スパルタクス団の乱鎮圧からヴァイマル体制の確立まで
第一次世界大戦後、ドイツ帝国に代わって誕生したヴァイマル共和国がヒトラーのナチスによって支配されるまでの議会の変遷についてのまとめ。その②
スパルタクス団の乱鎮圧からヴァイマル体制の確立まで。
本文は神野正史氏の『世界史劇場』や、ネットのコトバンクやウィキペディアなどを参照してつくっています。
「セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』の読書まとめ」https://ncode.syosetu.com/n4435es/の、こちらのほうの参考のためのものなので、こちらのほうもどうぞ。
「ヒトラーが政権を掌握するまで」https://ncode.syosetu.com/n3752fe/1/の、こちらのほうにはより簡単なヴァイマル共和国の歴史の流れを追うまとめを載せています。
◆ スパルタクス団の乱鎮圧からヴァイマル体制の確立まで
● ドイツ革命の勃発
第一次世界大戦末期の1918年11月、ドイツ帝国内で発生した「キール軍港の水兵反乱」をきっかけにドイツの全国各地に「労兵評議会」と呼ばれる労働者と兵士たちによる協議会が誕生し、この「労兵評議会」の力によってドイツ帝国は打倒され、「ドイツ共和国」として生まれ変わることとなった。
1918年の大戦末期、イツ帝国の敗色が濃厚になり始めると、ドイツ各地で兵士達によるストライキやサボタージュが発生するようになり、1918年の夏頃にはドイツ各地でストライキ委員会として「レーテ」が自然発生的に結成されるようになった。
11月3日、キール軍港の反乱でも水兵たちによる「レーテ」が結成され、翌日の11月4日には4万人にまで膨れ上がった水兵・兵士・労働者たちによるレーテによって市と港湾が制圧され、艦に赤旗が掲げられる結果となった。
さらに、キールノレーテに参加していた水兵たちが反乱の成功の後全国に散らばり、その先で新たなレーテ結成を助け、レーテはドイツ帝国の首都ベルリンにまで迫って包囲するほどの成長を遂げる。
ドイツで発生した労兵レーテはプロレタリア階級による貴族とブルジョワの打倒を目指した階級闘争の様相を帯び、ドイツ社会民主党(SPD)から分派独立していた急進左派の「スパルタクス団」は、この機にソヴィエトと同じ社会主義革命を起こすべく、「社会主義共和国」樹立の宣言を出そうと企てる。
「キール軍港の水兵反乱」発生時にドイツ帝国首相だったマクシミリアン・フォン・バーデン大公は、首相の座を、労働者からの支持が厚かったドイツ社会民主党(SPD)党首のフリードリッヒ・エーベルトへと明け渡す。
エーベルトは帝政の維持を考えていたが、スパルタクス団の行動に危機を感じた同党のシャイデマンが、スパルタクス団より機先を制して「共和国樹立の宣言」を出し、こうして1918年11月9日、ドイツ帝国は終焉を迎え、ドイツは共和制の国へ新しく生まれ変わることとなった。
● 臨時政府の分裂と左派勢力同士の争いによる共産革命潰し
共和国宣言を出したドイツ社会民主党(SPD)では、かつて同党から分派して結成された「ドイツ独立社会民主党(USPD)」と組んで臨時政府となる「人民代表評議会」を発足させる。
しかし、選挙による「国民議会」の創設が必要だとする社民党(SPD)に対し、独立社民党(USPD)のほうは社会主義共和国の成立とレーテによる三権の掌握を主張して対立が深刻化。
臨時政府の首相エーベルトは、旧ドイツ帝国軍を政権に取り込み、軍と協同して、あくまでレーテによる社会主義革命を断行しようとする急進過激派の排除に乗り出す。
しかしこの動きに独立社民党(USPD)は反発して1918年の12月29日連立から離脱。
12月30日にはそれまで独立社民党(USPD)に所属して活動していたスパルタクス団によって新たに「ドイツ共産党」が誕生し、
1919年1月5日、スパルタクス団はボルシェビズムによる共産主義革命の実現を目指して「スパルタクス団の乱」を起こすが、政府によって鎮圧させられる。
● 「1919年ドイツ国民議会選挙」(第一回)の実施
スパルタクス団の乱を鎮圧した臨時政府は、1919年1月19日、共和制移行後の新政府として初めてとなる議会総選挙を実施する。
ドイツの選挙では初めて、各政党が獲得した投票数に比例して議席が配分される「比例代表制」が採用され、選挙区の区割りも人口集中地に議席が多く配分されるように一新。
前回の選挙と比べて選挙権年齢も25歳から20歳に引き下げられ、女性の参政権も認められた。
選挙の結果、政権担当政党だったドイツ社会民主党 (SPD)で単独過半数の議席を獲得するには至らなかったが、ヴァイマル共和政を擁護する「ヴァイマル連合」(ドイツ社会民主党、中央党、ドイツ民主党)では76.2%の票を集めて大勝を収め、連立政権を組んで政権運営を担っていくこととなった。
<1919年ドイツ国民議会選挙>
党名 得票率 議席数
ドイツ社会民主党 (SPD) 37.86% 163
中央党 (Zentrum) 19.67% 91
ドイツ民主党 (DDP) 18.56% 75
ドイツ国家人民党 (DNVP) 10.27% 44
ドイツ独立社会民主党 (USPD) 7.62% 22
ドイツ人民党 (DVP) 4.43% 19
バイエルン小作農連盟 (BB) 0.91% 4
ドイツ=ハノーファー党 (DHP) 0.25% 1
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン小作農民主党 (SHBLD) 0.19% 1
ブラウンシュヴァイク選挙人協会 0.19% 1
諸派 0.06% 0
