちによってつくられた。
正規のドイツの「国防軍」に対して、ヴェルサイユ条約で認められていない非合法の国防軍ということで、「黒い軍隊」とも呼ばれていた。
しかし、ヴェルサイユ条約によってドイツの正規軍は10万に制限されていたにもかかわらず、フライコールは40万もの規模になっていた。
グスタフ・バウアー首相は、連合国からのフライコール解散要求を受け入れるが、するとさらに、連合国は彼らが勝手にリストアップした「戦争犯罪」900人を引き渡せとの要求をしてきた。
が、連合国側にとっては戦争犯罪人かもしれないが、当のドイツにとっては戦中祖国のために命を賭けて戦った戦士たち。
バウアー首相もこの要求はさすがに拒絶し、連合国側にも引け目があったのかあっさり要求を取り下げたが、ただフライコール解の要求は受け入れることにして、グスタフ・ノスケ国防相に解散を命じた。
しかしこのノスケ国防相からの解散命令に対し、フライコールの一部隊であった「エアハルト海兵旅団」の団長ヴァルター・フライヘル・リュトヴィッツ中将は激怒して、当時最右翼の政治家として名を馳せていたヴォルフガング・カップを祀りあげて、政府打倒の反乱の兵を挙げた。
これが「カップ一揆」で、驚いたノスケ国防相は、ただちにフリードリヒ・ゼークト兵務局長(ドイツ帝国における参謀総長だった地位)に鎮圧を命じたが、ゼークト局長は、
「軍は軍を討たず!
閣下はたった一年半前まで共に敵と戦った戦友を殺せとおっしゃるのか!?」
と、命令の受諾を拒否。
軍が動かなかったため、首都ベルリンはあっという間に叛徒たちに占拠され、カップは「ドイツ第二帝国」の復活を宣言。
カップはその首相の地位に就き、リュトヴィッツをその国防相に就かせた。
一揆は成功したかにみえたが、ドイツ共和国政府首脳は南独のシュトゥットガルドへと大統領府を遷し、さらにここから全国の労働組合を通して左派の労働者たちにゼネストを呼びかけて抵抗を続けた。
政府の呼びかけたこのゼネストは思いのほか効果を見せ、また、一揆の首謀者であるリュトヴィッツ中将と、そのお飾りだったはずのカップの対立が表面化し、内部抗争が災いして、一揆は結局わずか5日間で失敗に終わる結末となった。
● 「1920年ドイツ国会選挙」の実施(ドイツ革命後2回目の総選挙)
カップ一揆は、ドイツ革命を成功させヴァイマル共和制を実現させた左翼・革命派の労働者たちの力を借りて鎮圧させたが、すると今度はその労働者たちの側から「プロレタリア独裁による政治権力の実現」を目標とした共産革命運動となる「ルール蜂起」(1920年3月13日~4月12日)が発生してしまう。
これに対してヴァイマル共和国政府は、カップ一揆鎮圧のために派遣されていた共和国軍および複数の義勇軍組織をそのまま左派反乱の鎮圧に充てることによって共産革命を抑え込んだ。
しかしグスタフ・バウアー首相は、カップ一揆に対する対応のまずさから党や労働組合の支持を失い、1920年3月26日に首相を辞任。
そしてバウアー首相に代わって就任したドイツ社会民主党 (SPD) のヘルマン・ミュラー首相のもと、
1920年6月6日、ドイツ革命後、2回目となる「1920年ドイツ国会選挙」の総選挙が実施される。
<1920年ドイツ国会選挙>
前回、共和制移行後のドイツで初めて行われた第一回となる「1919年ドイツ国民議会選挙」では、革命派のヴァイマル連合の三党(ドイツ社会民主党、中央党、ドイツ民主党)が圧倒的大勝を収めたが、第二回目となる今回の「1920年ドイツ国会選挙」では、
反対にヴァイマル連合が大幅に議席数を落とし、ヴァイマル共和国否定派が大きく躍進する選挙となった。
臨時政府でドイツ社会民主党 (SPD)と連立を組み、その後対立して離脱し、プロレタリア独裁の観点からヴァイマル共和政を否定する立場にたつこととなっていた「ドイツ独立社会民主党 (USPD)」や、
帝政復古の立場からヴァイマル共和政を否定する右翼の「ドイツ国家人民党 (DNVP) 」、その他ではリベラル派の「ドイツ人民党 (DVP)」などが躍進する結果となった。
党名 得票率 (前回比) 議席数 (前回比)
ドイツ社会民主党 (SPD) 21.7% -16.2% 102 -61
ドイツ独立社会民主党 (USPD) 17.9% +10.3% 84 +62
ドイツ国家人民党 (DNVP) 15.1% +4.8% 71 +27
ドイツ人民党 (DVP) 13.9% +9.5% 65 +46
中央党 (Zentrum) 13.6% -6.1% 64 -27
ドイツ民主党 (DDP) 8.3% -10.3% 39 -36
バイエルン人民党 (BVP) 4.4% - 21 -
ドイツ共産党 (KPD) 2.1% - 4 -
ドイツ=ハノーファー党 (DHP) 1.1% +0.8% 5 +4
バイエルン小作農連盟 (BB) 0.8% -0.1% 4 +/-0
諸派 1.1% +0.3% 0 +/-0
合計 100.0% 459 +38
選挙後、ドイツ社会民主党 (SPD) 大敗という結果を受けて、ヘルマン・ミュラー首相は1920年6月8日に、就任後3ヶ月たらずで首相を辞任することとなった。
ヒトラー個人についての細かい考察や、ヴァイマル共和制時代のドイツの歴史についてのまとめについては、以下のまとめもご参照ください。
「セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』の読書まとめ」 https://ncode.syosetu.com/n4435es/
『ヒトラーが政権を掌握するまでの略歴(神野正史『世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した』等からのまとめ)』 https://ncode.syosetu.com/n3752fe/