ドイツ革命の勃発からスパルタクス団の乱まで
第一次世界大戦後、ドイツ帝国に代わって誕生したヴァイマル共和国がヒトラーのナチスによって支配されるまでの議会の変遷についてのまとめ。その①
ドイツの敗戦からドイツ社会民主党(SPD)政権によるドイツ革命の勃発とドイツ共和国の誕生、および政権与党の分裂と左派勢力同士の争いによる共産主義革命の弾圧まで。
本文は神野正史氏の『世界史劇場』や、ネットのコトバンクやウィキペディアなどを参照してつくっています。
「セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』の読書まとめ」https://ncode.syosetu.com/n4435es/の、こちらのほうの参考のためのものなので、こちらのほうもどうぞ。
「ヒトラーが政権を掌握するまで」https://ncode.syosetu.com/n3752fe/1/の、こちらのほうにはより簡単なヴァイマル共和国の歴史の流れを追うまとめを載せています。
◆ 第一次世界大戦の敗戦から「ドイツ革命」の勃発
● 第一次政界大戦末期の敗戦処理
第一次世界大戦末期、ドイツ帝国は敗戦濃厚となり、政府は和平交渉の段階へと入る。
1918年10月4日、連合国との講和を目的とするバーデン大公子マクシミリアン内閣が発足。
「ドイツ社会民主党 (SPD)」 と「中央党 (Zentrum) 」と「進歩人民党(FVP)」(→のちにドイツ民主党(DDP)へと改組)が政権に参加した。
マクシミリアンはアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが主張した「ドイツ軍部や王朝的専制君主は交渉相手とは認めない」という交渉資格の要求をクリアーするため、議院内閣制導入など様々な改革を実施した。
※ドイツ帝国末期のドイツの主な政党
・ヴァイマル共和制連合
「ドイツ社会民主党 (SPD) 」
当時のドイツの最大勢力となる中道左派の社会民主主義政党。
社会主義の政党だが、ロシア帝国を打倒したマルクス主義による急進的な社会主義革命は否定し、第一次世界大戦に敗北した後のドイツ帝国を解体しつつも、軍部・官僚・資本家などの旧勢力と連合し、新しいドイツを立憲君主政体から、資本主義、自由主義の、ブルジョワ共和制の国へと導いた。
「中央党 (Zentrum) 」
農民を主な支持基盤としたカトリック系の中道保守政党。
「進歩人民党(FVP)」→「ドイツ民主党 (DDP) 」
左派のブルジョワ政党。
第一次世界大戦後の1918年に国民自由党左派と合同してドイツ民主党(DDP)に改組される。
・リベラル勢力
「ドイツ人民党(DVP)」
ヴァイマル共和政期のリベラル右派の政党。
1918年の革命によって消滅した国民自由党の右派がグスタフ・シュトレーゼマンの指導下に進歩人民党の一部と合体して組織された当時のドイツの自由主義を代表する政党で、特に知識人、経営者層に支持された。
・左派勢力
「ドイツ独立社会民主党(USPD)」
第一次世界大戦中の1917年に、ドイツ社会民主党(SPD)の戦争支持の方針に反発して離党した者たちにより結成された社会主義左派の政党。
「ドイツ共産党(KPD)」
1918年12月に、スパルタクス団が改称してできた共産主義革命を目指す共産主義政党。
スパルタクス団は、ドイツ社会民主党(SPD)の戦争支持の方針に反発してドイツ独立社会民主党(USPD)を結成した者たちと同じ理由で、1916年1月に、SPDから離れた社会民主党内左派のローザ=ルクセンブルクとカール=リープクネヒトらによって結成された革命団体。
スパルタクス団は1917年中は独立社会民主党(USPD)に所属して活動していたが、1918年10月、
社会民主党のエーベルトらによって起こされたブルジョワ議会制民主主義によるドイツ革命に反発し、ロシアの十月革命にならった共産主義革命を実現すべく、スパルタクス団から改組して独立した政党となる「ドイツ共産党(KPD)」を結成。
・右派勢力
「ドイツ国家人民党(DNVP)」
ヴァイマル共和政期の保守・右派政党。