合計 100.0% 421
● ヴァイマル憲法の制定とヴァイマル共和体制の樹立
「1919年ドイツ国民議会選挙」後の1919年2月6日、憲法制定のための国民会議が、旧ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の首都であったヴァイマルの地で開かれ、ここで当時最も民主的とされた「ヴァイマル憲法」が起草され、ヴァイマル共和政の樹立が定まった。
ヴァイマル憲法は正式には「ドイツ国家憲法」といい、
初代大統領に選出されたフリードリヒ・エーベルトが1919年8月11日に調印し制定、8月14日に公布・施行となる。
ヴァイマル憲法は、主権者を国民とし、財産に制限をつけない20歳以上の男女平等の普通選挙による議会政治と国民の直接選挙で選ばれる大統領制を採用し、また、世界で初となる労働者の団結権などの社会権の保障が明記された、当時における、世界で最も民主的な憲法となった。
一方で、体制としては領邦を州へ格下げし中央集権体制が強化され、また、国家の元首と規定された大統領にも、大統領は陸海空軍を統べる統帥権に加え、首相に対する任免権や議会を解散させる権利や、いざとなれば憲法を停止させることさえできる「非常大権」を持つなど、ほとんど帝国時代の皇帝と変わらない強大な権力が与えられることとなり、それが後のナチスによる独裁を生む要因ともなった。
※「ヴァイマル憲法」の内容
・ ドイツ共和国は共和国で、国家権力は国民に由来する。<第1条>
・ ライヒ議会はドイツ国民の選出する議員で構成される。<第20条>
・ 議員は、普通、平等、直接および秘密の選挙において、比例代表の諸原則に従い、満20歳以上の男女によって選出される。<第21条>
・ 大統領は首相の任免権と議会の解散権を有するが、議会は不信任決議をすることで首相を罷免させることができる。
・ 議会は、国民代表の「国家議会」(Reichstag)と、諸州代表の「国家参議院」(Reichsrat)からなる両院制。
・ 国家議会の選挙区は35、さらにいくつかの選挙区を結合した16の選挙区連合、そして一つの全国区からなる。
・ 国家議会の選挙方式は比例代表制で、厳正拘束名簿式。得票6万票ごとに一人が議員に選出されるため、議員定数は存在しない。
・ 国家参議院のほうは諸州から送りこまれる代表者から構成される。
・ ドイツ共和国は、直接選挙で選ばれる国家大統領(任期7年)を国家元首とする。
・ 大統領は国民が直接選挙で選び任期は7年。
・ 大統領は、首相の任免権と議会の解散権を有する。
・ 大統領は、志願兵からなる国軍(Reichswehr)を直接指揮・監督する。
・ 大統領は、ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるときは、ライヒ大統領は、公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる。この目的のために、ライヒ大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の自由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる。<第48条>
ヴァイマル憲法では、より民意を反映させることを目的として「比例代表制」による選挙制度が採用されたが、最低得票率制限がなく、そのために小党分立状態が出現し、そのことがかえって政党政治の混乱を生みだす原因にもなってしまった。
当初のうちは、議会で多数を得られる人物が大統領によって首相に指名されていたが、1930年以降は、議会に基盤を持たないヒンデンブルク大統領の指名のみを基礎とする「大統領内閣」がつくられ、そしてヒンデンブルク大統領の死と共に、ヒトラーによってヴァイマル憲法は有名無実化されていくこととなる。
また、大統領には第48条で、公共の秩序回復のためには武力行使を含めた緊急手段をとることが認められたが、この大統領緊急命令権と議会解散権は、のちにヒトラーがヴァイマル憲法を無効化することにも利用され、この規定がナチズムの台頭を許す要因の一つともなった。
● 第一回大統領選挙の実施
1919年2月6日から開かれた「国民会議」を経て、
1919年2月11日、ヴァイマル共和政による初の第一回大統領選挙が実施され、その結果、これまで臨時政府で首相を務めてきたドイツ社会民主党(SPD)のフリードリヒ・エーベルトが、ドイツ国の初代大統領に選ばれた。
エーベルトは2月13日まで首相兼任状態で、1919年2月13日からは、同じイツ社会民主党(SPD)のフィリップ・シャイデマンが、 エーベルトに代わってドイツ国首相に選ばれて就任した。
エーベルトは1925年2月28日に54歳で死去するまでヴァイマル共和国の大統領で在り続けるが、エーベルトは後のヒンデンブルクよりも上回る回数でワイマール憲法第48条を濫発し、左派労働者の暴動を右派義勇軍を使って抑制した大統領でもあった。
ヒトラー個人についての細かい考察や、ヴァイマル共和制時代のドイツの歴史についてのまとめについては、以下のまとめもご参照ください。
「セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』の読書まとめ」 https://ncode.syosetu.com/n4435es/
『ヒトラーが政権を掌握するまでの略歴(神野正史『世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した』等からのまとめ)』 https://ncode.syosetu.com/n3752fe/