第一次世界大戦後の1918年12月に、ドイツ保守党(DKP)や自由保守党(FKP)など帝政時代の保守政党が合同して結党された政党。
ヴァイマル共和政に反対する保守野党としてリベラルな政府と徹底対決した。
のちに、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)と反政府で共闘し、1933年に成立したヒトラー内閣に連立与党として参加するが、同年中にヒトラーの圧力により自主解散させられた。
「ドイツ労働者党(DAP)」→「国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP:ナチス) 」
ドイツ革命後の1919年にミュンヘン州のほうで設立された極右政党。
ドイツ労働者党(DAP)は「トゥーレ協会 」という1918年にミュンヘンで結成された秘密結社のメンバーの1人だったアントン・ドレクスラーによって設立される。
トゥーレ協会は超国家主義・反ユダヤ主義を標榜した極右団体で、第一次世界大戦後の1919年にバイエルン州で成立した「バイエルン・レーテ共和国」という社会主義政権の打倒に大きな力を及ぼした。
ドレクスラーによって設立されたドイツ労働者党(DAP)は当初は党員40名の泡沫政党に過ぎなかったが、この党に1919年9月、ドイツ陸軍の伍長だったアドルフ・ヒトラーが入党を果たすと、DAPは党の規模を急成長させていく。
ドイツ労働者党(DAP)はヴェルサイユ条約を認めず、ユダヤ人の皆殺しやヴァイマル政府の打倒を叫んでいた過激な極右政党で、ヒトラーは元々はドイツ陸軍から命じられて、そのドイツ労働者党(DAP)の活動内容を軍に報告するために送り込まれたスパイだった。
しかしヒトラーは党首ドレクスラーの思想に共鳴し、ドレクスラーからもその演説能力や組織を作りあげる政治手腕を認められて正式な党員となり、軍のほうも除隊。
ヒトラーの指導により党勢を拡大させていったDAPは、
1920年2月24日に「国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP:いわゆるナチスと呼ばれる政党)」へと改称し、「25ヶ条綱領」を制定する。
※「25ヶ条綱領」
第1条 民族自決に基づく大ドイツ国家主義の主張
第2条 ヴェルサイユ条約の破棄
第3条 追加的領土の要求
第4条 ユダヤ人排除の要求
第5条 外国人法の適用要求
第6条 適正な人材登用のための議会闘争宣言
第7条 国民生計維持のための外国人国外追放
第8条 これまで以上の移民制限
第9条 権利と義務の平等
第10条 全体主義の主張
第11条 不労所得の撤廃、寄生地主の打倒
第12条 戦時利得の没収要求
第13条 大企業の国有化
第14条 大企業の利益の再分配
第15条 老齢保障制度の強化
第16条 健全な中産階級の育成と中小企業の支援
第17条 土地所有の改革と投機の制限要求
第18条 高利貸し、闇商人などへの死刑要求
第19条 ローマ法に代えてドイツ一般法の適用要求
第20条 教育制度の徹底的拡充
第21条 少年労働禁止と肉体鍛錬教育の国家支援
第22条 傭兵の廃止とドイツ軍再建を要求
第23条 ドイツ民族による報道機関の創造
第24条 国家公益に反しない限り信教の自由を付与
第25条 強力な独裁政府を要求
ナチ党では他に、ハーケンクロイツの党旗や党服を作ったり、「ハイルヒトラー!」の掛け声で有名なナチス指揮敬礼も導入。
また、ナチス集会を妨害してくる者たちからの防衛や、逆に自分たちのほうから反対集会に殴り込みをかけたり、街頭宣伝や示威行進などを行うための実行部隊として、エルンスト・レームを隊長に据えた「整理隊」を組織。
この整理隊が、「突撃隊(SA)」として成長して行く。
しかし1921年7月、党内で権勢を拡大させていくヒトラーに危機感を抱いたドレクスラーが、ヒトラーの党内での力を弱めようとドイツ社会民主党(SPD)との共闘・統合の話を進めるが、露見して逆にドレクスラーのほうが名誉議長に棚上げされて実権を奪われ、ヒトラーに第一議長(党首)の座を奪われる。
ヒトラーはこのとき自らを唯一絶対の指導者とする独裁権を党内で確立し、このころからヒトラーは党内の支持者たちから指導者を意味する「Führer」(フューラー)と呼ばれるようになる。
● 「キール軍港の水兵反乱」の発生と「ドイツ革命」への発展
第一次世界大戦に、ドイツ帝国は敗戦濃厚となるが、外洋艦隊司令官のRラインハルト・シェールは、
「このままでは死んでも死にきれん!!たとえ全滅しても名誉ある最期を!」と、彼は、政府にも皇帝にも許可なく、勝手に出撃命令を出してしまう。
しかしユトランド沖海戦でやらてた艦の修理も済んではおらず、まともに動ける艦もなく、そのうえ弾薬も、食糧も、燃料もない状態で、これではただ死にに行けと言われているようなものだった。
命令を受けたヴィルヘルムスハーフェン軍港の水兵たちはびっくりして、これは自殺命令に等しい!と反発してシェール司令官からの復命を拒否。
そのため軍命違反の反逆罪で600人もの逮捕者を出す騒動となるが、これを見ていた、キール軍港の水兵らが逮捕されたヴィルヘルムスハーフェン水兵の釈放を訴えてデモを起こした。
しかしこれに当局は「発砲」という強行手段に出たことで水兵たちの応戦を招き、反乱へと発展していってしまう。
1918年11月4日に発生した「キール軍港の水兵反乱」は、あれよあれよという間に全ドイツへと拡大。
キール軍港の水兵たちが起こした反乱は、労働者がこれに加わって大勢力となり、各地で労働者と兵士が連帯してロシア革命を成功させたソヴィエトにならった「労兵評議会」が結成されていった。
そして他の主要都市でも次々と蜂起が起き、レーテがドイツの各主要都市を掌握するに至る。
11月9日には、革命の火の手は帝都ベルリンにまで波及。
労働者を中心にしたデモは、「パンをよこせ!」「皇帝は責任を取って退位しろ!」と迫った。
ドイツ帝国首相だったマクシミリアン・フォン・バーデン大公は、国体(帝制)の護持を条件にドイツ皇帝ヴィルヘルム二世に退位を求めるが拒絶されたため、独断で皇帝の退位を勝手に宣言し、自身も辞職して、後事を労働者からの支持が厚かったドイツ社会民主党(SPD)党首のフリードリッヒ・エーベルトに託す。
ドイツ社会民主党は社会主義の政党だが、第一次世界大戦では階級闘争よりも祖国防衛を優先して、戦争遂行に賛成していた。
エーベルトはバーデンと同様、帝制の維持を必須だと考えていたが、これに対し、ドイツ社会民主党(SPD)から分派独立していた急進左派の「スパルタクス団」は、
キール軍港の水兵反乱によってドイツ各地に誕生していた労兵評議会へ権力を集中し、ドイツでも前年に第2次ロシア革命を達成していたソヴィエトと同じように社会主義革命を起こそうと、「社会主義共和国」樹立の宣言を出そうと企てる。
1918年11月9日の午後2時、
スパルタクス団に「社会主義共和国樹立宣言」が出される動きがあることを知ったドイツ社会民主党(SPD)のフィリップ・シャイデマンは、
ドイツが一気に社会主義革命に突入する危険性を恐れて、スパルタクス団よりも先に独断で、ドイツ帝国を解体し「ドイツ共和国」を樹立する宣言を出す。
これにより「ドイツ革命」が成立し、ドイツ帝国は崩壊し、共和制の国となった。
翌11月10日には皇帝ヴィルヘルム二世もオランダへと亡命。
しかし、ドイツ国内の一部の軍人や右翼たちはまだドイツ帝国の勝利を信じていたため、未だ戦争の継続中に国内の社会主義者たちによって引きこされた共和革命を「背後の一突き」と称し、深い恨みを抱くこととなった。
● ドイツ社会民主党(SPD)とドイツ独立社会民主党(USPD)の連合による「人民代表評議会」の発足
1918年11月9日、バーデン大公子マクシミリアン首相がヴィルヘルム2世の退位を発表し、首相の座もドイツ社会民主党(SPD)党首のフリードリヒ・エーベルトに譲って退任。
エーベルト首相は同じドイツ社会民主党(SPD)から分離したドイツ独立社会民主党(USPD)と連合を組んで、
1918年11月10日、社民党と独立社民党が3名ずつ閣僚を出し合って「人民代表評議会」なる仮政府を発足。
臨時政府のエーベルトはブルジョワ議会制民主主義を標榜して、国民議会開催を進めた。
● ドイツ社会民主党(SPD)とドイツ独立社会民主党(USPD)の対立と「スパルタクス団の反乱」
シャイデマンによる「共和国宣言」後、エーベルトは、ただちに、軍部の参謀次長、ヴィルヘルム・グレーナーに電話をかけ、新政府として、旧帝国軍をそのまま新政府軍として認めることを伝え、軍部を味方につけた。
そして1918年11月11日、「コンピエーニュの森の休戦協定」によって、正式に第一次世界大戦の休戦協定が結ばれる。
軍部とドイツ社会民主党(SPD)は、ヴォルシェヴィズムによる共産主義革命の阻止で共に手を組むこととなった。
戦後のドイツでは食糧難が発生し、国内では急進左派のスパルタクス団が、食べていけない貧困労働者階級を煽って、資本主義を打倒し、政府転覆を企んでいた。
これに対し、エーベルトは、アメリカのウィルソン大統領に頼んで食糧支援の要請をすると、それを右から左にドイツ国内の労働者たちに分け与えた。
アメリカにとっても、ドイツが共産化するなど、以ての外のことだった。
こうして、ドイツ国内の社会主義運動はたちまち沈静化していく。
エーベルト政権はドイツ社会民主党(SPD)の単独政権ではなく、ドイツ独立社会民主党(USPD)との連立内閣だったが、エーベルトは自分の思い通りの政治をしていくため、目障りだった独立社会民主党(USPD)の大臣を総辞職に追い込み、警視総監だったエミール・アイヒホルンを更迭する。
アイヒホルンも独立社会民主党(USPD)の人物だった。
エーベルト率いるドイツ社会民主党(SPD)と連合を組んでいたドイツ独立社民党(USPD)だったが、
1918年12月24日、極左の「人民海兵団」が起こした反乱の鎮圧に社民党(SPD)が発砲を許可すると、そのことに反発して、12月29日、遂にドイツ独立社民党(USPD)は社民党政権から離脱をすることとなった。
また、こうした状況に、それまでドイツ独立社民党(USPD)に所属していたスパルタクス団は12月30日に独立して「ドイツ共産党(KPD)」を立ち上げると、ドイツ版十月革命を起こすべく、
年の明けた1919年1月5日から1月12日にかけて、「ドイツ共産党一月蜂起」を決行。(「スパルタクス団蜂起」)
しかしたちまち鎮圧されてしまう。
ローザ=ルクセンブルクとカール=リープクネヒトは殺害され、革命を達成することは叶わず、生まれたばかりのドイツ共産党は壊滅的な打撃を被ったが、しかしその後、ヒトラーの台頭とも歩調を合わせるようにして、ドイツ経済の混乱の中、選挙で議席を伸ばして盛り返していくことになる。
エーベルトはこのときの反乱を、「フライコール」と呼ばれる反革命派の復員軍人を主体とした義勇軍による力で鎮圧をした。
復員兵の多く継戦中のドイツ帝国を敗戦に追い込む「背後の一突き」をもたらした共産主義者たちを激しく憎悪していた。
彼らはドイツ社会民主党(SPD)の一員で国防大臣だったグスタフ・ノスケからの支援を受け、ノスケは彼らをドイツ革命の鎮圧やマルキスト・スパルタクス団の壊滅、1919年のバイエルン・レーテ共和国の打倒などに利用していった。
なお、後のアドルフ・ヒトラーに率いられたナチ党の党員および指導者達(突撃隊指揮官エルンスト・レーム、アウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスなど)の大多数は、この「義勇軍」の出身者だった。
ヒトラー個人についての細かい考察や、ヴァイマル共和制時代のドイツの歴史についてのまとめについては、以下のまとめもご参照ください。
「セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』の読書まとめ」 https://ncode.syosetu.com/n4435es/
『ヒトラーが政権を掌握するまでの略歴(神野正史『世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した』等からのまとめ)』 https://ncode.syosetu.com/n3752fe/